モデル 梅宮 アンナさん
36歳で精巣がんを患った父は、生涯で6度もがんになりました
父の梅宮辰夫がこの世を去って、まもなく1年がたとうとしています。父は、亡くなる直前まで人工透析治療で苦しみました。2019年の1月に腎盂・尿管がんと診断された父は腎臓を摘出する手術を受けていたので、人工透析を受けないと生きられなかったのです。
父ががんを患ったのは、腎臓が最初ではありません。それ以前に、別の部位のがん治療を5回も受けています。父はがんになりやすい体質だったのかもしれませんが、1度のがんで命を失う人も少なくないことを思えば、生涯に6度もがんを経験するのは珍しいのかもしれません。
いま振り返ると、私たち家族にとって、父の体にがんが見つかることに“慣れ”があったような気がします。そのぶん、父の死を常に身近に感じてもいたのかもしれません。父の無事な顔を見ると、「よかった、今日も生きていてくれた」と、毎日感謝していたものです。
がんと闘いつづけた父の体に初めてがんが見つかったのは、36歳のとき。私はまだもの心がつく前のことでした。最初に見つかったのは精巣がんで、すでに肺へ転移し、医師から「余命半年」と告げられていたそうです。
がんと闘っていた父とのやり取りで、いまでも忘れられないシーンがあります。私がまだ小学生の頃、父といっしょにお風呂に入って湯ぶねにつかっていたときのことです。父がふいに、
「ここを触ってごらん」
と、自分の胸のあたりにできているゴルフボール大のこぶを私に触らせたのです。
「これががんだ。俺の命を奪う悪いものだよ」
あまりに怖くて、私は泣きだしてしまいました。でも父は平気な様子で私にこういったのです。
「大丈夫。この悪い部分が出てこないよう、ちゃんと治療してもらっているから」
あの大らかな父の声は、いまでも鮮明に覚えています。
その言葉どおり、父は毎月欠かさず検査を受けていました。それでも、次の検査日を待つ1ヵ月の間に、毎回のように胃や大腸に新しいポリープができていましたから、父は常に爆弾を抱えながら生きていたようなものです。
腎盂・尿管がんになった父は透析治療が必要になりました
がんの治療に前向きに取り組んでいた父ですが、日頃の食事や生活習慣に気を配っているかというと、決してそうではありませんでした。父は根っからの食い道楽でしたから、好きな食べ物を我慢してまで長生きしたくないといっていました。脂っこいものでも塩気が多いものでも、好きなだけ自由に食べていたんです。
父とがんとの闘いが本格的に厳しくなったのは、2016年からです。2016年6月に十二指腸の乳頭部にがんが見つかり、十二指腸と胆嚢を全摘出しました。当時、父と母は都内の家を引き払って神奈川県真鶴町で暮らしていたので、私も東京と真鶴を行き来しながら父の闘病につき添っていました。
その後、膵臓と胃の一部を切除した父は、2019年の1月に腎盂・尿管がんの手術を受けます。尿管といっしょに左の腎臓を摘出した父は、人工透析を受けなければ生きられない体となりました。
腎臓は体の左右に1つずつある臓器です。どちらかの腎臓を失っても、普通の人なら残された1つの腎臓だけでも生きていくことができます。でも、父の右の腎臓は生まれつき小さく、ほとんど機能していなかったのです。残酷なことに、がんで摘出したのは左の腎臓でした。2つの腎臓の機能を失った父は、生きるために人工透析に頼るしかなかったのです。
当時、父を診ていた主治医は、「あと十年生きるために」と、腎臓を摘出して人工透析を受けることをすすめていました。当時の私は、人工透析がどのような治療法なのか、ほとんど知識がありませんでした。人工透析についてもっと知りたいと思った私は、本やインターネットでたくさん調べましたが、人工透析に関する知識を得るほど、父には大変な生活が待っていることが分かりました。
1回の人工透析を受けるためには4時間もかかります。その治療を週に3日も受けなければなりません。人工透析を受ける患者さんにとって、時間の負担はあまりにも大きいものです。
人工透析を受けることなく、命をつなぐために残された道は、腎臓移植しかありません。現在、日本における腎臓移植は、家族間においてのみ認められています。たとえ適合する腎臓が見つかっても、家族以外の腎臓を移植することはできないのです。
調べてもらったところ、幸いにも私の腎臓は父の体に適合していました。私が同意すれば、私の腎臓を父に提供できるということです。考え抜いた私は、父にこういいました。
「パパがずっと1つの腎臓で生きてきたのなら、私も1つあれば生きていける。だから、私の腎臓を1つあげるよ」
父はこのとき、私の気持ちを分かってくれたと思います。でも、2つの理由から、父への腎臓移植は実現しませんでした。
