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肝がんを患った父のために肝臓移植を決意。最後に最高の恩返しができました

有名人が告白
タレント 安岡 力斗さん

父・安岡力也は毎晩のようにお酒を浴びるほど飲み、ついに肝がんが見つかりました

[やすおか・りきと]

1986年、東京都生まれ。2006年から父・力也さんの友人が経営する建設会社に勤務。2014年からは芸能事務所に所属し、タレントとしても活動。2014年、力也さんとの生活をつづった著書『ホタテのお父さん』(東京キララ社)を出版。

お茶の間では強面俳優として知られ、「芸能界一の暴れん坊」と呼ばれていた父・安岡力也ですが、僕にしてみれば、強くて優しいイメージしかありません。生前の父は、人を集めてお酒を飲みながら、くだらないジョークで周囲を笑わせてばかりいる人でした。父の友人の話では、父の酒量は尋常ではなく、夜のお店でアイスペールにウイスキーやテキーラを混ぜて一気飲みするようなむちゃを、毎晩のように繰り返していたそうです。

そんな父の体調に初めて異変が訪れたのは、僕がまだ小学生のときでした。医師の診断結果は肝嚢胞(肝臓の中に体液がたまった嚢胞ができる病気)で、開腹手術を受けることになりました。手術のことを息子に心配をさせまいと、「最近、太りすぎだから、先生に怒られちゃったよ」とごまかしていたのを覚えています。

すでに父の肝機能値はかんばしくなかったようで、医師からお酒を控えることを強く指導されたそうです。そのたびに父は「もう酒は飲まない。やめた!」と宣言していましたが、禁酒生活はいつも長く続きませんでした。

それでも、僕が中学生になると、父はいよいよ完全にお酒を断つようになります。肝臓にがんが見つかり、医師から「力也さん、ほんとうにお酒をやめないともう10年ももちませんよ」と告知されたことがきっかけでした。大酒飲みだった父が、よくぞ禁酒に成功したものだと感心させられましたが、当時の父の口癖は次のようなものでした。

「おまえが20歳になったときに、いっしょに酒が飲める体に戻しておきたいからな」

父は成人した僕といっしょに酒を酌み交わす日を、何よりも楽しみにしていたのです。

肝臓病に続いて難治のギラン・バレー症候群を発症した父は指1本も動かせない状態でした

父・安岡力也さん(左)に恩返しするつもりで生体肝移植手術を快諾した力斗さん(右)

そんな父が、2度目の入院生活を経験したのは、僕が高校1年生のときです。父は50代半ばにさしかかっていました。

肝がんを患いながらも病床でいつものように元気いっぱいに見えました。実際、このときは短期間の入院で、退院後はすぐに仕事に復帰することができました。しかし、父の体はすでに深刻な病に冒されていたのです。

最初の入院から約1年後。父と山梨県の別荘に遊びに行ったときのことです。消灯してしばらくすると、父が突然、「痛みがひどくて眠れない」といい出しました。この頃、父はC型肝炎ウイルスを排除するためにインターフェロン治療を受けていて、副作用からたびたび全身の痛みを訴えることがありました。

それまでの闘病生活で、父がこんなに「痛い、痛い」というのは初めてのことでした。何より「頼む、病院に連れてってくれ」といわれたことに驚かされました。あの強気な父が「頼む」と口にしたくらいですから、よほどの痛みだったのでしょう。

すぐにかかりつけの病院に父を連れて行きましたが、痛みの原因ははっきりしません。睡眠薬を飲んでも、ステロイド剤を打っても父の激痛は治まらず、まる3日間、一睡もできずに過ごしました。入院から7日目、医師から「この症状には心当たりがあります。すぐに専門の病院へ行って精密検査を受けてください」といわれた父は、違う病院への転院をすすめられます。

検査を終えた父が告げられたのは、ギラン・バレー症候群という、僕たちがまったく予想していなかった病名でした。

ギラン・バレー症候群は10万に1人が発症するといわれ、主に筋肉を動かす末梢神経が傷害されて四肢に力が入らなくなる難病です。父の我慢強さがあだとなり、ギラン・バレー症候群の発見が遅れて、取り返しのつかない事態を招いてしまったのです。

インターフェロン治療を受けながら、リハビリとギラン・バレー症候群の治療を並行するのは困難を極めました。しだいに父は、満足に動くことすらできなくなってしまいました。さすがに自分の体がただごとではないことを察した父は、あるとき僕にこういいました。

