歌手 木山 裕策さん
徹夜明けということもあり、がんといわれた直後の僕は現実感がまったくありませんでした
歌手としてデビューしてから、今年で15年になりました。甲状腺がんにならなければ歌手デビューをしていないとは思いますが、診断された当時は言葉にならないほどの絶望感に沈み、悔しさに打ち震えました。
脚本家を目指して大阪から上京した僕は、愛する妻と出会い、子どもにも恵まれました。家族を養うため、28歳で大手IT企業に就職。担当していたウェブ広告の仕事はとても忙しく、深夜残業が当たり前の日々を送るようになりました。35歳で管理職になったものの、そもそも僕は内向的な人間なので、100人もの部下を動かすなんてとてもできません。自分の仕事で精いっぱいなうえに、ストレスまでため込んでいたんです。
僕にとって、精神的に大きな支えになっていたものこそ、歌です。子どもの頃から歌うことが大好きで、時間を見つけてはお気に入りの歌を口ずさんでいました。大人になったら同僚とカラオケで歌うことも多くなりましたが、僕が歌うのは基本的には自分のためなので、締め切った部屋やお風呂の中で歌うだけで満足なんです。
最初にのどの異常を指摘されたのは、30歳の時に受けた会社の人間ドックでした。ひととおりの検査がすんだ後の診察で、先生から「のどが腫れているので、精密検査を受けたほうがいいでしょう」といわれたんです。
不安になりながら地元の病院を受診しましたが、なんの異常も見つかりません。2年後の人間ドックでもまた同じ指摘を受け、別の病院で検査を受けましたが、やはり異常なし。さらに2年後、34歳の時も同じ指摘を受けたのですが、もうその時は検査を受けませんでした。ただでさえ多忙を極めているのに、検査を受けるためだけに時間を取られるのが嫌だったんです。36歳の人間ドックでも、またもや「のどが腫れている」との指摘。何度も同じ診断を下されてうんざりぎみだった僕は、先生にこれまでの経緯を説明しました。すると、病院を紹介してくれたので、そこで検査を受けることにしたんです。まさか自分ががんだなどとは思いもよらなかったので、検査結果が出る前日も夜遅くまで仕事をし、カラオケで友だちと夜通し歌い明かしました。
甲状腺がんの診断が下された時の先生の様子は、さほど深刻なものではありませんでした。でも、左の甲状腺で発症したがんは2㌢×3㌢の大きさになっていて、ステージはⅣ。「すぐに手術して腫瘍を取ったほうがいい」と淡々と告げられました。
徹夜明けの頭だったということもあり、「がん」といわれた直後は現実感がまったくありませんでした。言葉の意味は分かっているつもりでも、その意味するところが理解できなかったんです。ポカーンと、頭の中は真っ白。でも、病院で会計を待っている間に少しずつ状況が飲み込めるようになりました。
真っ先に妻に連絡しました。慌てる僕とは対照的に、妻は「とにかく、治療を受けることでしょ」と冷静に返事をしてくれました。後から聞くと、妻もとても不安だったそうです。でもその時は、妻の穏やかな電話の声に、少しですが落ち着きを取り戻せました。 帰りがけに甲状腺がんの本を探したのですが、あまりいい本を見つけられませんでした。当時はインターネットの情報もまだ充実していなかったので、がんについての情報がほとんど手に入りません。治療法は、自分で選んだというよりも、医師任せにしていました。
以前のように歌えなくなったと気づいた時、僕はがんと診断された時よりも落ち込みました
手術に向けて先生から説明を受けた時、衝撃の事実が知らされました。なんと手術をすると声帯の神経が傷つく可能性があり、声が出せなくなるおそれがあるというのです。
のどを8㌢切る手術でしたが、手術自体は無事に終わりました。手術後、真っ先に声が出るかを確認し、ホッとしたことを覚えています。幸い転移もなく、切除した甲状腺の働きを助けるためのホルモン療法が行われただけで、抗がん剤や放射線などの治療を受けずにすみました。
それでも、手術後ののどの痛みはひどいものでした。言葉を発するどころか、唾を飲み込むだけでも傷口が痛みます。歌うことなどできるはずもありません。半年後、まだのどの痛みが消えきっていない頃に、同僚とカラオケに行く機会がありました。久しぶりに歌おうとしたのですが、高い声を出そうとしたり、のどを震わそうとしたりすると激痛が走ります。長い間のどを使っていなかったからか、うまく音程を取ることもできません。