1つ目の理由は、父がすでに高齢で、移植手術に耐えられる保証がなかったからです。2つ目の理由は、もっと残酷なものでした。担当の先生は、私にこういったのです。
「今後、アンナさんのお子さんが、腎臓がんにならないとは限りません。万が一の事態に備えて、アンナさんの腎臓は、お子さんのために残してあげてください」
担当の先生も苦渋の決断だったと思いますが、わが家ががんになりやすい家系であることを踏まえた現実的な言葉でした。
結局、父を含めた私たち家族全員は、この言葉を受け入れざるをえなかったのです。
優しく温厚だった父が透析治療を受けてから別人のようになりました
父は人工透析を受けて生きる道を選びました。ところが、実際に父の透析生活が始まると、父だけでなく、私たち家族の生活も変わり、地獄ともいえる生活に突き落とされたのです。
父は、週に3日、朝7時に真鶴の自宅を出て小田原市の病院へ行き、4時間の透析を受けました。帰宅するのは午後2時過ぎですが、その頃になると父の体は水分が奪われて、カラカラに乾いた状態になっていました。声も出せないほどつらそうにしているのに、父が補給できる水分量は1日500㍉㍑以内に制限されていました。それ以上水分を摂取すると、体の中にたまってしまうからです。
透析を終えた父は、脱力感から何もやる気が起こらず、翌日になっても家で体を横たえていました。あれほど多趣味だった父が、別人のような生活を送っていたのです。父にとって透析生活はあまりにもつらかったのでしょう、ある日、父が電話で担当の先生にこう尋ねました。
「先生、透析をやめたら何日で死ぬのかな?」
「十日でしょう」と先生が答えると、父は納得したのか、こういったのです。
「そうか……。ほんとうに嫌になったら俺、もう透析を受けに行かないかもしれないよ」
父のこの言葉を聞いていた私たちは、ほんとうにつらかったです。でも、それ以上につらかったのは、温厚で優しかった父が、別人のように怒りっぽくなってしまったことでした。
ある夏の日に父を訪ねると、リビングには暖房がかかっていて、室温が30℃もありました。臓器をいくつか失ってから、父は極度の冷えに悩まされて、夏でも氷のように冷たい手をしていたのです。
暑くて飼いイヌがかわいそうと思った私が暖房のスイッチを切ったとたん、父のどなり声が飛んできたのです。
「なんで消すんだ! ここは俺の家だ! 暑いなら帰れ、おまえなんかに用はない!」
つらい透析生活がいわせている言葉であることは分かっていました。でも、病気によって性格まで変わってしまった父を見るのは、ほんとうに悲しいことでした。
私はいまでも、あの日に父と話した電話の内容が忘れられません。ささいなことから父と口論になってしまったことを、いまも後悔しています。その電話から3日後、2019年の12月12日の早朝に、真鶴に住む母から電話がかかってきました。
電話に出た私の娘が、私の寝室に飛び込んできました。
「ママ! じっじが死んじゃったって……」
私は気が動転したまま、病院へ向かいました。小田原市内の病院に着いたのは7時頃だったと思います。父は病院で延命措置を受けていました。
病室に着いた私は、担当の先生からこう問われました。
「延命をまだ続けますか?」
父の息はすでになく、心臓も動いていない状態でした。そのとき初めて知ったことですが、延命治療をしている患者は、息をしていなくても臨終と見なされないそうです。先生からは、家族の許可がなければ、医師は延命治療をやめることができないと説明されました。私は先生に伝えました。
「父を逝かせてあげてください」
呼吸もなく、心臓も動いていない状態で何時間も心臓マッサージを受けつづけた父は、肋骨を骨折していました。父の体はそこまで弱っていたのです。
「ようやく父をらくにしてあげられる。苦しみから解放してあげられる」
そう思いました。母や私たち家族にとっても、苦しい闘病生活から解放されるという気持ちになった瞬間でした。
父はとても優しい人でした。学校で運動会が開かれたときは、私はもちろん、友だちの分まで、たくさんのおにぎりを握って持ってきてくれました。それが、「病気のせい」とはいえ、優しかった父の口から出る暴言を聞くたびに、心の底から悲しくなりました。私は一生、この記憶を抱えて生きることになるでしょう。
いまの日本には、父のように人工透析を受けている患者さんがおおぜいいらっしゃいます。透析生活の現実を知っている私にとって、透析患者さんの苦しみは他人事とは思えません。人工透析を受ける患者さんを少しでも減らせないものかと考えてしまいます。
父が人工透析を導入したのは、腎盂・尿管がんが原因でした。人工透析を受ける患者さんの多くは、糖尿病や高血圧に伴う慢性腎臓病が原因だそうです。糖尿病と高血圧は、生活習慣を見直すことで悪化を防ぐことができます。父のように、透析治療によって苦しむ人が少しでも減ることを心から願っています。