プレゼント

親や先生からぶん殴られながらたたき込まれたことを1つでも多く若い世代に伝えたいんです

私の元気の秘訣

元プロボクサー 輪島 功一さん

日本人初となる重量級の世界チャンピオンとして活躍した、元プロボクサーの輪島功一さん。〝炎の男〟の異名でお茶の間を沸かせたヒーローは、その陽気なキャラクターでもよく知られています。()寿(じゅ)を迎えたいまも、後進の育成に熱心な輪島さんに、元気の秘訣を伺いました。

敗戦直後に北海道へ!食べ物に困って小6で養子に出されました

[わじま・こういち]——1943年、樺太生まれ。1968年、プロボクサーデビュー。1969年、全日本ウェルター級新人王と日本スーパーウェルター級王座獲得。1971年、カルメロ・ボッシを破り、世界ジュニアミドル級王座を獲得して6度防衛。タイトルを奪われても、2度にわたって世界王座に返り咲く。そのがむしゃらな戦いぶりは見る者を熱狂させ〝炎の男"として絶大な人気を誇る。引退後はタレント活動やだんご屋経営などで話題を呼び、現在は輪島スポーツジムを経営し、後進の指導に心血を注ぐ。

いまの僕は自分のジムの経営に専念していて、若い人を相手にすることが多いんですが、若い世代に教えるということが、大きな生きがいになっています。

僕らの世代は戦中生まれで、育ったのは敗戦直後のほんとうに物のない時代です。子どもの頃は、生きるだけで毎日が必死でした。だから、生きるのに大事なことを親や先生からたくさんたたき込まれた世代なんですよ。そんな大事な、生きる知恵とか心構えなんかを、1つでも多く若い人たちに伝えられればいいなと思っているんです。

僕が生まれたのは(から)(ふと)です。当時の樺太は日本の領土だったけれど、僕がまだ2歳のときに日本が戦争に負けてしまったため、樺太にはいられなくなった。当時、「このまま樺太でぐずぐずしていると、ソ連兵がやってきてひどい目に遭わされる」といううわさが立ったからです。それで、みんな慌てて逃げ出したんですよ。

ところが、敗戦直後で世の中が混乱しているから、樺太から出ようと思っても北海道行きの船がいつ出るのかも分かりません。うちの(おや)()は材木商をやっていたおかげではぶりがよかったらしく、全財産をはたいて、なんとか早めに北海道行きの船に乗せてもらうことができたそうです。

でも、すっかり財産はなくなり、北海道ではかなり貧しい暮らしになってしまいました。もっとも、その後何年も樺太に取り残されてしまった人だっておおぜいいたわけだから、北海道へ逃げられただけで十分に幸運だったんですけれどね。

移住後はしばらく、()(べつ)という街で暮らしていました。元ボクサーだから、子どもの頃はやんちゃだっただろうと思われがちなんですが、不良ではなかったし、けんかなんてほとんどしませんでした。

でも、もめごとが起これば、「絶対に負けてなるものか」という気概だけは人一倍持っていましたね。体もほかの子どもたちより大きかった。だから、本気でけんかをしてしまうと、相手に大ケガをさせてしまうかもしれない。それで、「俺はけんかしちゃいけない」と自制していたのかもしれません。

あの頃は、とにかく日本中が貧しくて、食べるものも満足にない状況でした。そこで小学校6年生のとき、僕は()(どお)(むら)(現・久遠郡せたな町)にいる(しん)(せき)のところへ養子に出されたんです。

親からは、「向こうは漁師の家だから、腹いっぱいメシが食べられるぞ」といわれて、無邪気に喜んだのを覚えています。そういう時代だったんですよ。ところが、いざ久遠村に移り住むと、メシを食べる時間の余裕もないほど忙しい。人手が足りないから、養子先の家に来たその日からイカ漁の船に乗せられたほどで、それからは、毎日イカ漁です。早い話が、口減らしで養子に出されたんだなと、子ども心にも、やっと察しました。

ちなみにね、よくイカ釣り漁というけれど、実際を見れば、〝イカ付き漁〟というほうがふさわしいんですよ。だって、針がついた円形の道具を海中に下ろして引き上げると、そこにイカがたくさんくっついてくるんだからね。

