プレゼント

今の自分にできる範囲で諦めずにがんばればいいんです

私の元気の秘訣

俳優 川平 慈英さん

俳優はもちろん、サッカー中継などのナビゲーターとしてもおなじみの川平慈英さん。周囲をパッと明るくしてくれるエネルギッシュなオーラは、還暦を超えた今も健在です。沖縄やアメリカで過ごした幼少期の思い出から、人生最大の挫折と演劇との出合い、そして元気の秘訣(ひけつ)までをお聞きしました!

9歳の時に体験した沖縄本土返還の瞬間は今も忘れられません

[かびら・じえい]——1962年、沖縄県生まれ。上智大学在学中に学生英語劇連盟のミュージカル『fame』で初舞台を踏む。以降、数々のミュージカルや舞台、映像作品で活躍。2009年からは自身がプロデュースする舞台『J’s BOX』を数年ごとに開催。サッカー中継のナビゲーターとしても人気を博している。『雨に唄えば』のコズモ・ブラウン役で第4回読売演劇大賞優秀男優賞、『ビッグ・フィッシュ』のエドワード・ブルーム役で第45回菊田一夫演劇賞受賞。

僕は沖縄の生まれなので、9歳の時に本土返還の瞬間を体験しているんです。忘れもしない1972年の5月15日、この日を境に貨幣はそれまで使っていたドルから、円に変わりました。

当時、僕はよく父の靴磨きをして小遣いをもらっていたのですが、初めてそれを100円札紙幣で受け取った時には、ゼロの数の多さに驚いて、「10㌣のガムが一体いくつ買えるんだろう!」と色めき立ったのを覚えています。

もっとも、大急ぎで近所の駄菓子屋へすっ飛んでいって、籠いっぱいにお菓子を詰めてレジで紙幣を差し出したら、「あんた、100円でこんなに買えるわけないじゃないの」と店のおばあさんにたしなめられて、がっかりすることになるんですけどね(笑)。まだ通貨の違いなんて、理解していませんでした。

そして本土返還の直後、僕は単身、ホームステイでアメリカのカンザス州へ行くことになります。これは母の方針によるもので、ホームステイといえば聞こえはいいですが、実態は幼いながら労働力の提供のようなものでした。

滞在先は母の兄、つまり僕の伯父にあたる人が営む農場でした。農場では人手はあればあるほどいいですから、向こうでは小学校に上がるともう戦力に数えられるのが普通でした。僕も10歳にしてコンバインやトラクターの運転の手伝いをしていましたからね。母にしてみれば、早いうちからいろいろな経験をして、自立しなさいということだったのでしょう。

でも、アメリカでの暮らしは、沖縄にいた頃よりカラフルで、楽しい毎日でした。沖縄では父のランニングシャツを着て野山を駆け回り、捕まえたクマゼミをおやつ代わりに食べるようなことを普通にやっていましたけど、カンザスでは皆、きれいなコンバースのスニーカーを履いて、小じゃれたTシャツを着て歩いていました。また、街にはカフェテリアが並び、たまの外食でレストランに連れて行ってもらうと、ミートローフやビーフストロガノフといった、見たこともないおいしそうな料理が出てきます。10㌣のガムに一喜一憂(いっきいちゆう)していた少年からすれば、生活レベルは雲泥の差でした。

だから、アメリカ暮らしは決して嫌いではなかったのですが、1年後には東京へ移り住んでいた家族のもとに戻ることになりました。名残惜しさはあったものの、やはり日本育ちの身としては東京という響きに憧れのようなものもありましたね。僕はどちらかというと楽しみで、ウキウキとした気持ちで飛行機に乗り込んだ記憶が残っています。

三男坊だからなのか、目立ちたがり屋な性格は生まれ持ったものでした。

沖縄で暮らしていた幼少期、毎年クリスマスに親戚(しんせき)一同が集まって、学芸会のように子どもたちが一人ずつ一芸を披露するのが恒例でした。

従兄弟(いとこ)の女の子がバイオリンを弾いたり、ハーモニカを吹いたり、兄が朗読を披露したりする中で、僕はいつも一人でハブとマングースの決闘ショーをやっていました。右手をハブに、左手をマングースに見立てて、くんずほぐれつの大激闘を繰り広げた末に、「はい、マングースの勝ち」と決着がつくという演技です。実にくだらない、子どもじみたものでしたが、これが親戚のおじさんたちに大好評で、毎年大きな喝采を浴びていました。

