人に向けた「ありがとう」は、必ず自分に返ってきます

私の元気の秘訣

落語家 林家 たい平さん

国民的人気番組『(しょう)(てん)』(日本テレビ系列)の大喜利(おおぎり)メンバーとしてお茶の間に笑いを届けつづけている、落語家の林家たい平さん。落語にとどまらずバラエティ番組や映画にも出演するなど、さまざまなジャンルで精力的に活動しています。たい平さんのバイタリティの(みなもと)は何か——。これまでの半生と元気の秘訣(ひけつ)をお聞きしました。

生まれ故郷の秩父は地域ぐるみで子育てする人情あふれる街でした

[はやしや・たいへい]——1964年、埼玉県秩父市生まれ。1987年、武蔵野美術大学造形学部卒業。1988年、林家こん平に入門。1992年、二つ目昇進。2000年、真打ち昇進。2010年より武蔵野美術大学芸術文化学科客員教授。2014年、一般社団法人落語協会理事、2020年8月から常任理事。NHK新人演芸コンクール優秀賞をはじめ、数々の賞を受賞。「たい平ワールド」と呼ばれる楽しさ満点の高座が好評を博す。真打昇進後も「たい平落語」のさらなる飛躍を目指し、自らの独演会を中心に、全国での落語会のほか、ラジオやテレビなど多方面で活躍中。

私が生まれ育った埼玉県秩父(ちちぶ)市は、まるで落語の世界のような人情が今も色濃く残っている地域です。小さな街ですから、ちょっと外を歩けば顔見知りばかり。近所には寺社がたくさんあって、昔から祭りが盛んな土地柄だったせいか、お互いに助け合う精神が自然に根づいているんです。

私の育ち方・育てられ方がいい例ですね。私は三人兄弟の末っ子なんですが、テーラー(洋服の仕立て店)を営んでいた両親はいつもてんてこ舞いの忙しさ。ですから、私の世話をするのはもっぱらいちばん上の姉の役目で、まだ小学生の姉が赤ん坊の私を背負う、「おしん」のような写真が残っています。

その姉が中学生になって学校が忙しくなってくると、今度はご近所の方が代わる代わる私の世話を焼いてくれました。こちらの人の家で勉強を見てもらい、あちらの家でお風呂(ふろ)に入れてもらい、実家に戻っても今度はお向かいのアパートで暮らすお兄さんたちに寝かしつけてもらう。そんな日常でした。

こんな状態はわが家に限ったことではないんです。当時、街全体で子育てするのが秩父ではごく当たり前で、家族以外の人たちからもたくさんの愛情をいただきながら育ちました。

こういった環境でしたから、家族水入らずで食事したことはほとんどないですね。両親は一日の仕事が終わると、お客さんを家に呼んで、一緒にお酒を飲みながらわいわいやるのが常でした。そんな時、私はものまねをしたり、歌を歌ったりして、ほろ酔い加減のお客さんを、あの手この手で笑わせようとがんばっていたのを覚えています。お客さんが笑っていると、両親もうれしそうに笑っていることに、幼心に気づいていたのでしょうね。いわば、これが私にとっての笑いの原点で、誰もが笑顔でいられる場が楽しくてしかたがなかったんです。人見知りをしない人間に育ったのも、こうした環境のおかげかもしれません。

人情味あふれる秩父ですが、最近は日本中そうですが、ご多分に漏れず商店街にかつての活気はありません。それでも昔なじみの人たちがおおぜいいて、帰省すればいつもみんなで楽しく酒盛りです。帰るたびに、大好きな故郷だなぁと実感しています。

私が落語にきちんと出合ったのは、実は大学生になってからなんです。それまで落語といえば、せいぜいテレビで『(しょう)(てん)』(日本テレビ系列)を楽しむ程度。「落語」そのものにはさして興味を持つこともなく、それより将来は教師になりたいと思っていたんです。これは当時大人気だった『3年B組金八(きんぱち)先生』(TBS系列)の影響ですね。

「家族以外の人たちからもたくさんの愛情をいただきながら育ちました」

ところが、高校生活では積極的に勉強をさぼったため、担任の先生から「この成績では普通の大学に進むのは無理だぞ」と断言されてしまいます。それでも教師になる夢を諦めきれず、「何とか方法はないでしょうか」と真剣に先生に相談すると、「勉強がダメでも、美術の教師を目指す道ならあるな」と助言をもらいました。なるほど! もともと絵を描くのは好きでしたし、慌てて英語や数学に取り組むよりもよっぽど現実的です。

