原因不明の失禁によってがんと判明してから、周囲の支えで最適な治療法を選択できました
私はフィリピン系のアメリカ人です。アメリカの大学で日本語を学んだことがきっかけで、日本に興味を持ちました。22歳のときに上智大学に留学し、日本という国がとても好きになりました。大学卒業後は日本企業に就職し、日本で暮らすことに決めたのです。
23歳のときに知り合った日本人の女性と2年後に結婚した私は、34歳で息子を授かりました。結婚してから、仕事でも大きな変化がありました。「人々に知識を伝え、教え導くことが好きだ」という自分の根底に流れる欲求に気づき、勤めていた会社を辞めてビジネス英語を教える仕事を始めたのです。人生は希望に輝いていました。
そんな私の人生が急変したのは、2008年1月、35歳のときでした。ある朝目を覚ますと、布団に失禁していたのです。
少し前からトイレに行く回数が増えていたのですが、失禁するとは思ってもみなかったので、すぐに近所の病院を受診しました。担当の医師から「ウイルス性のものでしょう」といわれ、薬をもらって帰りました。ところが、薬を飲んでも失禁が治まることはありませんでした。
再度病院で診てもらうと、大学病院の泌尿器科を紹介されました。大学病院を訪ねたところ、膀胱周辺部を触診した医師から「すぐに生検を行いましょう」といわれたのです。その瞬間、「自分の体によくないものがある」と直感しました。医師の見立てでは、肉腫とのことでした。
帰宅してインターネットで調べてみると、どうやら自分の症状は悪性のがんで、余命は1年もないらしいことが分かり、強い衝撃を受けました。私は飲酒も喫煙もしないし、家族や近親者でがんになった者もいません。それに、当時の私はまだ35歳になったばかり。若くて健康にも体力にも自信がありました。
ところが、生検の結果、ステージⅣの濾胞性リンパ腫と判明。膀胱から前立腺にかけて、直径10㌢ほどの腫瘍が見つかったのです。この腫瘍が膀胱を圧迫し、原因不明の失禁が起こっていたとの説明を受けました。
生検の結果を聞きに行ったときに妻とアメリカから駆けつけた弟が同席してくれたことは、何よりも心強い支えでした。また、「このがんは治療が可能です」という担当の医師の言葉を聞いたとき、「がんになる」という悪夢のような出来事の当事者であるにもかかわらず、不思議と安堵したことを覚えています。
私は大学病院の医師から「1ヵ月間入院して抗がん剤治療を行いましょう」といわれ、心の準備をしていました。そんなとき、義兄にセカンドオピニオンをすすめられ、がんの専門病院を受診することにしました。
がんの専門病院での診断も大学病院と同じでしたが、提案された治療法が違っていました。「入院の必要はなく、外来で受ける抗がん剤治療でいい」といわれたのです。入院費の負担が減るのはありがたいことです。セカンドオピニオンの大切さを学んだ貴重な経験でした。
アメリカで治療を受けるという選択肢も検討したのですが、アメリカでは日本の何十倍もの治療費がかかります。私が日本で受けた治療では約9000ドル(約95万円)の費用がかかりましたが、同じ治療をアメリカで受けると15万~25万ドル(約1600万~2600万円)を負担しなければならないのです。アメリカでは、がんになると自己破産をする人が多いといわれていますが、この治療費の金額を知るとうなずけます。日本の国民皆保険制度には、ほんとうに救われたと感じています。
がんの治療に専念できたのは家族が支えてくれたおかげだと心から感謝しています
私は、がんになる前から不整脈がありました。そのため、担当の医師からR-CHОP療法(数種類の抗がん剤とホルモン剤、抗体薬を組み合わせた抗がん剤治療で、悪性リンパ腫の代表的な化学療法)をすすめられたとき、私は「心臓への負担が大きいのではないか」という懸念を抱きました。そのことを正直に打ち明けると、医師から心臓血管系の専門病院を紹介され、心臓の検査を受けることになりました。検査の結果、R-CHОP療法を受けても問題ないと分かった私は、安心して治療に臨むことができたのです。
