漫才師 ビートきよしさん
漫才コンビ「ツービート」として一世を風靡したビートきよしさん。芸能活動に加え、現在は横浜でカラオケパブを営み、店に立ちつづけています。5年前にネフローゼ症候群を患って以来、人工透析を受ける生活を送っているものの、そのエネルギッシュな姿は変わりません。きよしさんが営む店を訪ね、相方のビートたけしさんとの出会いや近況、そして元気の秘訣についてお聞きしました!
横浜は誰とでもすぐ仲よくなれる下町っぽさがいいんです

僕は昔から、おとなしく家にこもっていられるタイプではなくて、放っておくと夜な夜な飲み歩いて金ばかり使ってしまうんです。だったら、自分で店を構えて、お客さんとしゃべっていたほうが経済的だろうと考えて、横浜にカラオケパブ「スター☆場」を開いたのが3年前のことでした。
僕はかれこれ横浜に40年くらい住んでいますけれど、この街の人たちはみんな気さくで楽しいんですよ。道で行き交う人や酒場で出会う人たちと、すぐに仲よくなれる雰囲気がある。世間的には横浜といえば、みなとみらいのきらびやかなイメージが強いかもしれないけれど、僕が修業時代を過ごした浅草に通じる下町っぽさが、すごく肌に合うんですよね。
今も仕事のない日はいつもここで飲んでいます。といっても、僕は自分勝手だから接客なんてそっちのけで、疲れてくるとすぐにその辺のイスで眠ってしまう。だから、お客さんがいつ帰ったのかも分からない日が多いですけれどね(笑)。
なんにせよ、こういう場所があるおかげで、友人知人も集まってくれるし、「ツービート」を知っている人たちも足を運んでくれます。自分にとってここが、最高の居場所なんですよ。
このように、今ではすっかり横浜に染まっている僕ですが、もともとの生まれは山形県で、生家は奥羽山脈の麓の田舎町にありました。
なにしろ山の中だから、人口も少ないし、食料も乏しい環境だったのを覚えています。新鮮な海産物はまず手に入らず、食卓に並ぶ魚といえば、鮭や鯨の塩漬けくらい。あとは山菜や漬物が少し。今にして思えば、育ち盛りの子どもにとっては、ちょっと物足りない食生活でしたよね。
だから、おなかがすくと畑に忍び込んで、スイカを失敬することもありました。見張り番をしているおじいさんに見つかると、烈火のごとく怒られるのですが、それでも最後はそのスイカを食べさせてくれるのがいつものパターン。おおらかだし、愛情のある時代でした。
たまにほかの地域から、大きな荷物を背負った行商の人がやってくることもありました。僕らのいるような田舎町では、それが日用品や食料を調達する、貴重な流通網だったんです。
彼らは昼時になると、人の家に勝手に上がり込んでくるんですよ。「ちょっとここで弁当を食べさせてください」なんていいながら。うちの母はそういう人たちを快く受け入れて、みそ汁や漬物を振る舞っていました。
そんな田舎暮らしの中でのささやかな楽しみは、旅回りのお芝居でした。たまに一座の人たちがやってくると、夢中になって追っかけたものです。
それがきっかけなのか、学芸会でも演劇をやり、将来は役者になりたいと思うようになりました。というよりも、芸能界に対して漠然とした憧れがあったというのが正確かもしれません。役者じゃなくても、テレビに出られればなんでもよかったんです。まあ、子どもの夢なんてそんなものですよね。
ちなみに、少年時代に初めて劇場で見た映画は『荒野の1ドル銀貨』で、この作品には大きな感銘を受けました。いわゆるマカロニ・ウェスタン(1960年代~1970年代にかけてイタリアで制作された西部劇)で、とにかくすさまじい迫力に圧倒されました。この時の衝撃が忘れられず、今でも洋画ばかり見ているんですよ。
なお、基本的に遊びほうけてばかりだったので、勉強はほとんどやりませんでした。
高校卒業が間近に迫ってくると、僕は東京へ行こうと決意しました。本格的に芸能界を目指すためです。
2万円を手に上京し、念願の芸能生活が始まりました
しかし、当時はインターネットもありませんから、どうすればそういう世界に進めるのか、皆目見当もつきません。そこで卒業後はひとまず、地元にとどまって車の修理工場で働くことにしたのですが、ある日たまたま手にした週刊誌に、タレント募集の広告が掲載されているのを見つけて、「これだ!」と色めき立ちました。
養成所の会員を募るもので、すぐに応募してみたところ、ほどなく第2次審査の通知が届きました。場所は東京です。

