プレゼント

がんになってからは自分がどう納得できるかが大切になってきました。鏨が持てなくなる日まで、作品を作りつづけていきます

患者さんインタビュー

金工作家 鹿島 和生さん

1点1点、「これが最後の作品かもしれない」と思いながら、創作に向かいました

[かしま・かずお]——1958年、東京生まれ。1977年、人間国宝だった母方の祖父である鹿島一谷に師事し、翌年養子となる。第70回日本伝統工芸展東京都知事賞、第51回伝統工芸日本金工展東京都教育委員会賞、第42回伝統工芸日本金工展宗桂会賞ほか多数受賞。日本工芸会正会員、彫金工房「工人舎」主宰。

皆さんは〝金工きんこう〟というものをご存じでしょうか。金、銀、銅、鉄、真鍮しんちゅうのほか、日本生まれの銅合金である四分一しぶいち赤銅しゃくどうなどの金属を素材に、さまざまな技術を使って作品を作る工芸です。私は同じ金工作家だった祖父の跡を継ぎ、金工技法の一つである〝彫金ちょうきん〟を専門に金工作家として活動しています。

作家とは因果な商売です。デザインが決まらない時は、まさに〝生みの苦しみ〟です。完成形がイメージできるまで、頭の中でのたうち回るように考えています。それだけに、自分ががんを告知された時は、ほんの一瞬ですが「これで創作の苦しみから逃れられるのか……」と思ってしまいました。

私ががんの告知を受けたのは2019年6月のことでした。自治体が行っていた無料の健康診断で異変が見つかり、紹介された総合病院に足を運んで検査を受けました。結果はステージ4aの下咽頭かいんとうがんと、初期の食道がんを併発しているとの診断でした。それまでの私は病気らしい病気をしたこともなく、なんの自覚症状もなかったので、がんの告知はまさに青天の霹靂へきれきでした。

がんと診断された時、「これで創作の苦しみから解放される」と、たとえ一瞬でも感じたことは自分でも驚きあきれました。一方で、今こうして私を救ってくれているのも、「作る喜び」にほかならないと痛感しています。

自分の時間が有限である事実を突き付けられた私は、「作家としてのQOL(生活の質)を第一に医療者としてのサポートをお願いします」と主治医の先生にお伝えしたうえで、治療については完全にお任せしました。あれこれ自分で調べたり、セカンドオピニオンを求めたりするようなことはいっさいしていません。自分に残された時間をできるだけ創作活動に費やしたかったからです。

がんの告知を受けた2ヵ月後の8月から、下咽頭がんに対する放射線治療と抗がん剤治療が始まりました。事前に主治医から「抗がん剤の副作用がひどくて、なかなか退院できない人もいる」との説明がありましたが、奇跡的にも私は後遺症の味覚障害以外に副作用に悩まされることはありませんでした。

布目銷盛象嵌扁形鉄花器ぬのめけしもりぞうがんへんけいてっかき阿吽あうん」』は、昨年鹿島さんが第70回日本伝統工芸展で発表した作品。東京都知事賞を受賞した

私は、病室に作品を持ち込んで病室でもできる作業をしたり、技法書に寄稿する原稿の推敲をしたりして過ごしました。病気全般にいえることでしょうが、なにもせずにいるとあれこれ余計なことを考えてしまい、不安が膨らんでしまいます。入院中もあえて暇な時間を作らなかったことは、私にとってはとてもよかったですね。

放射線治療はかなり過酷で35回の照射が限界らしく、主治医の先生から「鹿島かしまさんの体には二度とできません」といわれてしまいましたが、自分としてはそれほど苦痛ではありませんでした。むしろ、翌年の3月に受けた食道がんの内視鏡手術のほうが気管切開を必要とし、術後のQOLは下がりました。

2つのがんの治療を終え、定期検診でも異常がなく、2年の月日が流れていきました。その間、以前にもまして創作活動に力を注ぎました。1点1点、「これが最後の作品かもしれない」と思いながら、創作に向かったのです。

彫金から離れたことで、創作活動が人生のすべてを支えていたのだと気づきました

鹿島さんは、病室に作品を持ち込み、創作活動を続けた

不思議なことに、2021年6月頃からお茶をこぼしたり、字がうまく書けなくなったりなど、気になる症状が出てきました。脳神経内科を受診すると、「本態性振戦ほんたいせいしんせん」という脳神経の病気だと判明しました。

高齢者によくある病気らしく、震え以外に大きな症状はありません。しかし、金工作家という職業柄、たがね(金属や岩石を加工するための工具の一種)を持つ手が震えてはなにもできません。自分に合う薬に出合って震えの症状が改善するまで4~5ヵ月かかったのですが、その間は先行きが見えない、暗闇の時間でした。

