プレゼント

乳がん闘病中の涙を変えてくれた家族に感謝

患者さんインタビュー

原田 祐子さん

左胸の違和感は炎症性の乳がんで、5年生存率が50%と知ってショックを受けました

[はらだ・ゆうこ]——愛知県生まれ。49歳のとき、ステージⅢBの左炎症性乳管がんであることが判明。抗がん剤治療とコータック治療を受けた後、現在まで再発の兆候なく過ごしている。著書に『ガンと宣告された日』(Kindle版)がある。

2016年4月14日、熊本県で震度7の大地震が起こりました。私はすぐさま主人と2人で車に水と食料を積み、被災地へと向かいました。熊本在住の親しい友人の安否が気がかりだったうえ、夫婦2人して困っている人がいたら居ても立ってもいられない性分で、とてもじっとしていられなかったのです。

愛知県みよし市に住む私たち家族は、自動車の部品を開発する会社を営んでいます。みよし市から熊本までは、高速道路を使って主人と交代で運転してもおよそ12時間はかかります。それでも、物資を受け取ってくれた被災者の方々の笑顔を目にしたとたん、長時間にわたる運転の疲れは一瞬で吹き飛んでしまいました。

そんな私の体に異変が起こったのは、熊本から帰ってきた直後でした。熊本地震の少し前から左胸が固くなり、()れている感じがしていました。「生理前だから」とあまり気にしていませんでしたが、熊本から帰ってきて生理が終わってからも、胸の違和感は変わりませんでした。

4月26日、近所の総合病院で検査を受けると、「2日後の午後に検査結果が出ます」といわれました。ところが、結果が分かるはずだった日の午前中に病院から電話がかかってきたのです。「詳しい検査をするので昼食を抜いて来てください」といわれ、不安な気持ちがしだいに膨らみはじめました。

CT(コンピューター断層撮影)検査を受けた後、ドキドキしながら主治医の先生の説明に耳を傾けました。先生は「あくまでも中間報告ですが」と前置きをして、「細菌性ではなく悪性です」と告げました。悪性ということは、もしかして私はがんなのですか——そう質問したかったのですが、怖くてたまらなかった私の口からは、どうしても言葉が出てきませんでした。

5月6日、主人といっしょにCT検査の結果を聞きに行くと、主治医の先生から「左炎症性乳管がんでステージはⅢB、リンパ節にも転移があります」と告げられました。乳がんの中でも1%くらいの極めてまれなタイプのがんなのだそうです。普通の乳がんはしこりができますが、炎症性の場合は皮膚が赤くなって腫れるのが特徴です。

リンパ節以外に転移がなかったのが救いでしたが、主治医の先生から「進行が速くて治療が難しいがんです」といわれて(がく)(ぜん)としました。「いまは大きすぎて手術ができません。抗がん剤治療でがんが小さくなったら手術ができます」という説明も受けました。

5年生存率は50%とのことでした。当時、私は49歳。「まだ死を考えるには早すぎる」と思っていました。それなのに突然、「50代半ばまで生きられる確率は半分しかない」という事実に直面せざるをえなくなったのです。

がんと分かった日の夜、大学生の長女と高校生の長男にありのままを告げると、2人とも落ち着いて話を受け止めてくれました。長女は、熊本地震の直後、状況もよく分からないまま被災地に向けて飛び出して行った両親を見て、「2人とももう帰って来ないかもしれない」と覚悟していたようです。長男も冷静で、親元を離れて寮生活を送るようになったからか、いつの間にかずいぶん成長したように感じました。

その後、3週間おきの抗がん剤治療が始まりました。全部で8回の治療です。治療の合間に、がん患者さんたちの集まる患者会にも参加しました。私と同じ炎症性乳がんの患者さんはいませんでしたが、いろいろな体験や治療法の情報を交換し合うことができて、気持ちが休まる場所でした。

抗がん剤の副作用には何度も音を上げそうになりました。()()や手足のしびれ、口内炎、10㌔ほどの体重減に加えて最もショックだったのは、入浴中に髪の毛がゴッソリと抜け落ちたことでした。

抗がん剤治療の副作用の1つに脱毛があることは分かっていました。それでも、実際にくしでとかすたびに大量の髪の毛が抜け落ちると、たまらない悲しみに襲われたものです。放心状態に陥って浴室から出られなくなり、鏡に映る自分の姿を目にすると涙がとめどなくあふれてきました。

闘病中の私を支えてくれたのは家族や友人たちの穏やかさと力強い言葉による励ましでした

そんな私を救ってくれたのは、家族全員の愛情に満ちた穏やかさでした。髪の毛がなくなった私を見て、「とてもいい形の頭をしているよ」と笑いながら明るくいってくれたのです。

