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悪性リンパ腫で余命1ヵ月と宣告されましたが、[白川式がん療法]で寛解状態を維持しています!

患者さんインタビュー

如月総健クリニック院長、のぞみクリニック築地非常勤医師、元京都大学大学院教授 白川太郎

幼い頃に伝記で読んだ野口英世に憧れて医学の道を志すようになりました

[しらかわ・たろう]——1955年、大分県生まれ。京都大学医学部卒業。医学博士。京都大学胸部疾患研究所附属病院第一内科、高槻日本赤十字病院呼吸器科に勤務。大阪大学医学部講師、英国オックスフォード大学医学部呼吸器科講師、英国ウェールズ大学医学部実験医学部門助教授、中国第4軍医科大学附属西京医院呼吸器科客員教授、南京医科大学国際鼻アレルギーセンター分子アレルギー学部門客員教授などを経て、京都大学大学院医学研究科教授。理化学研究所遺伝子多型センターチームリーダーを経て、2006年から臨床研究を重視。医療機関の理事長・院長を経て、2018年から現職。同年からのぞみクリニック築地、2020年から日野厚生クリニック医師を兼務。

末期がん専門臨床医の私は、2019年の夏に血液のがんである悪性リンパしゅと診断されました。全身に広がった状態で余命はわずか1ヵ月。64歳の時のことでした。

正直、体はボロボロでしたが、私の患者さんは末期がんの方ばかりで待ってはくれません。自らも闘病生活を送りながら、日本全国にいる患者さん宅を往診して回りました。

私は、大分県亀川町かめがわまち(現・別府べっぷ市亀川)の山中の広大な牧場で育ちました。牛を100頭も飼っており、数㌔四方に及ぶ誰もいない野原を走り回って育ちました。

わんぱく坊主だった私ですが、幼い時に病気になってしまいました。60数年前のことで、正しい病名は分かりません。ただ、白血球(基準値は3100~8400)が4万を超えていたので、今でいう白血病だと思います。1年の4分の3は熱を出して家で寝ていました。幼稚園も学校も、小学校低学年まではほとんど行けない状態で、その当時、学校に行った記憶がありません。

幸いにも良医に恵まれ、私は命を長らえました。母は私の病気が治ったので、「太郎たろう、これを読みなさい」といって、偉人伝の中から『野口英世のぐちひでよ』を選んでくれました。私はその本をボロボロになるまで何度も読んで、さらに3回ぐらい買い替えました。そして、野口英世博士のような医学研究者になることを目指すようになったのです。

1983年に京都大学医学部を卒業し、私は旧・京都大学結核胸部疾患研究所附属病院第一内科入局などを経て、大阪の総合病院で呼吸器内科の専門医として働きました。当時すべての病棟の中で死亡率がいちばん高いといわれた呼吸器科病棟です。「生きて帰れない病棟」ともいわれていました。肺がん、タバコ、結核などで肺がボロボロになっている人たち……。そこでたくさんの肺がん患者さんをました。

ちょうど抗がん剤が日本に入りはじめた頃で、若い研修医はみんな一生懸命でした。上の立場の先生から「抗がん剤で治る時代が来たんだ。やれ」といわれ、多くの患者さんを抗がん剤治療に誘導しました。

幼少期、伝記で読んだ野口英世博士に憧れて医学の道を志すようになったという白川医師

肺がんの患者さんの中には、呼吸器外科で手術をした後、呼吸器内科に移されてきて、目に見えないところに残っているがんを抗がん剤で叩くという治療で生き残った人はたくさんいます。しかし、がんが転移している場合は手術不能となり、抗がん剤からスタートします。すると、再発を繰り返して、転移がどんどんひどくなっていく……。

白川しらかわ先生。私、抗がん剤治療を受けたくないです。同室の人が抗がん剤治療でボロボロになって霊柩車れいきゅうしゃで運ばれていく姿を見て、あんな最期は絶対に嫌です」という人がたくさん出てくるわけです。初めは抗がん剤治療を信じて行っていましたが、2年、3年、4年とたつうちに自信がなくなってきました。

抗がん剤治療で助かる人が1人もいなくなってしまったので、私も「抗がん剤治療を受けなくてもいいですよ。2週間ごとに外来に来て、経過観察をすることにしましょう」と患者さんにいうようになりました。当時はまだ診療ガイドラインが今ほど厳しくなかったからできたことです。

実際、外来に来ている患者さんは2年でも3年でも生きているのに、抗がん剤治療を受けた患者さんは3ヵ月でみんな死んでいく——その様子をの当たりにして、「これはもうやっていけない。臨床なんてやりたくない。研究をしよう」と大阪大学の衛生学教室に移ることになりました。「移る」というと聞こえはいいですが、「逃げた」というのが正解だと思います。