ついに芸能界への足がかりをつかんだように思えて気持ちが高まりましたが、先立つものがありません。そこで僕は母に、2万円出してほしいと懇願しました。
当時の2万円は大金ですから、これには母もびっくり。いったいなにに使うのかと聞かれたので、「東京へ行ってスターになる」と答えたら、心底あきれた顔をしていました(笑)。
それでも必死にお願いして、どうにか母を説き伏せて2万円を受け取ると、僕は父が帰ってくる前に急いで家を飛び出し、夜行列車に乗りました。父はかなりの頑固者でしたから、東京で芸能人を目指すといっても、まず許してくれないからです。幸い、東京には従兄弟が住んでいましたから、そこへ転がり込めばいいという算段もありました。
こうして臨んだ第2次審査に、僕は晴れて合格することができました。おまけに、「ちょうど映画の仕事があるから、行ってこい」と、すぐに仕事にありつくことができたのですから、実にラッキーでした。
どういうタイトルでどういう内容の映画なのか、なにも聞かされないまま現場へ向かうと、監督や助監督、カメラマンなど、多くのスタッフがひしめく、まさに憧れていた撮影の現場が待っていました。
右も左も分からない状況にドキドキしながら、「僕はどういう役をやるんですか」とスタッフの人に聞いてみると、「客の役だよ」といいます。なるほど、お店かなにかのシーンを撮る際の、エキストラのようなものだろうと想像していたら、助監督が駆け寄ってきて思わぬことをいいます。
「早く準備して! 着ているものはすべて脱いで、パンツ一丁の状態で待機するように」
最初はどういうことか意味が分からず、ポカンとするばかりでした。いわれるまま服を脱いで指定されたスタジオへ行ってみると、部屋の中央に置かれたダブルベッドに、裸の女優さんが寝ていました。
要はこの仕事、ピンク映画のエキストラだったわけです。それまで女性と手をつないだことすらない田舎者でしたから、これには大いに戸惑いました。
当然、僕はただただ緊張と困惑で震えるばかりで、演技らしい演技などまったくできません。しかし、監督からすると、それがよかったようです。僕に与えられたのは純朴な青年の役だったので、むしろ完璧な演技だと褒めてもらえました。実際はまったく演技ではなかったのですが、なにが幸いするのか分からないものですね。
こうして初仕事が評価されたことで、その後もたびたび声がかかるようになりました。引き続き、ピンク映画の仕事ばかりでしたけれどね。これが僕の芸能界デビューです。
ビートたけしと結成した「ツービート」は最高のコンビです

その頃、養成所の先輩が「浅草ロック座」というストリップ劇場で働いていました。オフの日に先輩の応援がてら見物に行ってみると、僕の姿を見つけたその先輩がこういいました。
「おまえ、ロック座に入りたいのなら、口を利いてやるぞ」
僕としてはまったくそんなつもりはなかったので、慌てて首を振りました。
「先輩、僕はもう裸になる仕事に嫌気が差しているんですよ。勘弁してください」
「バカ! このロック座は有名なコメディアンをたくさん輩出している名門だぞ」
聞けば、佐山俊二さん、渥美清さん、東八郎さん……などなど、時代を代表するスターたちが皆、このロック座から巣立っていったのだといいます。それまで僕は、ストリップ劇場というのはヌードを披露するだけの場所だと思っていましたが、セットチェンジの間にコントや漫談などの余興が入るのです。
なるほど、これは次の道としていいかもしれない。そう直感した僕は、ロック座でお世話になることに決めました。
余談ですが、僕がロック座で裏方の仕事を始めた頃に頭角を現したのが、「コント55号」の萩本欽一さんでした。試しに彼らの寄席を見に行ったことがあります、めちゃくちゃ面白くて驚きました。当然のごとくあっという間にスターにのし上がっていく様子を見て、自分も頑張らなければと、いっそうやる気をたぎらせたものです。
なお、ロック座では、座長を務めていた深見千三郎師匠の指導を受けながら、コントのいろはを学びました。自分にお笑いの適性があるかどうかは分かりませんでしたけれど、一生懸命修業に励んでいれば、なにか芽生えてくるものがあるのではないか。そう信じて、毎日がむしゃらに頑張っていました。
ところが、そのうちロック座が売られてしまい、オーナーが代わることになりました。これにより、僕の出番も消滅。コントくらいしかできることがなかった僕は路頭に迷うかどうかの瀬戸際でしたが、深見師匠の誘いで「浅草フランス座(現・浅草フランス座演芸場東洋館)」という演芸場に移ることになりました。