サッカーに夢中になっていた学生時代に大きな挫折を経験

自分が表現したことが人の心を動かす瞬間に湧いてくる高揚感のようなものが、こうして俳優を目指すことにつながる原体験だったのだと思います。

一方、中学生になった僕は、サッカーに夢中でした。当時はもちろんJリーグもなく、日本ではマイナースポーツの部類でしたが、アメリカ時代に宣教師の先生からサッカーを教わったことがあり、下地はあったんです。

というのも、僕がお世話になっていたのはクリスチャンの街で、南米に宣教師をたくさん派遣していて、向こうでサッカーを覚えて帰ってくる宣教師が多かったんです。

自分でいうのもなんですが、中学時代から頭角を現した僕は、高校生になると今でいう東京ヴェルディのユースチームに所属し、大学二年生の頃には学校を中退して、テキサス州立大学にサッカー留学をすることになります。全米ベストイレブンにも選ばれましたから、自分は将来、プロのサッカー選手になるものと信じて疑いませんでした。

ところが、やっぱり世の中そんなに甘いものじゃありません。当時の僕は、中盤でボールをつなぎながらゴールを狙うブラジル式のスタイルが染みついていました。しかし、徹底してロングボールをゴール前に放り込むヨーロッパ式のサッカーを目指す監督に変わった途端、僕はまったく試合に起用されなくなってしまったんです。

「絶望と挫折の音が聞こえたんです」

そこで意を決し、監督に「今後の僕の起用法について、相談させてください」と直談判することにしました。きっと、監督は僕の練習量なども理解してくれているはずだから、自分が活躍するためのヒントをくれるにちがいない、そう思っていました。

ところが、監督は思わぬ言葉を僕に投げかけました。

「こういう機会を与えてくれてありがとう。正直にいう。私は二度とあなたを使うつもりはない。私が立てている戦略に、あなたは必要ないんだ」

その瞬間、なにか大きなものが頭の中ではじけ、崩れ落ちる音が鳴りました。絶望と挫折(ざせつ)の音です。これはそれまでの人生で体験したことのない、とてつもないショックでした。思い描いていた将来のプランが突然消滅し、頭の中は真っ白。部屋に戻って、ルームメイトだったカルロスというコロンビア人の胸で号泣したのを覚えています。

話は前後しますが、僕が通っていた学校は中高一貫校で、運動系と文化系、二つのクラブに入らなければならないルールがありました。

そこで、運動系はもちろんサッカー部に。そして文化系は英語劇のクラブに入ることにしました。幼少期に興奮を覚えた人前で表現をして称賛される体験が、再び味わえるのではないかという下心があったからです。

傷心して帰国した僕を支えてくれたのは表現の世界でした

顧問の先生はニューヨークに留学した経験を持つ本格派で、中等部の時から毎年、文化祭では部員全員でミュージカルをやるのが恒例でした。中学一年生の時に『ウエスト・サイド・ストーリー』を、2年生の時に『オズの魔法使い』を、そして3年生の時には『ゴッドスペル』という、新約聖書のマタイ伝を題材にした作品を演じています。

これが楽しくて、高等部に上がると、その先生と一緒にミュージカルクラブを立ち上げるほどでした。今振り返ってみても、オリジナルのミュージカルを作るなど、割とレベルの高いことをやっていたと思います。

アメリカでプロを目指して挑んだサッカーでしたが、プロになる道を絶たれ、傷心を抱えて帰国することになります。まだJリーグもないので日本でプロを目指すこともできず、サッカーに関しては完全に諦めざるをえない状況でした。その時、自分の中に残っていたもう一つの夢が「演劇」だったんです。

一時は激しくやさぐれていましたが、サッカーを失ってから、表現の世界がよりどころとなったのは自然な流れでした。東京の大学に編入した僕は、学生演劇に精を出すようになります。

「人とチャンスに恵まれた人生だったことを痛感します」

大学の演劇界には毎年5月、東京六大学をはじめ英語劇サークルのある大学が集まってプロの演出家たちの前で一つの演目を競演する大会がありました。そこで演出家の方たちとの縁が生まれ、僕はすすめられるままオーディションに挑戦するなど、積極的に活躍の場を求めて動きはじめます。

大学4年生の時、初めてギャラをいただくプロとして舞台を踏むことになったのが、坂上忍(さかがみしのぶ)さんが主演したスーパーロックミュージカル『MONKEY』でした。僕は二列目のダンサーという、小さな役ではありましたが、これが記念すべきデビューの瞬間ということになります。