R-CHОP療法を受けたがん患者さんの5年生存率は、およそ70%といわれています。生存率が高くなればなるほど、がん患者さんの心強い支えになります。もちろん、私の場合も例外ではありませんでした。
2008年3~8月にかけて、3週間のインターバルで8回のR-CHОP療法を受けました。治療中に困ったことは、抗がん剤治療の回数を重ねるごとに指先の感覚がなくなっていったことです。持っている物をすぐに落としてしまうのは、とても不便でした。それでも、治療を受ける前に、インターネットを通して情報を集めたり、同じ病気を経験した先輩たちの体験談を聞かせてもらったりしていたおかげで、落ち着いて治療を続けることができました。
がんになってから何よりもありがたく、尊いと感じたのは家族の存在です。長期間にわたる治療に専念できたのは、妻がフルタイムで働いてくれたおかげです。妻と息子にはもちろん、生検の結果に立ち会うためにアメリカから来てくれた弟にも、かわるがわる日本に来てくれた両親にも心から感謝しています。義姉と義兄の協力も心強く、精神的に助けられました。
定期検診は生涯続くものなので、アメリカで暮らすという選択肢がなくなったことは残念です。しかし、幸いなことに、私は抗がん剤治療が無事に終わってから、他の治療を受けずに済んでいます。5年前、医師から「再発のリスクがあるかもしれない」といわれ、首のリンパ節にできた腫瘍を切除しましたが、再発ではありませんでした。
「リブストロング」に参加してかけがえのない仲間に恵まれ勇気と希望をもらいました
治療中、私は妻が読んでいた本をきっかけに、「リブストロング」という団体を知りました。リブストロングは、世界的に有名な元自転車選手のランス・アームストロングが運営する団体で、がん患者さんやご家族の支援を行っています。
みずから精巣腫瘍を乗り越えた経験を持つアームストロングは、がんになった人であっても仕事や教育などの全人的な豊かさが得られるよう、社会全体が協力して乗り越えていこうという「がんサバイバーシップ」の概念を提唱しています。この考えに共鳴した私は、治療が終わって1年がたった2009年にがんと闘う人のためのイベントを開催。2011年にリブストロングのリーダープログラムに参加し、任意団体「ジャパン・フォー・リブストロング」を立ち上げました。
リブストロングは、がん患者さん1人ひとりにとって「知識を活用すること」「団結すること」「行動すること」が大切であるという宣言を掲げています。「がんは治る時代」といわれるようになったいま、がんの治療中だけでなく、「がんを治療した後の人生」をいかに続けられるかがとても大切なのです。
私自身、リブストロングに参加してたくさんの仲間に恵まれ、勇気と希望をもらいました。残念ながら、亡くなった仲間も少なくありません。かけがえのない仲間を失ったときの感情は、どう表現すればよいのか分からないほどつらいものです。しかし、その一方で、自分が生きていることの意味について深く考えさせられます。
だからこそ、私はがん患者さんを支援できるよりよい方法を自分なりに見つけたいと願っています。いま私が行っている活動は、チャリティーマラソンによる募金の呼びかけです。これまで35万ドル(約3700万円)の支援を受け、さまざまな団体に寄付してきました。
2017年に、私はアメリカの大学の通信講座で公衆衛生学の修士号を取得し、いまでは複数の医療機関や大学で英語を教えています。医療現場では英語の話せるスタッフが不足していますが、グローバル化が進むにつれて、日本に住む外国人に対する医療サポートの必要性はますます高まると感じています。
私は、いまでも定期検査を受けています。検査方法は主治医と相談して、医療被ばく量の多いCTスキャン(コンピューター断層撮影装置)を毎回受けるのは避け、超音波(エコー)による検査を取り入れるようにしています。「70歳までは生きたい」と思っているので、そのために必要なことと不要なことを医師に相談しながら見極めるようにしています。
私には、がんになってから感謝の念を忘れることなく、一瞬一瞬を楽しむ姿勢が身につきました。「がんになってよかった」とは決していえませんが、がんになったからこそ気づくことができた「大切なこと」は確かにあると思うのです。