これがけっこうズシリときて重労働なんです。その重たいイカを何度も何度も夜明けまでひたすら上げ下げさせられた。そのおかげで、足腰はかなり鍛えられましたね。

明るくてひょうきんな一面にファンも多い

夜明けになるとやっと家に帰れますが、僕は小学生だから学校へ行かなければなりません。だから、授業中にひたすら眠るんです。先生に見つかって竹刀(しない)でたたき起こされることもしょっちゅうだったけれど、こちらも寝ないと体がもたないから、何とか先生の目を盗んで眠ろうと必死でしたね。

ほんとうにしんどい毎日だったけれど、いまにして思えば、この時期の体験は足腰だけでなく、ボクシングに必要な忍耐力を育むのにも、役立っていたように思います。

中学校を卒業して高校生になってからも生活は相変わらずで、夜通しイカ漁に出て、学校で眠ることの繰り返しです。作業自体には慣れたけれど、大きな問題もありました。船酔いですよ。僕は体質的に乗り物酔いしやすくてね、こればかりは何年やっても慣れるというわけにはいきませんでした。

汚い話ですが、船酔いするたびに海にゲーゲー吐いて、これがまき()になったんですね。イカが寄ってきて、大漁ですよ。おかげで、大人から褒められたこともよくありました。

でも、毎日船酔いの生活はさすがにつらくて、高校生だったある日、黙って親戚の家を飛び出しました。東京へ行こうと思ったんですよ。

25歳でボクシングに出合い、自分で創意工夫を重ねました

当時の東京はオリンピックが開催される直前でね、景気がよかったんでよ。東京に何かあてがあったわけではありませんが、男1人の働き口くらいなんとかなるだろうと、楽観的に考えていました。

上京して最初のうちは整備工や新聞配達などをやっていたんですが、賃金が安すぎて建設業にくら替えしたんです。

主に基礎工事の穴掘りをやっていたんですが、歩合制だったので、掘れば掘るほどもうかるんです。だから、なるべくたくさん掘ろうと、右手が疲れたら左手で掘って、左手が疲れたらまた右手に戻してと、効率よくやっていました。それで両方の腕を鍛えることができて、後でボクシングをやったときに生きましたね。

当時を振り返り、闘争心が燃えて自然に手が動く〝炎の男"

ボクシングを始めたのは、25歳のときでした。若いから体力があり余っていたし、スポーツでもやっていないと、酒やギャンブルなどでせっかく稼いだ金を無駄遣いしてしまいそうな気がしたからです。仕事を終えて寮に戻る途中、たまたまボクシングジムの汚い看板が目に入ったとき、迷わずジムの門をたたきました。

ところが、そのジムに通う人間は僕より若い連中ばっかりだったんです。トレーナーは若いやつらにつきっきりで、僕なんかに目もくれません。25歳からボクサーを始めるのは遅すぎると思われたわけです。

トレーナーが僕には教えてくれないので、しかたなく、若いやつがトレーナーから教わっているのをこっそり横で見ながら盗み聞きして、見よう見まねでやってみるんですが、うまくいく気がしない。リーチの短い自分に合ったスタイルだとは思えなかったからです。

リーチが短いと、パンチを当てるには相手の(ふところ)に飛び込む必要があります。そのためには素早くステップインして、相手に近い距離で打てるフォームを身につけなければなりません。考えながら、いろいろと試したものです。

誰もコーチしてくれない中で、僕は人一倍頭を使って自分のボクシングスタイルを作り上げたんですよ。

僕はいまでも若い子たちによくいうんですが、知識や経験というのは、ただ待っていても手に入りません。だから、他人から積極的に盗まなければならない。そして、たくさん考えるんです。何事も頭を使わないやつはうまくいきませんからね。大切なのは(そう)()()(ふう)なんです。

そのうち、先輩選手のスパーリング(対戦形式の実戦練習)の相手を任されるようになり、そこで相手をぶっ飛ばして、ようやくトレーナーたちに認められるようになりました。まさに努力の勝利というやつですよ。

界王座から陥落するたびに2度にわたって返り咲きを果たしました

やがてプロボクサーとしてデビューが決まると、そこから連戦連勝、それもほとんどの試合でKO勝ちでした。新人王トーナメントで優勝したのが、1969年のことです。

ちなみに、僕はウェルター級でしたが、このときライト級で優勝したのがガッツ(いし)(まつ)でした。彼もテレビ番組ではああいうキャラクターですが、ボクシングではクレバーな選手でしたね。やはり上へ行く選手というのはよく頭を使うんですよ。

