プレゼント

生きる〝速さ〟と世界の〝広さ〟が変わりました

患者さんインタビュー

吉田 美佐子さん

上咽頭がんが見つかるまでは寝る間も惜しんでバリバリ働く企業戦士でした

[よしだ・みさこ]——東京都生まれ。大手保険会社で働いていた43歳のとき、上咽頭がんであることが判明。75回の放射線治療を受ける。退職後、仲間とともに有機無農薬栽培に挑戦したり、冒険家の「葦船太平洋横断プロジェクト」を支援したりしている。

がんになる前と後では、生きていく〝速さ〟と目に入ってくる世界の〝広さ〟が大きく変わったんです。43歳のときに上咽頭(じょういんとう)がんを経験したことが、私の人生の転機になりました。

高校を卒業した後の2年間、私は子ども向けの劇団に入り、全国を巡ってお芝居をしていました。ところが、地方での公演中に父が倒れたという知らせを受け、東京へ戻って広告会社の事務の仕事に就くことになったんです。22歳のときにいまの主人と結婚。結婚後は着ぐるみの製作会社で働きはじめました。

26歳のとき、主人といっしょに1年間ヨーロッパ各国を巡る旅に出ました。デザイナーの主人に「これから先の仕事の糧になるよう、ヨーロッパ各国の文化や芸術を見ておいたほうがいいんじゃない?」と私から提案したんです。

ヨーロッパ旅行といっても、安宿に泊まりながらの貧乏旅行でした。野宿をしたことさえあったんです。それでも、きっと若かったからでしょう、希望に満ちたワクワクする旅でした。

帰国後、私は太陽光の温熱器の製造会社とレース生地の問屋で働きました。働くのは好きでしたが、なかなか一つの会社に落ち着くことができないまま30代を迎えました。

32歳のとき、縁があって大手の保険会社に就職しました。上司にも恵まれ、仕事も自分に合っていたのか、57歳で退職するまで20年以上お世話になりました。特に法人部へ配属になってからは、さまざまな仕事に携わりました。大企業の新入社員に向けたマナー研修の講師や、自社の営業マンの教育係という大役を任されたこともありました。

当時の私は猛烈な企業戦士でした。「24時間戦えますか」というキャッチフレーズのテレビコマーシャルがはやっていた頃でしたが、まさにそのとおりの生活を送っていたんです。

毎朝8時には出社して、夜の11時半に帰宅するまで一心不乱に働きました。どんなに疲れて帰宅しても、翌日の仕事が気になってあれこれ準備をしていると、ベッドに入るのは午前2時から3時頃。それでも、毎朝六時には起きていたんです。ブレーキが壊れた自動車のように、猛スピードで突っ走っていました。会社に強制されたわけではなく、みずから進んでエンジンをふかしていたんです。

「生きられる」という想いを心の支えに、75回に及んだ放射線治療を乗り越えました

1998年8月、耳に違和感を覚えました。違和感は飛行機が離陸するときの耳の詰まりに似た感覚で、通勤途中や仕事中にたびたび起こるようになったんです。仕事に集中できなかったので、会社の近くの耳鼻咽喉(じびいんこう)科を受診しました。担当の医師から「耳ではなく鼻に問題がある」といわれて内視鏡の検査を受けると、鼻の奥にがんが見つかりました。「蓄膿症(ちくのうしょう)かな」と軽い気持ちで受診した私は、がんと分かってびっくりしました。その場で紹介状を書いてもらい、翌日にはがんの専門病院で精密検査を受けました。自分の身に何が起こっているのか理解が追いつかないまま、必死で医師の指示に従おうと右往左往しているような状態だったんです。

精密検査の結果、上咽頭がんであることが分かりました。がんが見つかったのは、ちょうど額のところ、第3の目と呼ばれる部分の奥の頭蓋骨(ずがいこつ)の近くでした。さらに、首の右側に8個くらい点々とできていた小さなしこりも、リンパ節への転移がんだと分かったんです。がんがこれ以上進行すると、体中に広がっていく危険性がありました。

担当の医師から「上咽頭がんは手術が難しい部位にできるので、放射線治療を行います」といわれました。「放射線」と聞いた私はとっさに、がんによる死の恐怖よりも、顔にケロイド状のひどい傷ができるかもしれないという恐怖におののきました。「命に関わることなのに」と驚かれるかもしれませんが、女性には少なからず共感してもらえると思います。

放射線治療が始まるまでどうやって過ごそうかと悩んだ末、「やりたいことは全部やろう」と決めました。別れを告げたい友人に会いました。夫とディズニーランドで遊びました。海へ行き、泣きながら切ない思いを大声で叫びました。思い起こせば、「もっとほかにもやることはあっただろう」と我ながらあきれるほどです。でも、当時は「がんになったら命を落とすか、あるいはたとえ生き延びられても家に引きこもって過ごすことになるはずだ」と思い詰めていたので、とてもじっとしてなどいられませんでした。

