プレゼント

私が私であるために、これからもフルートを吹いていきたいと思います

患者さんインタビュー

シャント発声患者会「悠声会」会員 羽賀 紀子さん

ステージⅣの舌がんと診断され、人生をかけてきたフルートと声を失いました

[はが・のりこ]——1965年、茨城県日立市生まれ。現役時代はフルート教師・奏者として33年間活動。2021年にステージⅣの舌がんと判明し、茨城県立中央病院にて舌と喉頭の全摘出術を受ける。2022年6月、シャント発声器具「プロヴォックス」を留置。サポート器具である「フリーハンズ」を用いたフルート演奏を習得し、同年11月に㈱アトスメディカルジャパン(現・コロプラスト㈱)会社総会にてバラード曲「ホール・ニュー・ワールド」の演奏を披露。2024年5月からシャント発声患者会「悠声会」会員として、東京で月1回の定例会でフルートの演奏をしている。

2021年8月、私の人生は大きな転機を迎えました。「二度としゃべることができない。仕事とライフワークとして人生のほとんどすべてをかけてきたフルートを二度と吹くことができない」。そう、私が診断されたのはステージⅣの舌がんで、首や下あごのリンパ節に転移し喉頭こうとうにも広がっている状態だったのです。うすうす覚悟していたのと、悲しいなどという感情を通り越していたためか、涙も出ませんでした。

主治医から「5年後の生存率は50%。舌と喉頭の全摘出手術以外に道はなく、術後は声を失います。仕事への復帰は望めないでしょう。飲食の楽しみもなくなります」。そう告知された私の胸中にはさまざまな感情が押し寄せました。「今までやってきたことはすべて無駄だった。これからなんのために生きていくのか。多額の費用がかかる手術をして、そんな身体になってまでなぜ生きていかなければならないのか」人生で初めて自分で命を絶つ人の気持ちが分かりました。

病院からの帰り、その夏いちばんの猛暑日の夕方でした。ぼんやり電車に乗り、にぎやかにおしゃべりをする女子高生に囲まれ、車窓には夕焼け空と青々とした田んぼが広がり、ICレコーダーでお気に入りのクラシック音楽を聴いていた時、ふと「私にはまだ健康な手足と目と耳もあって、美しい景色を見て、美しい音楽を聴くこともできる。生きられるだけ生きてみよう」。我ながらなんと早い立ち直りだったのでしょう。告知からほんの数時間の出来事でした。

私は茨城県日立ひたち市の生まれで、小さな頃から音楽が好きで中学校からはフルートを演奏してきました。高校を卒業後、東京にある上野うえの学園大学音楽学部器楽学科フルート専門に進学し、1988年3月に卒業してからすぐ日立市に戻り、音楽教室やカルチャーセンター、吹奏楽におけるフルート講師、自宅のフルート教室で教える仕事をメインに、アンサンブルやソロでの演奏活動をしていました。

2021年春頃、舌の異変を感じました。口内炎が次々とできて薬を塗っても治らないし、痛み止めもどんどん効かなくなったのです。そのうち食べるのが苦痛になる物が増えてきて、やがて食事もままならなくなりました。

これは大事なのではと恐る恐るネットで調べると、怖い情報や写真がたくさん出てきます。すぐに病院に行く用心深い人、普段から医者にかかりなれている人なら、そうしたでしょう。しかし、風邪もまずひかない、インフルエンザの予防接種もしたことがないしかかったこともない、健康診断や人間ドックも受けたことのない私にとって病院に行くという選択肢はありませんでした。フルートが吹けなくなったら行こうと思っていて、結局、病院に行くことを決心したのは7月になった頃でした。

2021年7月4日、教え子の4人と共演するアンサンブル・コンサートを企画しました。準備途中からおそらく私の最後のステージになるだろうと覚悟していました。ところが、ほとんど食べることができないのに、フルートだけは吹けたのです。共演者にも私の異変はばれていませんでした。たった1人、生徒の父兄に歯科衛生士がいて、レッスンの際の私のしゃべり方を聞いて「もしかしたら……」と思っていたそうです。開館した1990年当初から立ちつづけた、響きが抜群によく、大好きだった音楽ホールのステージにお別れを告げました。

がんの告知の前後には、人生初の手術に向けてあらゆる検査を受け、これまた人生初で恐怖の胃カメラ検査まで受ける羽目になりました。あまりにたくさんでどのような検査をしたかは覚えていません。とにかく指定された時間にその場所に向かい、なにも考えないで待ち、検査を受ける——幸いにして、麻酔がよく効いたのか担当医師の腕がよかったのか、苦痛はまったくありませんでした。

