株式会社マックス代表取締役社長 大野 範子さん
36歳で社長に就任し、いざこれからという時にがんが見つかったんです
Ⅳ期の子宮頸がんになり、4度の転移を乗り越えた私は、同じようにがんになった人に対して「かなえられない願いはない」と自信を持ってお伝えしています。ただし、ただ願うだけではなく、自分で考え、自分で行動することが大切です。
私は、大阪にある株式会社マックス(以下、マックスと略す)という企業の代表を務めています。1905年に創業した老舗のせっけんメーカーで、皆さんの中には学校にあった〝レモンせっけん〟という弊社の製品をご記憶いただいている方もいるかもしれません。
五代目の社長になった私ですが、若い頃は社長を継ぐなんて思いもしませんでした。社長はずっと男性でしたし、いとこも勤務していたからです。ところが、マックスに移ってから8年近くが経過した頃、体調不良になった父が急に私に「1年半後には社長を代わってほしい」といってきたんです。もちろん驚きましたが、「やるしかない」と思い直し、仕事をしながら大学院に通って経営について2年間勉強しました。
2009年3月、36歳で社長に就任しました。大学院を修了し、さぁこれから社長業に取り組もう、というタイミングでがんが見つかったんです。事の始まりは、下半身からの大量出血。勤務中の社内で突然出血が起こり、イスも床も血だらけになってしまいました。
病院に着いた瞬間、検査をする前の段階で、主治医から「これはがんだね」といわれました。想像もしていなかった診断に、ただぼうぜんとするだけ。「社長になったばかりなのに」「会社はどうなるんだろう……」という不安に飲み込まれました。
30代になってから、私は定期的に子宮がんの検診を受けるようにしていました。それが、社長になることが決まってからは勉強漬けの毎日で、1年ほど検査を受けられませんでした。そのたった1年で、ここまでがんが成長してしまっていたんです。不調を感じてはいたのですが、忙しくて疲れているのだから当然という状態で深刻にとらえていませんでした。
誰にも心配をかけたくなかったので、当初は家族にもがんではなく別の子宮の病気だと伝えていました。でも、がんの診断が下ってから数日後の夜、布団を並べて主人と話していたら、感情が涙となってあふれ出てしまいました。抑え込んでいた気持ちが爆発してしまったんでしょうね。「実はね……」と告白したら、主人が跳び起きたのを覚えています。
子宮頸がんと診断され、手術を受ける病院を決めてから2週間後に子宮を全摘出しました。11月に退院すると、すぐに職場に復帰し、仕事の遅れを取り戻そうと思っていました。ところが、3ヵ月後の2010年2月の検査で、子宮を摘出した場所に広い範囲でがんが再発していることが判明しました。
がんは主治医が予想すらできないほど悪化していました。抗がん剤治療と放射線治療を受けましたが、翌年の2011年2月に左肺の上部への転移が確認され、Ⅳ期と告げられました。さらに、転移がんを手術で切除した後、同年4月には首の骨に転移。2012年2月にはまたも左肺の下部にがんが見つかりました。
現在まで再発や転移を防げているのは、戦略と自主性があったからだと思います
抗がん剤の副作用はひどく、肌は荒れ、吐き気に苦しむようになりました。特に、抜け毛はつらかったです。治療の前に説明はありましたが、実際に洗髪時に排水溝に大量に流れていく髪の毛を見た時は現実に打ちのめされました。
転移を繰り返す中で、主治医から覚悟を決めるようにいわれたこともありました。でも、主人が「絶対に治そう」といいつづけてくれたおかげで、私も前を向くことができたんです。
私と主人は、大きく二つの戦略を立てました。一つは「がんができたらすぐにやっつける」という早期発見と早期治療の考えです。主治医からすすめられなくても3ヵ月おきにPET(ポジトロン放出断層撮影装置)検査を受けてがんに備えました。2回目と最後に見つかった肺の転移は、このPET検査で見つかったものです。
二つ目の戦略は「がんが生まれない体にする」という生活習慣の改善です。がんになった後、友人と親戚が、1冊の同じ本をすすめてきたことに運命的なものを感じ、試してみることにしたんです。内容はとてもシンプルで、「塩分をとらないようにする」「肉をとらないようにする」の2点です。
当初は味気ない食事が苦痛で、抗がん剤治療で吐き気がある期間は食事が憂鬱でした。でも、今でも食事療法は継続できていて、薄味の食事にも慣れました。食事療法が良かったのか、左肺への転移を最後に現在まで再発や転移は見つかっていません。
人によって体の状態は異なり、がんの進行状況も違いますから、私の方法がすべての人に最適とはいえないでしょう。ただ一つだけいえるのは、私は可能な限りがんを理解しようと調べ、必死に考え、家族と専門家に相談し、最後に納得できる方法を選んだということです。