家族のおかげで、私の涙は〝泣き笑い〟に変わっていきました。そして、「がんにならなければ想像もできなかった新しい体験をしているんだ」と気持ちを切り替えられるようになったのです。ウィッグを幾つか購入し、帽子と組み合わせてささやかなおしゃれも楽しみました。

中でも主人は、常に冷静に私を見守ってくれていました。私たちの会社は、主人が経営を、私が経理と営業を担当しています。会社の経営だけでなく心の大切さについても長いこと勉強してきた主人は、「がんをきっかけに、患者さん本人はもちろん、家族も生き方を見直さないといけない」といつもいっていて、死後の世界や(りん)()(てん)(しょう)のことを話してくれました。

最初のうち、私は主人の言葉に「他人(ひと)(ごと)だと思って」と反発を感じていました。でも、あるとき、主人は会社の経営がどんなに忙しくてもいっしょに病院に行ってくれることに思い当たったのです。経済的なことを気にせず治療に専念できるのも、ひとえに主人のおかげです。そんな主人の背中を見ているからか、子どもたちも泣き事はいいません。家族からの応援をあらためて実感したとき、体の底からパワーが湧いてきました。

応援してくれたのは、家族だけではありません。主人にすすめられて両親や身近な友人たち、そして会社の幹部社員に乳がんのことを伝えたら、誰もが皆、自分のこととして真剣に受け止めてくれました。私の話を泣きながら聞いてくれたばかりか、神社にお参りに行ってお守りを届けてくれた友人もいます。皆が何とかして私を支えようとしてくれたのです。ほんとうにうれしく、ありがたいことでした。

そんなとき、ある人が1冊の本をプレゼントしてくれました。医師の(まつ)(ひさ)(ただし)先生が書いた『Dr.ドルフィンの地球人革命』という本で、おもしろくてあっという間に読み終えました。松久先生のセミナーに参加すると、先生から「あなたはがんになるのを決めてきた勇気ある(たましい)なんだ」といわれ、医師でありながら精神世界に(ぞう)(けい)が深い先生ならではの言葉に勇気づけられました。がんになったのは〝自分で決めたこと〟だと思うと、真正面からがんと向き合えるようになったのです。

自分の心としっかり向き合うことで、悔いのない治療法を選択することができました

気持ちが変わると状況も好転してきました。10月5日に7回目の抗がん剤治療を受けたとき、がんが小さくなっていることが分かったのです。主治医の先生から「これなら手術ができます」といわれました。

とはいえ、私の場合は乳房を全摘する手術しか選択肢がなかったので、心底迷い、悩み抜きました。乳房を失うという決断には、理屈では割り切れない重さがあったのです。

なんとか手術を避けられないかと悩んでいると、知人から「コータックという特殊な放射線治療によって乳がんの治療効果が期待できる」と教えてもらいました。コータックはオキシドールとヒアルロン酸をがんに注入してから放射線を当てるという治療法で、オキシドールには放射線に対する感受性を上げる効果があるのだそうです。当時はまだ臨床試験段階で、一部の病院でしか行われていない治療法だったせいか、主治医の先生には頭から否定されてしまいました。

乳がんの再発の兆候はなく、お嬢さん(左)とエジプト旅行を楽しむ原田さん(右)

手術かそれとも特殊な放射線治療か、どちらを受けるほうがいいのか——さんざん悩んた末、手術をほんとうに受けたいと思っているのかどうかあらためて自分に問いかけてみると、はっきりと出た答えは「受けたくない」でした。迷いは消えました。

コータック治療の前に、最後の抗がん剤治療を受けました。きつかったけれど、がんばったかいがありました。PET(ポジトロン放出断層撮影装置)検査の結果、皮膚の表面にあるがんがきれいに消えていることが分かったのです。

とはいえ、リンパ節に転移したがんは、いつ再発するか分かりません。不安でしたが、「自分で選んだことだから、運を天に任せよう」と決意。11月21日に神戸の病院で1回目のコータック治療を受けました。全部で5回にわたる治療を受け、12月6日に退院。リンパ節のがんも消え、現在まで再発の兆候なく、海外旅行やパワースポット巡りに出かけるなど、毎日はつらつと過ごしています。

退院後、会社の集会で約90名の社員に感謝をつづった手紙を手渡しました。いま、私がこうして生きていられるのは皆さんのおかげ——そんな感謝の思いが涙とともにこみあげてきて、気づけばうれしさのあまり、1人ひとりを抱き締めていました。

がんを経験してから、どんなにたくさんの人たちに支えられて生きているかを身にしみて感じています。周りの人たちや出来事に感謝できる人生こそ幸せなのだと気づいたいま、さらに一歩進んで、「周りの人たちから感謝してもらえるような生き方をしていきたい」と決意を新たにしています。