かつてのように歌えなくなったことに気づいた時、がんと診断された時よりも僕は落ち込みました。あまりの落ち込みぶりに、周囲の誰も僕に声をかけられないほどでした。それから1週間ほどたった頃、ふつふつと悔しさが込み上げてきました。「もっと歌っておけばよかった」——強くそう思った僕は、歌を取り戻すことに決めました。さらに、「これまでにやっていなかったことをしたい」「がんになったからこそ、こんなすてきな人生になったと語れるようになる」と決心したんです。「具体的になにをやればいいだろうか?」と考えた僕は歌手デビューを目指すことにしました。
まずは「痛みがあっても歌ってみよう」と、毎日2時間歌うことから始めました。低い音だと痛みが小さいことに気づき、のどを慣らしながら、少しずつ高い音を出せるようにしていったんです。オーディション番組『歌スタ!!』(日本テレビ系列)に出場してなんとか合格することができ、2008年2月にメジャーデビューを果たしました。
当初は人生の記念としてCDを一枚出すだけで満足だったんです。せいぜいデビューした月ぐらいは歌手として活動し、その後は今までの日常に戻るだろうと思っていました。ところが、いざデビューすると、目が回るほどの忙しさになりました。
僕は、歌手活動が原因で本業がおろそかになったといわれるのが嫌で、本業も必死にこなしました。平日は会社で働き、土日に歌手として活動する生活が始まったんです。
がんを発症してからは、会社での働き方が変わりました。それまでは相手を傷つけないよう、言葉を選んで話していました。時には、気を使いすぎて言葉が曖昧になってしまい、正しく気持ちを伝えられなかったこともあったと思います。でも、がんを経験してから、そのままではいけないと感じるようになりました。「人間はいつ死ぬか分からない。今、気持ちを伝えないでどうするんだ⁉」と、正面から気持ちを伝えることにしたんです。
最初は職場のスタッフから嫌われることを覚悟していたのですが、意外にもみんな好意的に受け止めてくれました。率直に話し合うことでよい結果につながり、かえって仕事がスムーズに進むようになって、ついには会社から表彰されるほどの結果につながったのです。
一度しっかり落ち込んだら、目の前のできることに取り組んでみてはいかがでしょうか
歌手デビューしてから3年後の2011年に、ようやく初めて土日に休みができました。さらに数年たって、ようやくひと息つけるようになったのが2019年12月——50歳を過ぎた残りの人生に目が行くようになりました。
会社の仕事は充実したものなのですが、実はどれも「僕以外の誰でもできる仕事」でした。50歳を超えたら、「自分にしかできないこと、つまり歌の仕事だけで生活しよう」と考えるようになってからは、会社の仕事の引き継ぎを進めて、歌手として独立することにしました。
意気揚々と独立した時、ネットニュースに掲載されました。ところが、僕の独立のニュースと同時に「正体不明の感染症が中国で広がる」という不穏な話題が掲載されていたんです。
2020年に入り、ご存じのように新型コロナウイルス感染症が日本でも広がりはじめます。緊急事態宣言が発出され、講演やコンサートなどが行えなくなり、2021年4月まで埋めていた僕のスケジュールは、すべて白紙になりました。
いきなり先の見通しが急に立たなくなって、目の前が真っ暗になりました。甲状腺がんを乗り越えた時、「これ以上の不幸はなかった」と考えていたにもかかわらず、再びひどく落ち込みました。途方に暮れましたが、あの甲状腺がんの経験が二度目の壁を乗り越える時に僕の背中を押してくれました。
僕は、がんの時と同じように「できることをやろう」と考え、動画配信サイトのYouTubeで動画投稿を始めました。光明が見えない時代だからこそ、歌の持つ力が希望につながると信じたんです。
僕の歌を届けたいと願って始めた動画投稿でしたが、予想以上の反響があり、動画投稿からつながった縁も増えました。今では、スケジュール帳が来年まで埋まっています。歌に助けられたのは、僕のほうでした。
がんになった時は、「どうしてがんになったんだろう?」と悔やんだり、落ち込んだりしてしまうのは当然です。でも、「今、生きていること」に、もっと目を向けてもいいのではないでしょうか。生きてさえいれば、今できることが一つはあるはずです。一度しっかり落ち込んだら、目の前のできることに取り組んでみてはいかがでしょうか。