治療のために入院してから3日目の朝、私は不思議な体験をしました。病院の最上階のラウンジへご来光を見に行ったときのことです。窓ガラス越しに真っ赤な朝日を拝んでいると、直径一㌢ほどの黒い(かたまり)が太陽から私に向かって何度も飛んできたんです。1度目は窓ガラスに当たって下へ落ちてしまいました。2度目は窓ガラスを通り抜けて私の足元に落ち、3度目は私の周りをぐるぐると回りました。

ぼう然としたまま黒い塊を見つめていると、後頭部をすっと押されたような感じがして「生きられる」という〝(おも)い〟が入ってきました。私はその体験を〝神との約束〟と受け止めました。

幼い頃からマザー・テレサに憧れていた私は、「神から与えられた使命を(まっとうしたい」と常々感じていました。だからこそ、たとえ幻や思い込みであったとしても、「生きられる」という神との約束は、私の心の底にしっかりと根づきました。この体験を思い出すと、つらい治療の最中であっても必ず気力が湧き上がってきました。いまでもつらいことや迷うことがあるたびに、前へ進む勇気をもらうことができるんです。

9月1日に放射線治療が始まりました。がんと判明してから1ヵ月後のことです。私は顔に傷が残るのを防ぎたい一心で、治療後は毎回保冷剤を顔に当てて寒気を覚えるほど長時間冷やしていました。おかげで、大きな傷が残らずに済みました。

主人は私の入院直後に仕事を辞め、入院中ずっと付き添っていてくれました。事前に相談がなかったので心底驚きました。経済的なことを考えると少々心配でしたが、「『もっといっしょにいればよかった』と後悔だけはしたくない」という主人の決断を尊重したいと思いました。そばにいてくれた主人には、いまでも心から感謝しています。

75回の放射線治療を終えた私は、11月に退院しました。主治医からは「抗がん剤治療も受けたほうがいい」とすすめられましたが、上咽頭のがんと首のしこりがなくなったことと、放射線治療の副作用による心身への負担が大きかったことを理由に断りました。「生きられる」という神との約束を信じて、自分の感覚に従おうと思ったんです。主人も納得してくれました。

農作業や葦船作りを通して自然とともに過ごせることがうれしくてたまりません

退院後は家で養生しながら気功や漢方薬、サプリメントで体力を回復させました。半年ほどたつと食欲が出てきて、散歩にも出かけられるようになりました。何もできない苦しい時期が続いた後は、元気なときには気にならなかったささいなことがたまらなく新鮮に感じるようになりました。

ある雨の日、傘をさして公園を散歩していたときのことです。雨がやみ、雲が切れて日がさしてきました。ふと辺りを見回すと、草木が雨に濡れていきいきと茂っていました。葉っぱから雨のしずくがぽたりと落ちるのが目に留まりました。しずくの形が、まるでスローモーションのようにはっきりと見えたんです。初めての体験でした。私は感動のあまり、しばらくその場から動くことができませんでした。

自然とともに生きるなんて、都会であくせく働く私には無理だと思い込んでいました。でも、雨のしずくが目に留まった瞬間、自分の周りをていねいに観察すればいくらでも身近な自然を感じられることに気づいたんです。「仕事に追われて生きるのではなく、自分に合ったペースで自然とともに生きたい」と実感した私は、自分の生きる〝速さ〟を見つめ直すことにしました。

体力が戻って仕事に復帰しましたが、もう企業戦士になる気はありませんでした。定年を迎える前に会社を退職し、いまはコメや野菜の有機無農薬栽培に取り組んだり、(あし)で作った船で太平洋横断を試みる冒険家の壮大なプロジェクトを支援したりしています。人間と自然の橋渡しをしようという活動があれば、手弁当で駆けつけているんです。

千葉県にある鴨川(かもがわ)自然王国という農園では、コメや野菜の有機無農薬栽培に取り組んでいます。月に数回、私は仲間とともにこの農園へ足を運び、農作業に精を出しています。

土の上に立っていると心が落ち着きます。コメも野菜も土があるからこそ育ち、私たちの命を支えてくれます。私は入院中に受け止めた神との約束と同様に、土からも「生きられる」という安心感をもらっているんです。

がんになってから、都会での生活に必死だった私の視野はどんどん広がって、自然でいっぱいの世界に自由に羽ばたいていけるようになりました。自然とともに生きることの魅力を()み締めながら自分のペースで年を重ねていける毎日が、うれしくてたまりません。

吉田さんは有機無農薬栽培に取り組んだり、

「葦船太平洋横断プロジェクト」を支援したりして充実した毎日を過ごしている