羽賀さんは現役時代にフルート教師・奏者として33年間活動していた

2021年9月2日から入院し、9月16日の午前9時に手術が始まりました。12時間かかるといわれていた手術は、太ももの肉からの舌の再建に時間がかかったそうで、17時間にも及びました。麻酔が完全に効くまでの恐ろしい時間の後は、寝ているだけなので時間の感覚がまったくありません。手術直後はあらゆる管につながれて寝返りも打てず、のどに詰まるたんを自分の力で出すことさえできなかったのに、その後の回復は目覚ましかったようで、間もなく自分の足でスタスタ歩き、医療スタッフの皆さんをびっくりさせていました。文字どおり「生還」を果たしたのは〝生〟へのシンプルな欲求だったのかもしれません。病室から見える初秋の景色、ICレコーダーで聴いたオーケストラの響きに「私は生きているんだ」と涙しました。

呼吸はのどに1つだけ開けられた小さな永久気管孔からしかできません。くしゃみもタンもそこから出ます。手術で切り刻まれて崩れて膨れ上がった顔、感覚のないくちびる、点滴などの針で腕や手もパンパンで「楽器をやる人の手ではないな」「この口ではやはりフルートなんて二度と吹けない」と思いました。直視するのはつらいですが、鏡を見ながらでないと自分の口にスプーンを運ぶこともできません。今でも口を大きく開くことはできませんが、その頃はもっと開けませんでした。

手術直後に、ベテランの看護師さんと仕事の話になりました。声を出せない私はホワイトボードで筆談することで言葉を伝えます。「フルートは二度と吹けない、仕事にももう戻れない」とその時初めて声も出せずに泣きじゃくりました。彼女は私の背中をさすりながら「弱気になっちゃダメ。必ずなにか方法があるはずよ」と励ましてくれました。「生徒も待っていてくれているんです」と私は伝えました。

その後、ほんとうに待っていてくれた生徒は、今でも筆談レッスンに通ってくれています。ただ、状況としては絶望的でしたので、私を励ますために言葉を選んでくれていたんだと、はかない夢に過ぎないのだと思っていました。でも、今になって考えると、彼女の言葉はひと筋の希望としてずっと私の心に残っていたんです。今、彼女に伝えたいです。「あなたのひと言で希望をつなぐことができて、ほんとうに、奇跡的に、もう一度フルートを吹くことができましたよ」と。

「プロヴォックス」との出合いで、もう一度フルートを吹けるかもしれないと希望を持てました

一般病棟へと移される頃には、身体につながれた管が減って自由に動けるようになったり、シャワーを浴びられるようになったり、形のない食事ではあるけれど口から食べられるようになったり……。回復していくのがうれしい日々で、10月初旬にようやく退院できました。

その後、手術で取り切れなかった病巣の治療のため、同年11月から抗がん剤と放射線治療が始まりました。抗がん剤について、当時の主治医から受けた説明は恐ろしい内容でした。「使いたい薬に副作用があり、3~10%の確率で永久に耳が聞こえなくなるかもしれない」といわれたのです。説明を受けた私は涙があふれ、その場できっぱりと筆談で伝えました。「このうえ、耳が聞こえなくなったら、もう生きていたくありません」と。

結局、違う飲み薬で始まった抗がん剤治療は、白血球の値が悪化したりして身体に合わなかったらしく、短期間で終了しました。どうにも苦手な入院生活を拒否し、放射線治療のため週5日×6週間、計30回、電車で病院に通いました。体力が戻った今でも、永久気管孔1つだけの呼吸は、特に登り坂や階段は大変に苦しいですが、この頃はいちばん苦しくて、駅まで自転車で10分とかからない道のりを何度も休みながら30分くらいかけて通っていました。幸い放射線治療が功を奏したようで、病巣はおとなしくなり、恐れていた抜け毛も最低限ですみました。それでも副作用の口内炎や首の火傷やけどと闘った悪夢のような日々は、今でもときどきフラッシュバックします。