大阪大学の衛生学教室には1987~1991年の5年間在籍しました。その時、上海シャンハイ第一医学院(現・復旦ふくたん大学上海医学院)から留学してきていた女性と出会い、指導をすることになりました。後の妻です。

1990年代、白川医師はイギリスのオックスフォード大学で教鞭を執っていた

妻は大学院を修了するまで日本にいましたが、私は縁あってイギリスのオックスフォード大学医学部に留学し、医学部呼吸器科講師を務めることになりました。1991年3月のことです。遺伝子学や免疫学の研究者として、世界的な学術誌『ネイチャー』『サイエンス』『ランセット』に多数の論文を発表したり、ヘルパーT細胞のバランスが免疫応答の性質を決めるという「Th1/Th2セオリー」を世界で初めて人間で証明したり……、振り返ると充実した研究者人生を歩んでいましたね。

妻が大阪大学大学院を修了してイギリスに来たのは、忘れもしない1997年8月30日、ダイアナ妃が亡くなる1日前のことでした。世界中の人々から愛されたダイアナ妃です。しかも36歳という若さで亡くなってしまった。イギリス中が異様な雰囲気に包まれ、人々は悲しみに暮れていました。

1991年から2000年まで、10年近く日本を離れていたのですが、ある時、京都大学の教授として日本に帰ることになりました。その理由は、2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学の本庶佑ほんじょたすく先生(当時・医学部長)から「おまえくらい実績があるんだったら、教授にしてやるから帰ってこい」といわれたからです。本庶先生とは師弟関係に当たります。

ところが、帰国してみると前とまったく一緒で、患者さんたちは抗がん剤治療を受けたくないのにやらされている。この現実を見て「これはいったいなんなんだろう」と思いました。

そして、学生を総動員して「民間療法でいいものはないだろうか」と探しはじめたわけです。すると、別の医学部長から呼び出されました。「ここをどこだと思ってるんだ。京大の医学部だぞ」「国民の健康と命を守る薬を作るのが京大の使命なのに、おまえは薬よりも『六甲ろっこうの水』がいいとか、『桜島さくらじまの水』がいいとか、『くわの葉』のほうがいいとか、なにをいってるのか分かってるのか?」と。1年ほど教授会でも怒鳴り合いの連続になり、辞めさせられました。

イギリス留学時代、学会に参加するためにイタリアのローマを訪れた際に撮影された1枚。背景には、カトリック教会の総本山であるサン・ピエトロ大聖堂が見える

その時、私はすでに50歳。医者として働けるのもあと10年か15年……。私のやりたかったことは社会を変えたいということでした。「こんな薬を延々と使って、物事が変わらない社会を変えないとえらいことになる」と、医者として社会を変えるためにはなにをしなければいけないのかと真剣に考えました。

そこで、私は有名になるしかないという結論に至りました。「絶対にほかの医者ができない仕事をするしかない。白川はすごいから、あいつのいうことには従おう」という人間にならないと、誰も耳を傾けてくれないと考えたのです。

周りの同級生や先輩、後輩に「医療の中で絶対に治らない病気はなんだ」と尋ねました。すると、みんなが異口同音いくどうおんに「末期がんは治らない」というではありませんか。それで、私は末期がんの医師になると決意し、今日に至るわけです。

自分がステージⅣの悪性リンパ腫になったのは神様からの試験だと思いました

その後、末期がんを治すべく試行錯誤を繰り返し、それなりの手応えを覚えるようになりました。しかし、2017年の冬くらいから、体調の異常を自覚しはじめました。最初の自覚症状は階段の上り下りがしんどくなってきたことです。肺の酸素飽和度(SpO2。基準値は96~99%)は90%程度で、階段を上ると1、2段でハアハアと息切れしてしまう。視力も急速に悪くなって、0.01に低下。また、心房細動しんぼうさいどう(心臓の上部にある血液を出し入れする心房という部位が十分に収縮せず、けいれんするように細かく震えることで脈が不規則になる病気)を起こしていて、脈拍数(基準値は1分間に60~100回)が150回を超えているような状態で、まともに血液が流れない。さらに、じん機能のクレアチニン値(男性の基準値は0.6~1.1㍉㌘)は4.88㍉㌘で血尿もありました。

往診には行くものの、電車に間に合わなかったり、飛行機に乗り遅れたり、転んでケガをしたり……。末期がん患者さんから「先生、大丈夫ですか?」と逆に心配されるという非常にまずい状態にありました。

当時は、土日祝日、盆暮れ正月関係なく、沖縄県を除く全国の末期がん患者さん宅を往診して回る日々を送っていました。食事は朝飯抜きで、昼はたいがい立ち食いソバかなにかです。夜はお弁当屋さんに行ってお弁当を買って食べていました。

