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多発性骨髄腫を乗り越えた後も「どう生きるか」を考えて人生を歩んでいきたいと思います

有名人が告白

俳優  佐野 史郎さん

多発性骨髄腫と告知された時の僕は自分でも不思議なほど落ち着いていたんです

[さの・しろう]——1955年、島根県生まれ。1975年、劇団「シェイクスピア・シアター」の創設メンバーとして参加。1980年、唐十郎主宰の「状況劇場」に入団。1986年、林海象監督の『夢みるように眠りたい』の主演で映画デビューを果たした。1992年『ずっとあなたが好きだった』(TBS系列)で演じた「冬彦さん」で脚光を浴びる。『西郷どん』(NHK)、『限界団地』(フジテレビ系列)、『24JAPAN』(テレビ朝日系列)など出演作品多数。

2021年4月に血液のがんの一つである「多発性骨髄腫(たはつせいこつずいしゅ)」を患っていることが分かりました。その日、映画祭で熊本を訪れた僕はトークイベントが終わってひと息ついていた時に、ちょっと寒気を感じたんです。熱を測ったら平熱でしたが、翌日に帰宅した後、夜になって39℃の高熱が出たんです。

気軽な気持ちでクリニックを受診したものの、検査で白血球の数値が異常値を示していることが判明。すぐに大学病院の受診をすすめられ、「入院の準備をして行ってください」といわれたことで、これはただごとではないと思いました。

とはいっても、自分の中でそれほど深刻には受け止めていませんでした。それより撮影中のドラマのことが気になって、「えらいことになっちゃったなぁ」「一週間くらいで退院できるといいな」くらいの気持ちでした。ところが、紹介された大学病院の血液内科を受診して精密検査を受けた結果、「多発性骨髄腫です」と告げられたんです。

僕は多発性骨髄腫という病名も、血液のがんであるということも知っていました。渡辺淳一(わたなべじゅんいち)さんの小説『無影燈(むえいとう)』をドラマ化した『白い影』(TBS系列)という作品の中で、主人公の医師が侵された病気が多発性骨髄腫なんです。高校生の頃、このドラマが大好きだったので病名を覚えていました。50年前に放送されたこのドラマの中では、多発性骨髄腫は不治の病と描写されていました。でも、告知された時の僕は自分でも不思議なほど落ち着いていたんです。まず思ったのが、「実際に患者さんにがんを告知する時、医師はこういう伝え方をするのか」ということでした。

それから、かつての自分の芝居のことが頭に浮かびました。以前、がんを患って肺を摘出される男性を演じたことがあるんです。当時の僕はうろたえる芝居をしたのですが、実際にはあんなふうにうろたえることはないということを実感し、「しまった! あの演技は間違っていた……」と考えてしまう自分もいました(笑)。

長い間俳優として生きてきたからか、僕はどんな時も俳優という立場で物事を考えてしまいます。恐怖心から逃れるために、俳優としての自分が現実をドラマのようにとらえていただけなのかもしれませんけど……。

一度目の入院では、ステロイド剤を使って低下していた腎臓の機能を回復させる治療を受けました。ところが、その過程で免疫力が落ちてしまい、血液中に細菌が繁殖する敗血症(はいけつしゅう)になってしまったんです。抗生剤を使えば3~4日で治まる場合が多いそうですが、僕の場合は39℃ほどの高熱が3週間以上続きました。重篤(じゅうとく)な状態で、敗血症を乗り越えることができなければ、今、僕はここにいなかったでしょうね。

ほんとうにつらくて、正直なところ「早くらくにしてほしい」と思うこともありました。「もう治らなくてもいいから、家に帰って、家族とご飯を食べて、お風呂(ふろ)に入って、ちょっとビールを飲んで死んでもいいや」って……。でも、ここまで考えて、誰もいない病室で「いや、まだまだ生きなきゃ」って声に出して自分を奮い立たせていました。その芝居がもう、ヘタすぎましてね(笑)。俳優のあかが染みついているんですね。でも、今振り返ってみると、「生きなきゃ」っていう思いは本心だったと思います。

幸い熱が下がって、次の治療に移ることができました。重篤な状態を乗り越えられたのは、年齢のわりに体力と筋力があったからだとリハビリの先生にいわれました。特に運動らしい運動はしていないのですが、若い頃から俳優として日々肉体を使ってきました。なにより、丈夫な体に産んでくれた親には感謝しなければなりませんね。

精神的に充実していたのは、治療を撮影現場と同じようにとらえることができたからだと思います

「闘病生活について聞かれた時に『楽しかったですよ』と答えていました」

2021年7月にいったん退院し、自宅療養を経て11月に二度目の入院をしました。いよいよ、抗がん剤と造血幹細胞(ぞうけっかんさいぼう)の自家移植による多発性骨髄腫の治療です。敗血症の時と違って抗がん剤の副作用は事前に説明してもらえていたので、髪は抜け、粘膜(ねんまく)がただれて下痢(げり)も続きましたが、覚悟して治療に臨めたのはよかったです。先生の指導で、氷をなめて口の中を冷やしていたおかげで口内炎はできませんでしたし、やれることは徹底的にやったので、思っていたほどつらくはありませんでした。