毎日なにもできないので、使わない紙を切ってメモ用紙を作ったり、指1本でキーボードを打って手紙を書いたり……彫金から離れざるをえない状況に置かれたことで、創作活動が人生のすべてを支えていたのだと気づきました。精神的には、がんになったことよりはるかにつらかった。今でも脳神経内科への通院は欠かせませんが、幸い震えは止まって創作活動を支障なく行えるまでに回復しています。

本態性振戦の症状もようやく治まり、展覧会に向けて精力的に創作活動にいそしんでいた時のことです。妙に声枯れが気になりはじめました。原因を探るために、CT(コンピューター断層撮影法)や、MRI(磁気共鳴画像法)をはじめ、いくつも検査を受けましたが、どれも病名を確定するには至りません。

結局、2022年の初め、診断を確定させるための手術を受けた結果、下咽頭がんの再発と判明しました。すでに私ののどは前回の治療で大きなダメージを受けており、再び放射線治療を行うことはできません。ですから、選択肢は咽頭摘出の一択でした。声帯を含む咽頭の摘出はすなわち声を失うということです。

本態性振戦の震えに苦しんだ経験がなければ、私は声を失うことに深く絶望していたかもしれません。でも、手が震えずに鏨さえ持てれば、たとえ声が出なくても作品を作ることができます。

「のどを摘出する手術を受けるので、声が出なくなります」と仕事関係者に伝え、所属する団体の執行部からは退くことにしました。手術前には筆談でコミュニケーションを取る練習もして、前向きな気持ちで手術を迎えました。

「手の震えのほうが、がんになったことよりはるかにつらかったです」

2022年3月の手術では、のどの大部分を摘出し、腸の一部である空腸くうちょうを使って新しい食道を再建しています。また、胸の皮膚をのどへ移植する手術を受けました。のど、腹、胸の3ヵ所の手術を同時に行うので、12時間近い大手術になったんです。今回も手術後の入院生活では病室に作品の下地を持ち込んでデザインを推考しながら、退院後のQOL向上のために首の運動や病棟内の散歩などのリハビリテーションに精を出して過ごしました。

私は、がんであることをSNSの1つであるFacebookフエイスブックで公表しました。自身を「サイレント・カズ」と命名することで、これまでとは違う自分に生まれ変わったと、自他ともに明らかにしたのです。「二人に一人ががんになる時代」ですから、SNSを通して私の生き方が少しでも誰かの参考になれば、という願いもありました。

声を出せない期間は対面で人と話す時に、もっぱら携帯用の電子メモパッドを使っていました。伝えたいことがあれば、ササッとメモパッドに書いて伝えるんです。おかげで字を書くのが速くなり、伝えたいことを簡潔にまとめる要約力も身につきました。思わぬ能力が磨かれたのも、声を失って得た特典です。

月1回の患者会では、医師では分からないきめ細かなアドバイスがもらえるので、助かっています

実はのどの摘出手術を受ける時、主治医の先生から代用発声法として「シャント発声」という方法があることを教えてもらっていました。シャント発声は、分離した気道と食道の間に「プロヴォックス」という一方弁を埋め込み、空気を食道に送りこんで話す方法です。手術が必要になるものの、自分の声に近い状態で会話ができます。

声を失っていた時期は、電子メモパッドで会話していたという鹿島さん

私の場合はまだ会話の際に器具を指で押さえなければならず、装着したプロヴォックスのメンテナンスや定期的な交換も必要ですが、ほかの代用発声法と比較して最もしっくりくる選択はこの方法だと思いました。のどの全摘手術から9ヵ月後に、プロヴォックスを装着するシャント手術を受けたんです。今は小さな声しか出せませんが、筆談よりずっとダイレクトに意思の疎通ができるようになりました。

今は定期的な検診を受けつつ、創作活動や主宰している彫金教室での指導、仲間との交流などで毎日忙しく過ごしています。がんになったら同じ病気の患者会に入ることがおすすめです。私もプロヴォックスを装着している喉摘者の会(悠声会ゆうせいかい)に入会し、さまざまな情報交換ができるようになりました。医師では分からないきめ細かなアドバイスがもらえるので、たいへん助かっています。「悩んでいるのは自分だけではない」と分かるだけでも救いになるのではないでしょうか。

がんになってからは、以前のように人からどう評価されるかではなく、自分がどう納得できるかが大切になってきました。私にはまだ作りたいものがたくさんあります。鏨が持てなくなる日まで、作品を作りつづけていきます。