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誤嚥に苦しんだ母のために〝誤嚥防止イス〟を作りました

ニッポンを元気に!情熱人列伝
一般社団法人体具開発研究協会理事 竹田 裕彦さん


細菌や食べ物が肺に誤って入ることで起こる誤嚥性肺炎に苦しむ高齢者が増えています。〝姿勢〟という観点から誤嚥対策を提案しているのが竹田裕彦さんです。新発想のイスが生まれた背景には、介護を続けた母親への愛がありました。

誤嚥性肺炎に苦しんだ高齢の母のために開発を決意しました

[たけだ・やすひこ]——1946年、鳥取県生まれ。カイロプラクティックの専門家として、海外の学術誌に複数の論文を発表。母親の介護をきっかけに、2007年から誤嚥を防ぐイスの開発に取り組んでいる。

厚生労働省が定期的に行っている「人口動態調査」の死因の項目に、2018年から新たに「誤嚥性肺炎ごえんせいはいえん」が加わりました。誤嚥性肺炎は、高齢者を中心に急増している疾患の1つです。竹田裕彦さんのお母様も、誤嚥性肺炎に苦しんでいました。

「高齢になった母の介護をしていましたが、仕事もあるため、ずっと付ききりではいられません。仕事で出張するときは、母を施設に預けることもありました。私が付き添うことができないとき、母は決まって誤嚥性肺炎を起こすので、そのたびに入院させていました」

誤嚥性肺炎は、本来は食道を通る唾液だえき食塊しょくかい(噛み砕かれた食べ物と唾液が混ぜ合わされてできた飲み込む前のかたまりのこと)、それらに付着した細菌が気管から肺に誤って入り炎症を起こす疾患です。患者数は年々増加し、年間4万人近くが誤嚥性肺炎で亡くなっています。

誤嚥性肺炎が起こる原因は、嚥下障害えんげしょうがいです。嚥下とは飲み込む動作のこと。さまざまな理由で飲み込む動作に不具合が生じている嚥下障害は、誤嚥性肺炎の他にも多くの問題を引き起こします。飲食への抵抗感を高めて栄養不足や脱水症状を招くほか、食塊が気道を塞いで窒息を引き起こすこともあるのです。嚥下障害を起こさないようにするには、「飲み込みやすい食材に替える」「飲み込むための筋肉を鍛える」などの方法が挙げられます。筋骨格を整えることで健康維持を図るカイロプラクティックの専門家である竹田さんが注目したのは、食べ物でも筋肉でもなく〝姿勢〟でした。

「高齢者の方が食事をするときは、前かがみの姿勢を取ると誤嚥を起こしにくいんです。ところが、高齢者は食事をするさいに上半身を動かすので、座る位置が前へと滑り出し、頭が後方へ移動する、いわゆる〝ズッコケ座り〟をしてしまいます。すると、あごが上がった状態で食事をすることになるのです」

人工呼吸の方法からも分かるように、あごを上げた姿勢は気道が開くため、誤嚥を引き起こしやすい状態といえます。食事中の誤嚥を防ぐには、姿勢をやや前かがみにさせて、あごをのどの位置より下げた姿勢を維持するべきなのです。

座面と背面を工夫した誤嚥防止イスが完成し大学で効果を実証

畳に座ってちゃぶ台などの低い座卓を使う和風の食卓は、前かがみの姿勢になりやすいといえます。生活の欧米化に伴ってイスとテーブルを使う食卓が普及したことも、高齢者の誤嚥が増えている理由の1つだと分析している竹田さん。イスに工夫を施すことで、誤嚥を起こしにくい姿勢を維持できるのではないかと考えたそうです。

「多くの店を回り、誤嚥を起こさない前かがみの姿勢を維持できるイスを探したのですが、見つけることはできませんでした。後ろから頭を抑えるような形で前かがみの姿勢を取ることができるイスを見つけましたが、上半身が固定されているため、何かがのどに詰まって気道を塞いだら、セキをして吐き出すことができません。残念ながら、安全面を考えると満足できるイスではありませんでした」

その後、工学を専門とする大学教授に話を聞く機会があった竹田さん。教授から「誤嚥を防ぐためのイスなんてありえない。神様にだって作れないよ」といわれたそうです。

それでも、竹田さんは諦めませんでした。母親を誤嚥から守るために、弟の貴生たかおさんとの挑戦が始まったのです。

「私はカイロプラクティックの専門家として、骨や筋肉といった身体構造の知識には自信を持っています。世の中に誤嚥を防ぐイスが存在しないなら、作ればいいんです。イスの素材を弟が探し、私の知識を生かして2人で作る。きょうだい力を合わせて開発を始めたものの、毎日が試行錯誤の連続でした」