造血幹細胞の自家移植後は、ひどい二日酔いがずっと続いているような感覚で、体重は7~8㌔落ちました。ただ、体力があったので治療は計画どおりに進み、その年の暮れには退院することができました。

退院後、柄本明(えもとあきら)さんに闘病生活について聞かれた時に、「楽しかったですよ」と答えた自分がいました。実際はつらい治療なので、楽しいわけはないはずですけどね。でも、体はつらくても、精神的には非常に充実した時間だったと実感しています。

精神的に充実していた理由の一つは、病気の治療を映画やドラマの撮影現場と同じようにとらえることができたからだと思います。

撮影現場には、監督をはじめ、録音技師さんやカメラマンさん、衣装さん、メイクさんなど、いろいろな分野の専門家が集まり、クランクアップに向けて気持ちを一つにしてそれぞれの仕事に向かっています。

同じように、病院では主治医が監督としていて、看護師さんやさまざまな分野の医師の方々と連携を取りながら病気を治すことに取り組んでいました。僕も「チームの一員として、治療に向き合っていこう」と考えることができたんです。

俳優として、これまでいろいろな医師を演じてきました。そのたびに、監修の先生から医療に関する教えを受けたり、実際の現場を見学させてもらったりしてきました。また、役柄やシナリオに書いてある裏の設定のことなども監督、共演者と話し合ってきました。そうやって任された役について理解しないと、演じることができないのと同様です。

多発性骨髄腫の治療でも、なぜこの薬を使うのか、なぜこの量を飲むのかなど、分からないことは主治医に納得がいくまで質問をしました。

ほかにも、担当の先生には医療の道に進んだ理由、血液内科を選んだわけなども聞きましたし、お世話になっている看護師さんたちにも同じような質問をしていました。そうやってコミュニケーションを取りながら、作品を作る時と同じような信頼関係が生まれたように思います。

僕は子どもの頃から「人はどうして生まれて死ぬんだろう」と考えていました。例えば、僕は若い頃の映像が残るような仕事をしています。人間の細胞はどんどん新しく生まれ変わっていくものですから、映像に映っている僕の細胞はもう一つも残っていないわけです。だから、数十年前の自分は死んでいて、今いる僕とは別人といえるかもしれません。

逆に30年前の自分にとっては、まだ見ぬ未来を生きているわけで、不思議ですよね。「生きている人が死ぬのではなく、いずれ亡くなる人が、あるいは存在しなかった人が生きている」とも考えられると思うんです。

病気を乗り越えたことであらためて確信したことがあります。それは、一つの生命体として「生きたい」という欲があることです。

もしかすると、ある程度の年齢になると、がんに限らずさまざまな病気が起こって体をなくしていく方向に向かうのが自然なのかもしれません。でも、僕の場合は現代医療によって、本来は失われるはずの命が自然の摂理に反してつながれました。

2022年の年末に受けた検査で、佐野さんは主治医から「最上の状態」と伝えられた

退院してしばらくの間は、虫すら殺せなくなりました。この世に存在している「命」という意味では、虫も僕も同じで、人間が特別なわけではないんです。動物も草花も無機物も人間も、みんな同じなんだという気持ちがいっそう強くなったんです。

2022年3月から、俳優活動を再開しました。2022年の年末には骨髄検査を受け、主治医からは「最上の状態です」といってもらえました。

ひと口にがんといっても、病気の状態も体調も、患者さんの性格も一人ひとり違いますし、薬の効きめや治療の効果も違ってきます。治療そのものについて素人(しろうと)判断するのは危険だと思います。

それでも僕の経験から何かしらヒントになることがあればうれしいです。僕は死と直面した時に、世の中の情報に振り回されないことが大切だと思いました。自分が大切なものや好きなものを自分でしっかり分かっていることが、生きる希望につながっていくように思います。

そして、治療を受ける際、自分の体が今どういう状態で、どう治そうとしているのか、そのために何をしているのか、といったことをていねいに考えるのは非常に重要だと思います。弱っている時は、つい安易な方法や感情に流され、不確実なものに依存してしまう可能性もあります。「考えない」という意味では、お医者様任せや宗教頼みも同じですよね。そうではなくて、僕が自分自身で考えて、先生方と一緒に取り組むという姿勢でいられたことは、よかったと思います。

突きつめて考えると、どう生きるか、ということに集約されるように思います。僕の場合は、どう生きるかという姿勢が俳優の仕事にも、闘病にも反映されていました。考える、考えないはその人の自由ではありますが、僕はこれからも「どう生きるか」を考えて人生を歩んでいきたいと思います。