ただ、母は僕が舞台の世界で生きていくことに、当初は猛反対でした。当時は僕のようなハーフに対して偏見が残っていたので、「イロモノとしていいように使われて、最後はポイッと捨てられるだけよ」というのがその理由でした。これも時代だったのでしょうね。

それでもこの道で生きていくことを決めたやさき、僕は坂東玉三郎(ばんどうたまさぶろう)さんに抜てきされて、『ロミオとジュリエット』に出演することになりました。人生、なにが幸いするか分かりません。うちの母は大の玉三郎さんファンだったからです。

そこで母に舞台を観に来てもらい、楽屋で玉三郎さんにごあいさつさせていただいたところ、「彼は大丈夫。この世界でりっぱにやっていけますよ」とお墨つきをいただけたんです。これを契機に母の態度も軟化していきました。

こうして半生を振り返ってみると、なんだかんだいっても人とチャンスに恵まれた人生だったことを痛感します。山あり谷ありでしたが、サッカーに演技に、ほんとうに自分が好きなことばかり全力で打ち込んでこられたわけですから、これほど幸せなことはないと思います。

元気と健康の秘訣はポジティブ思考で諦めないことが大切

なにより、サッカー留学時代に実質的に監督からクビを宣告され、その後の道を絶たれたのも、今となっては必要な経験だったと思っています。

というのも、冷静に考えてみれば僕はプロのサッカー選手として活躍できるような逸材ではなかったことが、今ではよく理解できるからです。その後、同じチームからプロへ行った連中というのは、僕の何倍もすごい実力者たちばかりでしたから。

「自分だけは自分を諦めるべきではないと思っています」

もしも、たまたまどこかのクラブチームからスカウトが来て、浮かれてプロの世界へ行っていたら、僕は泣かず飛ばずのまま人生の大切な時間を浪費していたでしょう。

そんなもう一つの未来がリアルにイメージできるからこそ、今こうして舞台に立てていることがうれしいし、誇らしいんです。まもなく本番を迎える()(した)歌舞伎『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』にしても、早く皆さんの前で演じたい気持ちでいっぱいです。物語の主題が、僕が演じる伝吉(でんきち)という人物を起点にして展開するので、プレッシャーは大いに感じています。

しかしそれ以上に、この物語を早く皆さんにお伝えしたいですし、カーテンコールで生きている実感を味わい、無事に舞台を終えて、大好きなイモ焼酎を楽しみたい!と心の底から思うんです。こうした楽しみが体験できるのですから、僕の運命に「ありがとう」ですよ。

僕が人並み以上に明るく元気なのは、挫折を経たからこそ身についたポジティブ思考が根底にあるからかもしれません。あの時、サッカーを挫折してよかった——そう本気で思えるからこそ、今が楽しいんです。

数年前に他界した母が、「自分だけは自分を信じてやりなさい」という意味合いのクリスチャンに伝わるメッセージを遺してくれました。それは自分だけは自分を諦めるべきではないという意味です。この言葉はいろいろな人に受け止めてもらえるのではないでしょうか。なにかやりたいこと、望むことがあるなら、今の自分にできる範囲で諦めずにがんばればいいんです。

いい音楽を聴きたい。いい映画が観たい。なんでもいいでしょう。そして、いいお芝居が観たいと思っている人がいたら、ぜひ僕の舞台を観に来てください。たとえ大きな悩みごとを抱えていたとしても、帰り道にはポジティブな気持ちで満たされることをお約束します。

川平慈英さんからのお知らせ

東京芸術劇場Presents木ノ下歌舞伎『三人吉(さんにんきち)三廓初買(さくるわのはつがい)

●作 河竹黙阿弥
●監修・補綴 木ノ下裕一
●演出 杉原邦生[KUNIO]
●出演 田中俊介 須賀健太 矢部昌暉/藤野涼子 小日向星一 深沢萌華 武谷公雄 高山のえみ 山口航太 武居 卓 田中佑弥 緑川史絵 川平慈英/緒川たまき 眞島秀和
 スウィング:佐藤俊彦 藤松祥子
●日程 2024年9月15日(日)~9月29日(日)
●場所 東京芸術劇場プレイハウス(東京都豊島区西池袋)
●問い合わせ先
 東京芸術劇場ボックスオフィス
 ☎0570-010-296 (休館日を除く10:00~19:00)