数えきれないほどの失敗を重ねる中で竹田さんが注目したのは、高齢者が食事のさいに取る特徴的な動きでした。食べ物を口に運ぶたびに、顔をテーブルに近づける動きを繰り返していたのです。前後運動の負担を減らすために、座る位置は徐々に前方に移動します。背もたれを使わないため、骨盤は後ろに倒れて背中が丸まります。すると、自然とあごが前に突き出して、のどよりも上に位置するようになってしまうのです。

「私と弟は、座る位置と骨盤の傾きを安定させれば、誤嚥を防ぐ正しい姿勢を取れると考えました。高齢者用のイスとして負担が少ない材料を選び、4度の試作を経て、ついに誤嚥を防ぐイスを完成させることができたのです」

竹田さんきょうだいが完成させた誤嚥防止イスのいちばんの特徴は座面にあります。食事のさいに座る位置が徐々に前方に移動するのを防ぐため、座面の前方が後方より高くなっています。さらに、座る部分のクッションをその前後のクッションより柔らかくすることで、おしりがすっぽりとはまりやすくなる工夫が施されています。

「背もたれにも工夫があります。骨盤が後ろに倒れないようにしっかりと支えながら、骨盤を圧迫しすぎない程度のクッション性を発揮できるように設計しました。クッションには絶妙な反発性があるため、食事のさいに上半身を前後に動かしやすく、疲労感が減って姿勢の悪化を防ぐことが期待できます」

誤嚥防止イスを健康な65歳以上の男女13人に使用してもらった試験の結果、のど周辺の筋肉に負担がかかっている時間が短縮していると判明。姿勢が正され、ものを飲み込みやすくなっていることが分かった

実際に竹田さんのお母様が誤嚥防止イスを使ってみると、食事中にむせる回数が激減。手ごたえを感じた竹田さんは、鳥取県智頭ちづ町立病院附属の高齢者施設と共同でモニター試験を行いました。その結果、誤嚥による窒息事故や肺炎が1件も起こらなかったのです。

「モニター試験の後、国際医療福祉大学と共同で、私たちが開発したイスの誤嚥防止効果を確かめる試験を行いました。試験に協力いただいたのは、健康な65歳以上の男女13人です。一般のイスと比較したところ、飲み込むさいに筋肉を使う時間が有意に減り、食べ物を飲み込む負担が軽くなることが分かったのです。使用者の感想のみならず、大学の試験で機器の計測により、数字として有効性が証明されたことは、大きな意味を持っていると考えています」

国際医療福祉大学との共同試験の結果は、第17回日本言語聴覚学会で報告されました。研究結果も踏まえて、竹田さんは誤嚥防止イスの特許を取得。本格的な普及に力を入れようとしていたときに突然、絶望のふちに突き落とされることになったのです。

「2018年の暮れのことです。ずっと二人三脚で誤嚥防止イスの開発に取り組んできた弟が、がんと診断されたのです。転移も見られましたが、弟は最後まで病床から戻ることを諦めていませんでした。誤嚥防止イスの普及という夢の半ばに世を去った弟の気持ちを思うと、いまでも悔しさに胸が苦しくなります」

竹田さん(中央)は株式会社シモオカの皆さんとともに、誤嚥防止イスの普及に取り組んでいる

弟さんの遺志でもある、誤嚥防止イスの普及活動を続けたものの、たった1人の営業活動では成果が伴わなかった竹田さん。理解者を求めて無我夢中で送った1通のメールが、大きな転機をもたらしました。誤嚥防止イスの普及に協力してくれる新しいパートナーと出会うことができたのです。

「他にも複数の企業と話す機会がありましたが、話がまとまることはありませんでした。そんな中で出会った株式会社シモオカの皆さんは、誤嚥防止イスがこれからの高齢社会に不可欠なものであることを理解してくださっただけでなく、普及のノウハウも持っていました」

新しいパートナーと共同で製作に取り組んだ竹田さんは、介護施設などで使っても簡単には破損しない、丈夫な素材・構造の誤嚥防止イスを完成させたのです。

「2019年に、ついに海外の医学専門誌に私たちきょうだいが開発した誤嚥防止イスの学術論文が掲載されました。いまでは海外の施設からも問い合わせをいただいています。母のために弟と積み重ねてきたことが、ようやく世界に認められたと感じています」