プレゼント

がん治療を受けている多くの方に「バモス!」という言葉を贈りたいです

有名人が告白

プロ野球選手 原口 文仁さん

大腸がんと分かった時、最初に僕が口にしたのは「野球は続けられますか?」という言葉でした

[はらぐち・ふみひと]——1992年、埼玉県生まれ。2009年、帝京高校からドラフト6位で阪神タイガースに入団。2019年1月に大腸がんを公表。成績に応じた寄付金を医療施設などに贈るための「原口基金」を設立し、2020年には「原口文仁チャリティーラン フェスティバル inすさみ」を開催。収益の一部を日本対がん協会などに寄付している。著書に『ここに立つために―26歳で大腸がんになったプロ野球選手』(ベースボール・マガジン社)がある。

僕は野球と出合ってから、夢中で毎日を駆け抜けていました。プロ野球の世界へと飛び込んでからも、野球人生での成功を毎日真剣に目指していました。そんな僕の体に大腸がんが見つかったのは、26歳の時です。がんと判明した時、最初に僕が口にしたのは「野球は続けられますか?」という言葉でした。

僕が野球を始めたのは小学4年生の時です。テレビでプロ野球を見るのが好きで、自分でもやってみたいと思ったんです。その後は野球に没頭し、中学からの進学は高校野球の強豪校である帝京高校への野球推薦をいただきました。

自宅から帝京高校までは遠く、片道約2時間もかかりました。朝は5時24分の始発電車に乗り、帰宅するのは夜11時過ぎ。帰宅後も自宅でバッティング練習をし、午前2時頃に倒れるように眠る毎日でした。

毎朝、お弁当を用意してくれた母、帰宅後のバッティング練習に付き合ってくれた父、深夜にユニフォームの洗濯をしてくれた祖母、自主練習の手伝いをしてくれた姉と妹。家族や周囲の人たちに支えられ、野球に打ち込ませてもらった3年間でした。

高校3年の秋、阪神タイガースからドラフト6位指名を受けて、翌春からプロ野球の世界に進むことになりました。2016年4月に一軍デビューを果たし、5月には月間MVPをいただきました。その年の冬に、交際7年を迎えた最愛の人にプロポーズをしました。プロ野球選手として調子の良い時も悪い時も、いつも寄り添い、支えてくれた女性です。2018年3月31日には娘が生まれ、僕は父親になりました。娘の顔を見た時、「この命を守っていくんだ」という父親としての実感が込み上げてきました。

実をいうと、娘が生まれる前の2017年6月頃から、体のだるさを感じていたんです。長時間眠っても眠気が取れず、日々の疲れがなかなか抜けませんでした。大腸がんが判明した2019年は、プロ野球選手になってちょうど10年目。節目となる年を迎える前に「一度、体の状態をしっかり診てもらおう」と思い、2018年12月の末に人間ドックを受けることにしたんです。

検査の結果、便に血が混じっていることが分かり、2019年1月8日に胃カメラと大腸カメラを使った検査を受けました。検査をしている間、医師の表情がみるみる曇っていったことを今でもはっきりと覚えています。

医師から「私の所見と経験から、がんがあります」といわれた時は、すぐに状況を理解できませんでした。当時、僕は26歳でしたし、プロ野球選手として健康には人一倍配慮した生活を送っていました。ですから、自分が「がん」という言葉を告げられたことが信じられず、驚くばかりでした。

妻や子どもに囲まれた幸せな未来がずっと続いていくと思っていたのに、がんの告知によって突然「死」というものが迫ってきました。当時のスマートフォンに「娘の成長を成人までは絶対見届けたい」「妻のお婆ちゃんになった顔が見たい」というメモを残したことを覚えています。

原口選手は、Twitter(現・X)で大腸がんと診断されたことを公表した

内視鏡検査から3日後の1月11日、大腸がんであることが確定しました。リンパ節への転移があり、ステージは3bでした。がんと診断されたことを家族と球団に伝えた後、チームの先輩や同期、地元の友人たちにも連絡。そして1月24日に入院し、Twitter(現・X)で病気を公表しました。

当時の僕は落ち込むことなく、「5月にはチームに戻って、7月にはオールスターゲームに出る!」という未来を思い描いていました。オールスターゲームとは、セ・リーグとパ・リーグに所属するすべての選手から選抜したチームの対抗試合で、プロ野球選手にとって憧れの舞台です。

1月26日に受けた手術は無事に終わりましたが、術後の痛みは想像以上でした。それでも、翌日からは歩行練習をするようになりました。手術をした腸を動かして体になじませるために、少しずつでも体を動かさなくてはいけないそうです。

2月5日に退院した後も歩行訓練を続けました。その後は二軍の施設で「野球ができる体」を取り戻していくことになりました。

その一方で、2月6日から抗がん剤治療が並行して始まりました。医師からは事前に「体にどのような副作用が出るかは患者さんによって違うので、治療を始めてみないと分からない」と告げられていました。僕としては「頼むから耐えられる治療であってほしい」と願うだけでした。

幸い野球ができなくなるほどではなかったのですが、抗がん剤の副作用はかなり大きかったです。日によっては、血圧が下がりすぎて動けなくなることもありました。体がしんどくなったり、ひどい口内炎ができたりすることもありました。特につらかったのは、顔に影響が出た時です。まぶたや唇、首が腫れ上がってヒリヒリとして、かゆくてしかたがありませんでした。