起きる時間や寝る時間も、その日どこへ行くかで毎日まったく違いました。ある時は朝五時に起床、ある時は午後までゆっくりしているといった具合です。運動らしい運動といえば、往診時の移動。唯一のリラックスといえば、入浴タイムです。私は別府の生まれなので、温泉が大好きです。冬でも露天風呂に行って空を見上げ、「あ~っ」と声を出しながら湯につかるのが最高の瞬間でした。

振り返ってみると、2013年に東京のクリニックで働くようになってから、体にガタがくるようになったのかもしれません。九州にいた時は、移動手段はもっぱら車でした。診療に必要なものをすべて車に載せて運んでいたのですが、東京に来てからは電車や飛行機での移動がメインです。時には診察器具やボトル入りの薬が入った20㌔にも及ぶ重たい荷物をかついでうろうろしなければならなくなりました。初めのうちは全然なんともなかったのですが、今から7、8年ほど前から突然疲れが出るようになりました。

それまでは「肩がこる」とか「腰が痛い」とか、ほかの人がいっている意味が分からなかったのですが、「なんだかぐったりするな」「ここをもんだら気持ちいいな」と理解できるようになったんです。そのくらいの時から、症状が一気に出てきたと思います。1日も休まずに体を酷使していましたから、疲労が爆発したのかもしれません。

正直、自覚症状はあったのですが、「私を待っている患者さんの往診があるので、病名を知りたくない」と知らず知らずのうちに考えていたと思います。今では分かりますが、病名を知ることを避けていたのでしょう。

そのため、目が見えなくなったら眼科へ行く、おしっこが出なくなったら泌尿器ひにょうき科へ行く、心臓が悪くなったら心臓外科へ行くといった具合に個別に対処していました。最初からPET-CT(ポジトロン放出断層撮影/コンピューター断層撮影法)で検査したら、もう大変だってことが分かったんでしょうけれど、個別に対処していたので、全身疾患の症状が出ているという発想があまりありませんでした。

私の眼は緑内障と白内障を合併しているような状態で手術がとても難しいとのことでした。でも、視力を失ってしまっては、往診を続けることができません。「生きているうちは目が見えないと困る」と訴え、何ヵ所もの〝名医〟と呼ばれる眼科医のもとを訪れました。でも、どこに行っても「責任が持てません」と手術を断られるばかり……。そんな中で、知人から紹介された九州大学の先生の診察を受けることができ、「白川さん、僕に任せてください。治す自信があります」といってくれたんです。私の往診を続けたいという熱意が伝わったのでしょう。立ち会っていた病院関係者は「難しい手術にもかかわらず、こんなことをいう先生を初めて見た」ととても驚いている様子でした。私も半ば諦めていましたから、「えっ、治してくれるんですか⁉」と感激しましたね。医者として一度はいってみたいセリフです。

結局、眼内レンズ手術を受けて、視力はどうにか回復しました。あとは、心臓カテーテルアブレーション(心臓内の不整脈の原因となる部位を焼いて破壊する治療)で心房細動の治療をしました。

また、機能停止した腎臓には腎臓体外ドレーン(腎臓内の尿や体液を体外に排出するための管)を挿入して尿を排出する袋を取りつけました。袋を提げて毎日歩いて患者さんのところに行っていたので、電車とかバスに乗ると、周りの人がギョッとして「なんだ、こいつは⁉」という感じで見るような状態でした。

継ぎはぎで対処しながら、なんとか往診を続けなければという気持ちでやっていたのですが、どうにもならなくなっていたので、PET-CT検査を受けてみることにしました。2019年の夏のことです。

PET-CT検査では、ブドウ糖に放射線を出す物質を付加して注射します。がん細胞のエネルギー源はブドウ糖で、正常細胞の10倍以上のブドウ糖を取り込みます。したがって、撮影された画像では、がんのあるところは真っ黒になるんです。

悪性リンパ腫と診断された白川医師のPET-CT画像。至るところに黒い影(転移)が見られる

この画像は自分自身を撮影したものです。かわいそうですね。真っ黒けっけに近い……。

そう、私は2019年の夏に悪性リンパ腫と診断されました。呼吸器内科の後輩に紹介された信頼できる血液内科の先生から「あと1年もたないよ。1ヵ月もあるかどうかでしょう」と告げられました。そして、「間に合わないかもしれないけれど、点滴による抗がん剤治療をやるしかないんじゃないですか」と提案されました。しかし、私はその提案を断り、病院での悪性リンパ腫の治療をいっさい受けませんでした。