「力斗、木更津へ行け。俺の友人におまえのことを頼んであるからな」

千葉県木更津市には、父を兄貴と慕う建設会社の社長さんがいて、僕たち親子とは家族ぐるみのおつきあいをさせてもらっていました。

高校卒業後、フリーター生活を送っていた僕の将来を、父は真剣に案じてくれていたのでしょう。自分の体よりも、息子の行く末を気にかける父の姿に、僕は胸が熱くなりました。もう父に心配をかけるわけにはいきません。

毎朝5時に起きて建設現場へ向かい、先輩たちにどなられながら肉体労働に励む日々。その合間に父がいる病院へ向かう生活は、肉体的にも精神的にもつらいものでしたが、僕以上のつらさを味わっている父を思えば、弱音を吐くわけにはいきません。

そんなある日、仕事を終えた僕は、建設会社の社長といっしょに病院へ向かいました。父は症状が進行して、指1本動かせない状態です。うっすらと意識はあるようでしたが、変わり果てた父の姿を見た僕たちは思わず絶句しました。

「兄貴、見てください。力斗のやつ、こんなにがんばっていますよ」

社長はそういいながら、作業着姿で働く僕の写真を父に見せました。すると父は、写真を見るなり目を見開き、大粒の涙をぽろぽろとこぼしはじめたのです。この様子に僕は、自分がどれだけ父に守られてきたのか、あらためて痛感させられました。そして、今度は自分が父を守らなければいけないと、強く心に誓ったのです。

小さくなってしまった父の背中。出かけた伊豆の温泉で念願だったお酒を酌み交わしました

父・安岡力也さん(右)の念願だった息子と酒を酌み交わす夢を叶えた力斗さん(左)

ギラン・バレー症候群の治療は順調に進み、父はようやく痛みから解放されました。とはいえ、筋肉がげっそりと落ちて運動機能を奪われた父は、両手足を動かすことができなくなっていました。しかし、懸命にリハビリを続けた結果、ついに父は杖をついて歩けるほどまで回復。やがて仕事復帰を果たすのです。

ところが、肝臓病は父がリハビリをがんばっている間に進行していました。多発性肝嚢胞症、C型肝炎、肝硬変、肝細胞がんにむしばまれていたのです。

やがて、父の肝臓は一刻の猶予もないほど危険な状態に陥ります。ある日、父が弱々しい声で電話をかけてきて、こういいました。

「なあ、力斗。俺の肝臓はもうダメらしい。このままならあと1ヵ月しかもたないってさ。だから……おまえの肝臓を半分だけくれないかな?」

もちろん、迷うことはありません。

「ああ、いいよ。半分といわず、全部使ってくれていい。おやじになら心臓だってあげるよ」

このとき、父は受話器の向こうで泣きながら、ただ「ありがとう」を繰り返していました。

父と息子の生体肝移植手術は大成功に終わりました。手術後、驚異的な回復力を見せた父は、今後のリハビリに向けて燃えていました。

ほんとうのことをいえば、僕が肝臓を提供することに、周囲から反対の声がたくさんありました。まだ若い僕の体を犠牲にするのはよくない、というのです。父としても、苦渋の決断だったでしょう。

それでも僕に「肝臓を半分くれないか」といったのは、父の「生きてやる」という執念のように感じられました。何より、その気持ちを率直にいえるくらい、僕たち親子の間に絆と信頼があることを、誇らしく思いました。

しかし、肝臓から完全に取り除いたかに見えた父のがん細胞が、骨転移していることが判明します。転移したがんは驚くべき速さで進行し、生体肝移植から2年後、医師からついにこんな告知を受けました。

「これ以上治療はできません。お父さんの体は手術に耐えられないでしょう。今後はお父さんとの思い出作りをしてください」

ショックでした。来るべきときが来たと思いました。

僕は医師の言葉どおり、父との思い出を作るために伊豆へ温泉旅行に行くことにしました。父の車イスを押して河津桜の風景を楽しみ、いっしょに温泉に漬かって父の背中を流しました。あれほど大きかった父の背中が、別人のように小さくなってしまった現実に、僕は涙を止めることができませんでした。

その日の夕食で、初めて父と乾杯しました。父にとっては、15年以上も我慢していた酒の味。息子と酒を酌み交わすという夢を、ようやくかなえてあげることができました。

父と交わした最初で最後の乾杯から1ヵ月後、病院から危篤の連絡を受けた僕は、父をみとります。父は最期に、「力斗、お前は俺のエンジェルだよ」といって旅立ちました。

父こそ僕のゴッドファーザーです。僕は、強くて優しい父・安岡力也の息子として、しっかりと人生を歩んでいかなければなりません。それが父へのいちばんの供養になるはずです。
 

この記事は「健康365」2018年12月号に掲載されています。