医療現場では、確実でないことは患者さんにいってはいけないのかなと私は勝手に思っていました。ただ、患者さんにわずかでも希望を与える言葉はとても大切だと感じます。つらい治療や、やり場のない気持ちの支えになります。その点、現在の主治医である茨城県立中央病院いんこう科・頭頸とうけい外科部長の西村にしむら文吾ぶんご先生には、「『プロヴォックス』というシャント発声器具でこんなことができた人がいるそうです。こんなものも食べられるようになった人がいるそうです」と、今思えばよい情報をたくさんいただいていたのだと思います。

シャント発声を打診されたのは忘れもしない2021年12月24日、その年最後の診察日でした。でも、その頃は副作用もつらく、体力も気持ちもどん底。想像していた以上に再建した舌は自分の意思で動かすことができず「どうせしゃべれるようにはならないのに、こんな状態でシャント発声をやってもしかたがない」と、すぐには受け入れることができませんでした。それでも、わずかな手がかりからネットで検索すると、後にお世話になることになる「ボイスプロテーゼ(製品名:プロヴォックスHMEシステム)」(人工鼻)を扱う「アトスメディカルジャパン(現・コロプラスト)」や患者会の体験談にたどりつきました。

病気になって以降、いくつもターニングポイントがあったと思いますが、偶然見つけたケーキを食べて食への感動を思い出せたこともその1つです。気力が戻り、シャント発声について真剣に考えることができるようになりました。

シャント発声では、ボイスプロテーゼというえん時に弁を密閉させるシリコン製の器具を食道と気道(気管)の間に手術で留置し、フィルターの付いたHMEというカセットを永久気管孔に装着し、そのボタンを押して気道をふさぐことによって肺からの空気が食道へ流れ、食道壁(粘膜ねんまく)が振動するしくみで発声します。さらに、プロヴォックスには「フリーハンズ」というサポート器具があり、これを使うと息圧で弁が開閉するので両手が自由になるのです。フリーハンズを発見した時、「口から息を吐くことができて、両手が使えて楽器が持てたら、もう一度フルートの音が出せるかもしれない」と、仕事もライフワークもすべて失った状態にようやくひと筋の光明が差し込んだような気がしました。

プロヴォックスの留置手術を決意したタイミングで、現在の主治医である西村文吾先生に変わりました。最近になって先生に聞いたことですが、実のところは「ほんとうにフルートの音を出すことなんてできるのだろうか」と半信半疑だったそうです。

プロヴォックスの留置手術は予定どおり2022年6月8日に行われました。その翌日、先生の事前の手配によって、アトスメディカルジャパンのスタッフにベースの貼り方や息の出し方、専用ブラシでのお手入れ方法などの手ほどきを受けました。再建した舌は永久に自分の意思で動かすことはできないので、話せるようにならないことは分かっていました。「もう一度フルートの音を出す」。そんな思いで受けた手術は大きな賭けでしたが、術後すぐには口から息が吐けませんでした。

その日から「プロヴォックス日記」をつけようと思い立ち2025年2月28日には、ちょうど1000日目を迎えます。毎日毎日小さな一歩の積み重ねで、「息が少し吐けた」「フルートを当ててみたらちょっとだけ音が出た」「二拍伸ばせた」「四拍伸ばせた」「四小節メロディが吹けた」などの内容です。その後フリーハンズ器具が手に入ってフルートを手にすることができたのは、実に11ヵ月ぶりのことでした。当初の日記を見返すと、我ながら涙ぐましい日々だったと思います。そんな積み重ねの成果で、8月頃には下手くそながら簡単なメロディが吹けるようになっていました。

患者会の定例会や院内交流会などでフルートの演奏をしている羽賀さん

次の大きなターニングポイントは、2022年9月26日。病院の診察室で主治医と看護師、アトスメディカルジャパンのスタッフにフルートを聴いてもらえることになったのです。フリーハンズ用のサポート器具(ベースの浮きを軽減するための器具)を試すためでしたが、その場にいた全員を泣かせてしまったようです。先生もこっそり涙を拭っていたように見えたのは、驚きと同時に大きな喜びでもありました。

その場に立ち会っていたうちの1人が、アトスメディカルジャパンの酒井さかい志保しほさん(※現在は退職)です。その時お会いしたご縁で、同年11月にアトスメディカルジャパンの社内パーティーでゲスト演奏することになりました。再びフルートを人前で演奏することができる日が来るとは思ってもみませんでした。同じ頃からフルートの自宅レッスンも細々と再開しました。現在の生徒は、発病前からの古い生徒さん3人のみ。筆談でゆったりのんびりのレッスンを許していただける方だけです。