そのフランス座に、エレベーターボーイとして入ってきたのが、現在の相方であるビートたけしでした。
そもそもエレベーターボーイというのは年寄りがやるものでしたから、最初は「なぜこんな若者が入ってきたのか」と、不思議に思いながら彼のことを見ていました。ところが、そのうち彼も舞台に出るようになり、深見師匠の指導でコンビを組むようになります。これが「ツービート」の始まりでした。
相方のたけしは、当時からずば抜けた才能を発揮していましたね。周囲から恐れられていた深見師匠のことを、舞台上でばんばんいじるし、毒も吐く。でも、それがとてつもなく面白いから、ネタとして成立してしまう。師匠もまんざらでもなかったようで、僕らのネタをうれしそうに見てくれていたのを思い出します。
その後のツービートの躍進は、皆さんもよくご存じでしょう。漫才ブームの波に乗って、僕たちは売れに売れました。ブームが落ち着くまで、ほんとうに多忙な毎日が続きましたけれど、充実していたし楽しかったですね。今の僕があるのも、間違いなくあの時代があればこそ、です。
ちなみに、相方ばかりが脚光を浴びることを、僕がどう思っているのか気にする人もいるようですが、あれほどの才能を世に出したのだから、ツービートは最高のコンビだと僕は思っています。彼もよく僕のことを話題に挙げてくれていますけれど、いい宣伝になってありがたいですよ。
5年前に腎臓病を患い週に3日の透析生活でも元気で気楽なんです

ところで、僕は2021年にネフローゼ症候群という、腎臓の病気を患いました。
病気が分かった発端は、どんどん痩せていく僕の様子を不審に思ったマネージャーのすすめで、検査を受けたことです。まったく自覚症状がなかったので、腎臓病と告げられた時は驚きましたけれど、手足が激しくむくみ、ついには自分で着替えもできないような状態でしたから、もっと早く病院へ行くべきだったのかもしれません。
入院して治療を受け、今はおかげさまで元気に過ごしていますけれど、週に3日は透析を受けています。でも、こういう生活も受け入れてしまえば、意外と気楽に暮らせるものですよ。
ほんとうはもっと厳密に食事制限をしなければならないのでしょうけれど、あまりがんじがらめの状態で生活していても、かえって元気がなくなってしまいます。僕の周りの透析患者たちを見ていても、好き勝手にやっているやつのほうが元気ですからね。
もちろん、最低ラインは守りながら羽目を外すことが大切だとは思います。でも、あらゆることを我慢して長く生きるよりも、うまいものを食べて死んだほうが幸せだと僕は思います。実際、僕は肉でもなんでも、ばんばん食べていますし、タバコも吸っています。だから、元気なんですよ。
これは極論だし、その分医師の先生が頑張ってくれているのは理解しています。でも、面白いもので、好きなことをやって暮らしていると、楽しいことがどんどん見つかるんですよ。
僕の場合、この店に毎日来ているから元気でいられるし、家に閉じこもっていたら足腰が弱ってすぐに歩けなくなってしまうでしょう。
今病気でお悩みの人は、決して僕のまねをしてはいけないと思います。それでも、好き勝手に生きることで得られるものだってあるということを知ってもらえれば、少しは気がらくになるのではないでしょうか。