その後、僕は日本チャンピオンになり、防衛戦をこなしていくうちに、ついに世界チャンピオンへの挑戦が決まります。

当時の世界チャンピオンはイタリアのカルメロ・ボッシという選手です。アマチュア時代にオリンピックで銀メダルを取ったほどのテクニシャンでした。

世界タイトル戦が始まると、チャンピオンはあまり攻めてこない。王者は挑戦者と違って引き分けでも防衛になるんで、無理に勝とうとしていないんです。でも、こっちは引き分けではチャンピオンになれませんから、打ち合いに引きずりこむために、相手を挑発しつづけました。

僕には自分の代名詞となっている〝カエル跳び〟という技があるんです。相手の前で突然しゃがんで、ぴょんと跳び上がってパンチを入れるという技ですが、この試合でたまたま思いついた技だったんですよ。これが相手にうまくヒットしました。

また、〝あっち向いてホイ〟というボクシングファンには知られた技もあるんですが、これも挑発の1つとして、この試合で初めて出しました。

試合中にわざとよそ見をするんです。僕が客席をパッと見たら、相手もつられて客席を見た。その隙をついてパンチを打ち込んだんですね。

これで相手は完全に頭に血が上り、ガンガン打ち合ってくれるようになった。まさしく思うつぼですよ。おかげで僕は、日本人初の重量級の世界チャンピオンになれました。

世界王者になったとはいえ、勝負ごとですから勝つこともあれば負けることもあります。僕もその後に負けて王座から陥落したんですが、チャンピオンへ返り咲くことができました。それからまた王座から滑り落ちたんですが、もう1度返り咲いたんですよ。都合、3度、世界チャンピオンになったわけです。

最終的に引退を決めたのは、4度目の世界タイトル獲得を目指して挑んだ試合で、はでにKO負けしたのがきっかけです。1977年6月のことで、僕も34歳になっていましたし、この試合では完全に体力の限界を感じたからです。「やり切った」という思いでした。実は、僕は生まれつき(じん)(ぞう)が少し弱いんです。それもあって、この頃には、試合の中盤になると足がガクガクしておぼつかない感じになっていました。もう、(まん)(しん)(そう)()だったんです。

これまでの人生で学んできたことのすべてを若い世代に伝えたい

「ボクシングを通して、若い世代には人生の大切なことを伝えていきたいですね」

引退したとき「この後、何をやろうか」と考えました。長く現役を続けたおかげでそれなりに蓄えもありましたが、早く次の仕事を始めようと思っていたんです。人間、金と暇があると、ろくなことをしませんからね。

考えた末、女房と2人でだんご屋さんをやることに決めました。実は後援者から「焼き鳥屋さんをやらないか」という話もあったんですが、丁重にお断りしたんです。焼き鳥屋さんはお酒を出すところだから、元ボクサーの自分が酔客といざこざを起こしたら、こちらに理があったとしても、マスコミのかっこうの()(じき)になるだけですからね。

その点、だんご屋さんはいいですよ。お酒を出す必要がないし、近所のおばちゃんたちが毎日喜んで買って行ってくれる。いまは女房の妹夫妻に経営を任せてしまいましたけど、「だんご3兄弟」が流行したときなんで、毎日飛ぶように売れました。もちろん、楽しいことばかりの仕事ではなかったけど、たまに夫婦で新商品を考えたりしながらやっていくのは、やっぱり幸せな日々だったと思いますね。

いまは、自分のジムの経営に専念して、若い世代に教えることがいちばんの生きがいです。こういう時代だと、大人が子どもに何でもいいたいことをいえるわけではありませんが、だからこそ、大切なことは声を大にして伝えたいと思っています。

僕ももう77歳ですし、どうやって自分の健康を保つかも大事です。5年前に愛犬を亡くすまでは、日課の散歩がちょうどいい運動になっていましたが、いまは毎日、ゴミ拾いをしながら周辺を散歩しています。街がきれいになれば、誰だって気分がいいでしょうからね。

そういうことを地道に続けていく姿から若い世代が何かを感じ取ってくれればうれしいですね。これからも若い世代の成長を楽しみに見守っていきますよ。