体質にも変化が現れて、乳製品に対して過敏に反応するようになりました。以前の僕はカフェラテが好きだったのですが、抗がん剤治療を受けてからは、牛乳を飲むとおなかを下すようになりました。

治療直後からいちばん変化したのはトイレの頻度です。大腸を切除して短くなったぶん、すぐに便意を感じるようになったんです。多い時には、1日に20回以上も便意がありました。あまりにも頻繁にトイレに行きたくなるので、「トイレから離れるのが怖い」という恐怖心を常に抱くほどでした。

日本シリーズの大舞台に立てたことは、僕の野球人生で大きな糧になりました

僕たちプロ野球選手は、比較的自由に自分のペースで生活することができる職業ですが、それでもトイレの問題は深刻でした。自分が行きたい時でもトイレに行けないお仕事をされている方にとって、突然の便意はほんとうにたいへんなことだと思います。

治療に伴う後遺症や副作用はつらかったのですが、野球に没頭している間は、がんのことを考えずにすみました。プロ野球は勝つか負けるかの真剣勝負の世界ですから、余計なことを考えていたら相手に呑まれてしまいます。試合中はいい意味でがんのことを考える余裕がなく、目の前のプレーに集中することができました。

3月29日にシーズン開幕を迎えた時、僕は観客席から試合を見ていました。プロ野球選手の僕にとって、グラウンドで迎えられない春は「悔しい春」といえます。ですが、グラウンドに立てるありがたさや野球の楽しさをあらためて感じることができた機会でもありました。

大腸がんを乗り越えて活躍を続ける原口選手(左から3番目)。「バモス!」の掛け声が、チームを優勝に導く一役を担った

その一方で、3月31日は娘の1歳の誕生日——通常のシーズンなら一緒に祝うことができませんが、この日は家族水いらずで過ごせました。娘の誕生日を家族と過ごせたのは、がんのおかげといえるかもしれません。

4月10日、手術後初めて室内練習場でピッチングマシンを使った本格的なバッティング練習をすると、「思ったよりもいけるな」と感じました。2日後の12日にはブルペンに入って、投手を相手にしたキャッチングもできるようになりました。

そして5月7日には二軍のチーム本体に合流し、翌日は実戦で打席に立ちました。チームのみんなと一緒に、ファンの方々に見守られて野球をすることがこんなにも楽しいものなんだと痛感し、「この気持ちを一生持ちつづけていく」と胸に刻みました。

少しずつ体調を整えていった僕は、6月4日の対千葉ロッテ戦が一軍への復帰戦となりました。家族と友人がスタジアムに駆けつけてくれたこともあって、この日は試合開始前から幸せでした。九回一死三塁で代打に立ち、ヒットを打つことができました。その時のボールには「復帰後初ヒット」とサインをして、自宅で大切に飾っています。

朗報が届いたのは7月9日のことでした。オールスターゲームの最後の一人に選出されたんです。なんと、この日は抗がん剤治療の最終日でした。僕と家族にとっての特別な日に、諦めかけていたオールスター選出という夢がかなった瞬間でした。漫画や映画のストーリーよりもドラマチックな展開に、僕は不思議な力を感じました。

プロ野球選手は、日々しのぎを削り、互いの生活を懸けてグラウンド上でぶつかり合っています。僕自身、「チームの勝利のためならどんなことをしても打ち負かしてやろう」という気持ちを胸に秘めて試合に臨んでいます。どのプロ野球選手も僕と同じように熱く、厳しい思いでプレーをしている世界ですが、相手チームの選手や首脳陣の方々も僕の体を心配し、温かい言葉をかけてくださいました。「こんな方々と全力でぶつかり合えるなんて、プロ野球選手って最高だ!」と心の底から思ったものです。野球を始めた時の楽しさを、しっかりと思い出させてくれたオールスターゲームは、僕にとっての最高の舞台でしたね。

昨年の2023年、日本シリーズの最終戦も、僕にとって大きな経験になりました。指名打者として起用された時は緊張しましたが、これまでずっと準備してきたのですから、いつもどおりの感覚でバッターボックスに入ることができました。日本一を決めた大舞台に立てたことは、僕の野球人生でも大きな糧になったと思います。

「原口の姿を見たら元気が出た」といってもらえるような活躍をしていきたいと思います

「『さあ、お互いにがんばろう!』という気持ちを胸に、僕は大好きな野球を続けていきます」

早いもので、僕が大腸がんを患ってから5年がたちました。がんと診断された時は赤ちゃんだった娘が、今度の4月には小学生になります。子どもの成長を見ると、時の流れの速さを感じます。

2020年まで治療の影響は続いていましたが、今は本来の調子を取り戻しました。抗がん剤治療によって起こった体調不良も少しずつ治まり、乳製品もとれるようになりました。

阪神タイガースは試合前に円陣を組む時、いつの頃からか「バモス!」と掛け声を出すようになりました。チームメイトにスペイン語圏の選手がいて、「さあ、行こう!」という意味の「バモス!」という言葉がチーム内で広まったことがきっかけです。最初に「バモス!」と声を掛けはじめた時から試合に勝ちはじめたこともあって、今ではチームのゲン担ぎの合言葉になっています。

かつての僕のように、がんをはじめ、ほかの病気を患って治療を受けている方やご家族の方にも、「バモス!」という言葉を贈りたいです。僕自身も、「さあ、お互いにがんばろう!」という気持ちを胸に、大好きな野球を続けていきます。多くのプロ野球ファンに「原口の姿を見たら元気が出た」といってもらえるような活躍をお見せしたいと思います。