果たして、その日から私はせっせと美術室に通って美大受験のための勉強に明け暮れ、どうにか念願かなって武蔵(むさし)()美術大学に進学することができました。

いざ大学生活が始まってみると、専攻していたビジュアルデザインの世界が楽しくなってきて、「教師になるより、デザイナーとして身を立てるのもいいかな」と思うようになるのですから、なんとも移り気でお気楽な年頃ですよね。

その一方で、楽しい大学時代を謳歌(おうか)するために、何かサークル活動に参加してみようと、学内をふらふらしていたら、ふと落語研究会の部室が目に留まりました。「美大に落研(おちけん)⁉」ともの珍しさで、なんとなく部屋をのぞいたら、何やら先輩たちがこたつに入りながら相談し合っています。「去年も今年も新入部員がゼロだったので、華々しく廃部する相談なの」と話しかけて来てくれました。

そんな様子を見ていたら、とても放っておけなくなって、思わず「じゃあ僕、入りましょう」となったのが、私と落語のご縁の始まりでした。特に落語に興味があったわけではないのですが、お笑い自体は大好きでしたし、何よりいかにも人の良さそうな先輩たちが困っているのを見過ごせなかったんです。

美大時代に出合った「粗忽長屋」に衝撃を受け弟子入りを決心しました

落研では、学園祭やいろいろなイベントに参加して、出前で寄席(よせ)をやりました。といっても、相変わらず落語に対する関心は薄く、古典落語のいいところを細切れにして演じてみるとか、ちょっとアナーキーなことをやっていましたが、そんな私を見守りながら先輩たちがいつも楽しそうに笑ってくれるので、それで十分でした。秩父で過ごした少年時代のように、周囲の人々に笑ってもらえるのが、私の大きな喜びなんです。

「落語を通して人々を幸せな気持ちにできたらどんなにすてきだろうと思いました」

転機は、大学3年生になった頃に訪れました。ある日、たまたまつけていたラジオから、五代目(やなぎ)家小(やこ)さん師匠の『粗忽長屋(そこつながや)』という(はなし)が流れてきたんです。衝撃的でしたね。

『粗忽長屋』は、長屋に住むうっかり者(粗忽者)が「行き倒れ」を長屋の熊公(くまこう)と勘違いして、飛んで帰って熊公を連れ出し、やっぱりうっかり者の彼にその亡きがらを運ばせるのですが、「俺だけど、抱いてる俺はいったいどこの誰なんだ?」というオチがつく落語です。

小さん師匠の見事な話しぶりに一気に引き込まれてしまい、落語というのがこれほど人の胸を打つすばらしいものだったのかと、この瞬間、遅ればせながら思い知らされました。

それは、当時私が学んでいたデザインの世界とも共通するものでした。人の心を動かすものこそが優れたデザインです。例えば、かっこいいスポーツカーに乗っているとそれだけで気持ちが高まったり、朝におしゃれなカップでコーヒーを飲むと、すがすがしい気持ちで一日を過ごせたり、というふうに。小さん師匠の『粗忽長屋』もまさにそれで、当時課題に追われてくさくさしていた気持ちが、一瞬で吹き飛んでしまったんです。

この体験を機に、落語を通して人々を幸せな気持ちにできたらどんなにすてきだろうという思いが頭から離れなくなりました。

けれど、当時は落語がまったく下火な時代で、どこの寄席も閑古鳥(かんこどり)が鳴いている状態でしたから、この道への方向転換はかなり勇気がいる選択でした。何しろ、時はバブル景気の真っただ中です。そこら中に、「笑いが止まらない」人がたくさんいましたから、わざわざ笑いを求めて寄席まで足を運ぶ必要なんてなかったんでしょうね。

それでも結局、私は大学を卒業すると、(はやし)()こん(ぺい)弟子(でし)入りを志願しました。

必要とされる喜びが幅広い活動の原動力になっています

落語家生活は、まず「見習い」から始まります。もちろん、それはらくなものではありません。私の場合、大師匠林家三平(さんぺい)の家に住み込んで毎日、掃除や洗濯、お使いなどを続けました。同級生たちは立派なサラリーマンとしてキャリアを積んでいる現実に、焦りを覚えることもありました。

また、昔かたぎで職人肌の父は、「大学まで出て何をやっているんだ!」と、私が落語家を目指すことには大反対で、ほぼ勘当状態でした。もっとも、私が6年間の修業を経て1992年に二ツ目昇進、2000年には真打昇進と結果を出していく様子を、父は陰ながら応援してくれていたようですけどね。

