いのちの落語家 樋口 強さん
小細胞肺がんと聞いた瞬間、早期復職の予定は崩れて頭の中が真っ白になりました
2001年から毎年1回、「いのちの落語」という独演会を開催し、20回を迎えた2022年に一度幕を下ろしました。昨年からは規模を縮小し、「いのちの落語プラス」として年1回の落語会を再開しています。
「いのちの落語」を始めたのは、43歳の時に、肺がんが見つかったことがきっかけです。当時の私は、東レ株式会社(以下、東レと略す)で仕事に情熱を注いでいました。
長年、新規事業に関する業務に関わり、42歳の時、部長職に抜擢されます。当時、技術の最先端を走っていた薄型テレビなどに使われる液晶材料の開発にも携わっていました。「この技術が日本はもちろん、世界の文化を変えていくはずだ」と、20~30年先の未来を見据える仕事にはロマンがあり、大きなやりがいを感じていました。
そんなさなか、がんが見つかったんです。きっかけは人間ドックでした。東レでは35歳を過ぎると会社の費用で人間ドックを受けられましたが、毎年の検査では、それまで特に大きな異常が見つかったことはありませんでした。
ところが、43歳の時に受けた人間ドックで肺に異常が見つかります。胸部レントゲン画像で右の肺に握りこぶし大の白い塊が映っていたんです。すぐに大学病院を受診し、2週間の検査入院をすることになりました。
レントゲン画像の状態から、診断を聞く前に「肺がんだろうな」とは思っていました。その時点では割と冷静に自分の病気をとらえていたので、積極的に肺がんについて調べようとも思ったのです。ところが、1996年の当時はまだインターネットが普及していませんから、肺がんに関する手頃な書籍も見つからず、自分の病気を詳しく調べるすべはありませんでした。
幸運なことに、私が入院していた大学病院には、向学心に燃える研修医の先生がたくさんいらっしゃいました。そこで、研修医の先生にお願いして肺がんの種類や治療法、生存率などを教えていただきました。
そうした知識を踏まえたうえで、私は扁平上皮がんだと自分なりに予想していました。ところが、検査結果は小細胞肺がんだったのです。研修医の先生から教えていただいた肺がんの情報の中で、小細胞肺がんは進行が速く、3年生存率や5年生存率の低いがんで、有効な治療法がないということを知っていただけに、診断が下った時は「まさか」とひどく落胆しました。
しかも、私は仕事の引き継ぎをすることもなく検査入院していましたから、業務が中途の状態だったので、「早く治療を終えて仕事に戻ろう」と、そればかり思ってました。それが小細胞肺がんという病名を聞いた瞬間、早期に復職するというもくろみは崩れ、頭の中は真っ白になりました。
治療は別の総合病院で受けることになりました。小細胞肺がんの主たる治療法は、抗がん剤治療です。抗がん剤治療は根本治療ではなく延命治療だと聞いていました。「まだ43歳なのに、どうしてこんな状況になってしまったのか」と悩みながら、あらためて主治医から治療に関する説明を聞いているうちに、「自分は、この先も生きてなにをしたいんだろう?」と深く考えるようになりました。
そうして二つのことに思い至りました。一つは、「家に帰りたい」ということ。長い間、仕事最優先の生活で家庭のことは二の次にしてきました。妻と二人でゆっくりと過ごせる家を建てたいと思いながらも、後回しにしていた自分に気づいたんです。がんに出合ったことで普通の生活を送れることのありがたさを深く実感し、「家に帰りたい」と切実に思うようになりました。
もう一つは、「仕事がしたい」です。仕事を通じて社会に必要とされることによって、初めて〝生きている〟実感ができるのだと痛感したんです。社会との接点を保つため、仕事を続けたいと思いました。
家に帰りたい、そして仕事を続けたい——主治医の先生に、私は今後自分がどう生きたいのかを何度も話しました。何度目かの話の後、先生は「分かりました。樋口さん、あなたの人生に寄り添いましょう」「私ができることを精いっぱいやりましょう」といってくれたんです。