というのも、その時、「おまえ、人を治すと偉そうなことをいっているから、ほんとうに治せるか、おまえの体を使ってテストしてやる」という試験を神様に与えられたと感じたんです。「では、この試験に合格しないといけないな」と思って、自分が今まで培ってきた知識や技術を総動員して治そうじゃないかと決意しました。ヨウ素を飲んだり、温熱療法をしたり、総合ミネラルビタミン剤をとったり……、いろいろなものを試しました。そのおかげで、なんとか余命宣告1ヵ月の壁を乗り越えました。

しかし、食欲はまったく回復しません。食事がとれず、体重がどんどん減少していく……。私は身長が171センチで体重が62㌔だったのですが、体重は10㌔以上落ちてしまいました。

末期がん闘病中の白川医師。体から毒を排出する「排毒シート」を貼ってもらっている

そんな中、ある知人から健康食品を紹介される機会がありました。それが「エレメントワン」だったんです。JR品川しながわ駅のレストランでその知人に会い、ランチをとってくれました。確かイタリアンだったと記憶していますが、パスタとサラダと飲み物が出てきたものの、私はサラダの葉っぱ1枚だけ取って食べただけ。その後、しばらく「葉っぱの白川」と呼ばれて困りました……。

それぐらい食べる気力がない状態だったのですが、毎日エレメントワンを飲んだら、なぜかおなかが減ってしょうがなくなったんです。エレメントワンを飲むと、まずおなかの水分と反応して水素イオンと電子が発生します。そのため、真っ先に調子がよくなるのは、おなかなんだと思います。

その後も食欲旺盛しょくよくおうせいにぱくぱく食べていたら症状が劇的に改善し、体重は57㌔まで戻り、肺・腎機能も回復するに至りました。おそらく全身のミトコンドリアが活性化して動きだしたのでしょうね。この時、私は「よし、水素だ」と確信しました。

後進の育成のため、予防医学の学校をつくりたいと心から望んでいます

おかげさまで今ではすっかりよくなり、悪性リンパ腫も寛解かんかい状態を維持しています。現在、私は福岡市のクリニックを拠点として、日本全国にいる末期がん患者さん宅を往診して回っています。悪性リンパ腫を患った時に患者の立場になった経験が、今の治療にも生きていると思います。

私は基礎医学、臨床医学の分野に携わってきましたが、本来やりたかったのは予防医学です。今、ミトコンドリアという器官がすべての細胞のエネルギーを作っている重要なもので、ミトコンドリアの能力が落ちると細胞の能力も落ち、ひいては臓器の能力が落ちて病気になるという概念が確立しつつあります。

「病のない世界を実現する」——これが私の夢にほかなりません

つまり、ミトコンドリアの機能低下がすべての病気のマーカー(指標)となる時代を迎えようとしているのです。そして、もしミトコンドリアの機能が落ちていると分かったら、どうやって元に戻せばいいかも分かる時代になってきました。いよいよ予防医学・新時代への扉が開いたということです。

現在、私が取り組んでいるのは「HHO水素酸素混合ガス装置」を核シェルターレベルの高気密シェルターの中に入れて行う吸入治療です。この治療の特長は高気圧状態を保つことによってHHO水素酸素混合ガスを体のすみずみまで行き届かせることができる点です。

HHO水素酸素混合ガスは水素イオン(H+)と酸素イオン(O)がくっついたまま出てきます。HHO水素酸素混合ガスを使うと水素イオンが活性酸素を中和し、電子がミトコンドリアを活性化し、残った酸素がミトコンドリアに供給されます。HHO水素酸素混合ガス装置は一挙三得なうえに安全性も高いすばらしい装置なのです。

HHO水素酸素混合ガスは、パーキンソン病や脳卒中、認知症などの脳疾患をはじめ、心臓病やがん、コロナ後遺症に至るまで、根底に活性酸素による〝炎症〟の影響がある、あらゆる疾患に有効と考えられます。現在、福岡ではがん患者さんを診た後、HHO水素酸素混合ガス治療のデータを収集しています。

もう1つ、私は後進の育成のために予防医学の学校をつくりたいと願っています。医師免許の有無に関係なく広く門戸を開いて、これからの日本、ひいては世界を担う金の卵たちを育成し、予防医学のスペシャリストになれるよう、教育の場を提供できればと心から望んでいるのです。「病のない世界を実現する」——これが私の夢にほかなりません。

HHO水素酸素混合ガス装置の製造元である株式会社レガルシィの連絡先は、〒222-0033 神奈川県横浜市港北区新横浜2-4-19 富士火災横浜ビル1階 ☎045-577-4750です。

HHO水素酸素混合ガス吸入療法が導入されている株式会社レガルシィヨクトのサロンの連絡先は、〒810-0001 福岡市中央区天神3-5-24 ニューガイアビルディング天神1階 ☎092-600-9400です。