これまでのキャリアを振り返ってみて、やはり『笑点』出演は大きな節目だったと思います。子どもの頃から見ていた国民的なお笑い番組であり、何といっても師匠こん平が出演していた番組です。まさかそこに自分が出るなんて、夢にも思っていませんでした。それが2004年の夏に師匠が倒れ、代役出演のお鉢が回ってきました。

こうした事情があってのことですから、「出られてうれしい」なんて単純に喜んでいられる場合ではありません。林家こん平の名前を汚してはいけないという、とてつもないプレッシャーの中での挑戦でした。これほど多くの人の目に触れる番組ですから、ここで失敗すると、これまでなんとか積み上げてきたものを、一気に失ってしまうかもしれません。どうにか師匠の名に恥じないよう、師匠が守ってきた底抜けの明るさをお茶の間に届けたいと、自分なりに試行錯誤を続けました。

2年間かけて正式にレギュラーメンバーとなり、今もこうして皆さんの前で出演できていることに、ホッと胸をなでおろしています。

最近では歌を歌ったり俳優として映画に出たりと、落語以外の仕事もたくさんさせていただいています。こんなふうに、落語家が多方面で活動することを快く思わない人も中にはいると思いますが、どうでしょうか。

時代は刻一刻と変化しています。一芸に集中することの大切さはじゅうぶん理解していますが、世の中のニーズはどんどん多様化しています。私としては、こうして「二兎(にと)」を追う経験も必要なんだと考えて仕事をしています。

それに、落語というジャンルを越えた業界の方々からも声をかけていただけること自体が、私にとってはとてもうれしいことなんです。

まもなく公開される私の主演映画『でくの(そら)』も、そんな仕事の一つです。私が演じる主人公は、事故で部下を失った男で、物語の序盤はまったく笑顔を見せません。いつもの林家たい平とのギャップに、驚く人もいるかもしれません。

「『でくの空』をご覧になったらギャップに驚く人がいるかもしれません」

でも、「いつもと違う」からといって役作りに苦労したわけではありません。誰だって他人には見せない部分や、相反するような二面性を持っているじゃないですか。そんな「どちらも間違いなくほんとうの自分」といった裏と表の演技も、お楽しみいただければうれしいですね。何より、故郷の秩父をはじめ、埼玉の自然を背景にストーリーが展開する物語なので、私としても忘れられない作品になりそうです。

「ありがとう」の言葉をいつもの日常にいかに増やすかが大切です

それなりに毎日を忙しく過ごしていますが、幸いにしてこれまで大病とは無縁でやってきました。取り立てて健康に気を使っているわけではないのですが、3日に一度は6㌔のジョギングと、その後のロードバイクで風を切ることは欠かさないので、それが功を奏しているのかもしれません。

ただ、ニュースでご覧になった方もいると思いますが、今年の初めには、私もとうとう新型コロナウイルス感染症にかかってしまい、人といっさい会わない隔離生活を経験しました。この期間はひたすら映画やアニメを見て過ごすばかりで、それはそれで新鮮で楽しい時間ではありました。

(いち)(びょう)息災(そくさい)という言葉がありますが、期せずして一人の時間を長く持ったことで、他人とコミュニケーションを取ることの楽しさ、大切さにあらためて気づけたのはプラスだったと思います。

具体的には、「ありがとう」と口にする機会が格段に増えました。療養中、ケアしてくれた家族や病院の看護師さん、ひいては日頃から仕事をサポートしてくれる皆さんなど、自分がいかに多くの人たちに支えられ、助けられながら生きているのかを、心から実感できたんです。

この「ありがとう」というのは、実に不思議な言葉で、口にすればするほど、自分の内面や細胞が活性化していく感覚を覚えます。言葉には言霊(ことだま)が宿りますから、いうだけで心が浄化される効果があるのだと私は感じています。

そして、人に向けた「ありがとう」は、必ず自分に返ってきます。それは自分にとってさらなる活力となるはずですから、日常の中の「ありがとう」をいかに増やせるかが、毎日を元気に、はつらつと生きる秘訣(ひけつ)なのではないでしょうか。

ぜひ皆さんも、日々の「ありがとう」を意識して、明るく楽しい生活を心がけてみてください。

林家たい平さんからのお知らせ

映画『でくの空』
出演:林家たい平、結城美栄子、熊谷真実、林家ペー、池田 愛
脚本・監督・編集:島 春迦
製作:チョコレートボックス合同会社
配給:アルミード