一方で、がんとの闘いは終わったわけではありません。2023年からは半年に一度となった血液検査とCT検査の結果を聞くのが怖くて、日程が近づくと日に日に心が重苦しくなりました。「再発や転移があれば、今度こそすべてがおしまいだ」と思うと検査の後の予定は立てられず、楽しいことを考えることもできませんでした。

酒井さんとは、2022年の出会いとパーティーでの演奏に導いてもらって以来、ときどきメールでやり取りしています。2024年の春先、突然孤独感に襲われるようになり、酒井さんに「私が参加できる患者会はないでしょうか」と相談しました。「とにかく人と会いたい。新しい人間関係が欲しい」と思ったのです。喉頭がんの患者は圧倒的に年配の男性が多いのですが、東京のシャント発声患者会「悠声会ゆうせいかい」なら女性も何人か参加しているらしいとのことで紹介してもらいました。

初めて見学しに行った4月の定例会で、女性のメンバーがすぐに話しかけてくれ、グループチャットにも入れてもらいました。一気にお友だちが増えて、その場で入会を即決。入会して「世界が広がった」と感じました。患者会では順番にスピーチをするのですが、私だけしゃべれないので、入会した2024年5月から月1回の定例会で、スピーチの代わりにつたないフルート演奏を聴いてもらっています。人と関わって、フルート演奏を褒めてもらって、月1回東京に通うことは大きな楽しみと張り合いになりました。悠声会会長の鈴木すずき晄夫てるおさんの「過去は振り返らないことですよ」という簡単に聞こえるけれど深いお言葉は、私の新たな支えとなっています。

患者会でのスピーチの代わりのフルート演奏、これは大きな喜びであり楽しみです。西村文吾先生のご尽力により、2024年9月からは茨城県立中央病院でもシャント発声患者の院内交流会が始まり、人に聴いてもらえる機会が増えました。

また、嗅覚の研究をなさっている福岡国際医療福祉大学の石川いしかわ幸伸ゆきのぶ先生が、悠声会での演奏を絶賛してくれました。喉頭摘出者は一般に嗅覚を失うことが多いそうで、トレーニングで復活させることができるとのことでした。これは朗報で、失くしたもので唯一取り戻せる可能性があると聞き、私もトレーニングを始めて少しずつ改善しているようです。

メールやチャットという便利なツールがある時代に大いに助けられていますが、日常会話は基本的に電子ボードによる筆談です。買い物などでよく使うフレーズはカードにしてあり、相手に見せます。こちらがしゃべれないと察すると、耳も聞こえないと思って相手が慌てるのが分かるので「耳は聞こえます」というカードも作ってあります。患者会の方によると、耳も聞こえないと思われるのは「あるある」なケースなのだそうです。

決して治ることのない、こんな病気になったのには、きっとなにか意味があるはずです。今では、病気になっていなかったらご縁のなかったであろう人たちと出会うため、そして今の自分が奏でる音楽と出合うためと思えるようになりました。

私が私であるために、私は毎日フルートを手にしてその幸せをかみしめています。単なる「好き」ではない私のアイデンティティーです。

「話せなくても大丈夫。先生には言葉の代わりがフルートだから」。生徒の1人がいってくれた言葉です。途中で演奏不能になって止まっても「演奏できているのがすごいことで、私たち耳鼻科医にも勇気や希望を与えてくれる演奏です」。西村先生からいただいた言葉です。「失敗だなんて誰も思っていませんよ」。悠声会の鈴木会長の言葉です。「拙い演奏などではない、昔も今も唯一無二の音色」。ピアニストの友人の言葉です。人の声・言葉と同様に、楽器で奏でる音にもパワーがあると信じています。

私自身もまだがんとのサバイバルの真っ最中で、自分のことで精いっぱいではありますが、さまざまながんで悩まれていたり、克服しようとしたりしている方々にメッセージを送りたいと思います。健康だけには自信を持っていた私が、仕事にもライフワークにも欠かせない部位に原因不明でがんを患いました。ほんとうに人生にはなにが起こるか分かりません。

「なんで私が……」と今でも悔しくてつらくてたまらないことも多いですが、健康な時には見えなかったものが見えることもあります。小さな幸せに気づくことも、病気になったからこそ出会える人も。失ったものやできなくなったことを数えるのではなく、人と比べず、小さな喜びを見つけて生きていきましょう。そして、1人で悩まず、家に引きこもらず外に出て、人と交流しましょう。必ず心が少し軽くなり動き出します。