最初にがんの再発があった時、主人はありとあらゆる方面から集めた医療機関や治療法を一覧表にまとめて、どこを受診するべきか相談に乗ってくれました。今、診療を受けている医療機関以外を受診することには良い面も悪い面もあると思いますが、主人の「最も適した治療を受けるべき」という言葉に背中を押してもらいました。
でも、自分たちだけで勝手に判断したわけではありません。受けたいと思う治療は複数の候補を挙げ、必ず主治医と相談して受けるようにしていました。納得がいく治療を選んだ結果、私は五つの医療機関で治療を受けることになりました。
毎回、自分が納得している治療を選んできたので、ずっと前向きに治療に取り組みつづけられました。現在まで再発や転移を防げているのは、こうした戦略と自主性があったからだと思います。
今も自分で調べ、納得のいく手段を選び、次の手段を準備しているからこそ、不安なく過ごせています
がんの治療を乗り越えて社長業に戻った時、会社は創業百年強の歴史で初めての赤字の危機を迎えていました。ボディソープの普及で、せっけんの需要が減りつづけ、その変化に対応できていなかったことが大きな要因です。
私はがんの闘病と同じように、会社の経営にも二つの戦略で臨みました。「今ある問題をすぐに解決する」「利益を出せるような体質に変える」というがんの治療に通じる二つの戦略で動いたのです。すると、会社の経営を再び右肩上がりに戻すことができました。
まず取り組んだのが、コスト削減などの構造改革です。いちばん分かりやすい事例は、冒頭でも紹介したレモンせっけんの廃止です。会社の象徴ともいえる商品でしたが、作る手間がかかる一方で、丸いために転がりやすくて使いづらい……。すでに売れない商品の代表格になっており、社内でも不評だったのです。
高コスト事業の廃止などの構造改革を進めると同時に、利益を出せる企業にするための体質改善も必要でした。そんな商品を開発するうえで役立ったのが、私自身のがん治療の経験です。
抗がん剤治療を受けている間は、入浴がとても苦痛でした。抗がん剤の副作用で荒れてしまった肌は、シャワーの水が当たるだけでもピリピリと痛むんです。自社商品の無添加せっけんも使いましたが、残念ながら、この痛みを軽減することはできませんでした。「無添加であるだけではなく、困っている人が使える商品が求められている」という事実に、身をもって気づいたのです。
仕事に復帰した後、すぐに「泡立ちがよくて、短時間ですすげるせっけんを作りたい」と社員に相談しました。2年の開発期間を経て、2015年に、敏感肌用ボディウォッシュ「素あわ」を商品化できました。
がんの治療を経て、私の考え方は大きく変わりました。がんになる前は、「私の仕事は、私がいないと回らない」と考えていました。でも、実はそうではなく、「誰かがいなくては仕事が回らない状態は避けるべきだ」ということに気づきました。それからは、社員が休みたい時に休める社内風土と、どんな人でも働きつづけられる職場作りを追求していくことこそが、経営者の使命なのだと思うようになりました。「誰かが誰かの代わりになれる会社」「誰かのできないことをほかの誰かが補える会社」が、がん患者さんでも働ける会社なのでしょう。
実際に、マックスにはがんを発症した後も、仕事を続けられている社員がいます。ただ一方で、「わが社は治療と仕事の両立支援をやっています」ということを、社内的にも、社外にも公言してはいません。あくまでも経営理念の一つである「社員の精神的(働きがい)、物理的幸せを追求し、家族の幸せを追求する」という理念にのっとっているだけです。がんに限らず、どんな要因があろうとも、社員が支え合える風土を育み、守っていきたいと思っています。
今のところ、がんの再発や転移は見つかっていませんが、治療が終わったわけではありません。放射線治療の副作用のため、今も病院に通っています。血栓ができやすい体質になり、このインタビューを受けている前日にも救急搬送されています。もちろん、これから先、再発や転移がないとはいいきれません。
まだまだ向かい合う問題は数多くありますが、今も自分で調べ、自分で考え、自分で納得のいく手段を選び、次の手段を準備しているので、今日も私は不安なく過ごせています。これがもし、医師を含めて誰かに完全に任せてしまっていたとしたら、次の工程を把握できない不安に押しつぶされていると思います。自分で考えれば次の行動も想定できるので、焦燥感は少ないです。
現在の医療は、驚くべき速さで進歩しています。どんな状態であっても諦める必要はありません。主体性を持って治療に臨めば、きっと納得のいく結果がついてくるはずです。