抗がん剤治療でがんを小さくしてから肺の右上葉にあるがんを切除し、同時に転移している40数ヵ所のリンパ節を取り除く手術も受けました。手術時間は9時間。その後は再び抗がん剤治療を受け、治癒を目指すことにしました。
私が先生になにもいわなければ、標準治療である化学療法を主としたもので終始したでしょう。でも、医療のプロである医療者はいろいろな手段を知っています。自分の気持ちや思いを真摯に伝えたからこそ、プロである医療者は私の希望に近づけるような方法を提示してくれたのです。
手足の感覚はありませんが、以前のように動けているのは〝家事リハビリ〟の成果です
今でこそ平然と話すことができるのですが、私は抗がん剤治療によって全身の感覚がなくなってしまいました。運動神経は正常なので、手足を動かすことはできます。でも、感覚をつかさどる末梢神経がすっかりマヒしているので、手に持ったものが熱いのか、冷たいのか、重いのか、軽いのかといったことが分からないんです。
今の私は、見た目はごく普通に食べたり飲んだり、歩いたりしていますが、手足の感覚は相変わらずありません。それでも以前のように動けているのは、〝家事リハビリ〟の成果です。
この状態になった当初は、足裏の感覚がないために歩くことができず、手指の感覚もないのでお箸や茶碗を持てませんでした。食事の時には、ネコと同じように食器に口を近づけるようにして食べていたんです。
その姿を見た妻は、「これではまともに生きているとはいえない」と感じたんでしょうね。ある日、台所へ連れて行かれ「茶碗を洗ってみて」といわれました。やってはみるものの、しっかり茶碗を持てませんからろくに洗えるはずもなく、シンクの下が水浸しになりました。
1~2ヵ月が過ぎるとなんとか工夫して茶碗を洗えるようになり、3ヵ月もたつとほぼ問題なくできるようになりました。茶碗が洗えるようになるにつれてスプーンが持てるようになり、普通に食事ができるようになりました。
家事リハビリのおかげで職場に復帰することもできました。体への負担が少ない部署に異動し、リモートワークを採用している企業が少ない時代に在宅での仕事ができるようにしてもらうなど、会社には働きやすい環境を整えてもらいました。
ただ、感覚神経障害のほかにてんかんや腎障害、失明につながる緑内障といった後遺症も現れるようになり、日常生活に支障をきたすようになっていました。そのため、心から愛していた仕事でしたが、2004年、退職を決意しました。
「いのちの落語」の独演会を初めて開催したのは、2001年のことです。落語との縁は深く、幼少期に演芸場で生の落語に触れて以来、落語が好きになり、大学時代は落語研究会に所属していました。社会人になってからも落語を続け、全日本社会人落語選手権大会で優勝したこともあります。
仕事が多忙になってからは落語から遠のいていましたが、抗がん剤治療中でつらい時にふと全日本社会人落語選手権大会で優勝した折の、自分の落語のテープを聴いてみました。すると、そこには笑っている自分がいたんです。その時、「笑いは最高の抗がん剤だ」と気づき、「笑いとともに生きたい」と心から願うようになりました。
2001年は、がんと出合って5年目を迎えた時でもあります。人生の通過点の一つではありますが、当時の私と妻にとっては、生きていくうえで大きな目標にしていた年だったのです。
妻のすすめで、お世話になった方々を招いて記念の独演会を開くことになり、初めて「いのちの落語」を披露しました。いのちの落語には毎回、200人近い方が足を運んでくださいました。招待客はがん患者と家族に限っており、運営は私と妻の二人で行っています。
残されたメッセージを読むうちに涙があふれ、次もがんばろうという気力が湧いてくるんです
正直なところ、開催するためには手間も時間もかかります。妻と二人で「もうやめようか」と話したこともあります。
それでも続けられたのは、いらっしゃったお客さんが書き残してくれたメッセージのおかげです。「がんになって、夫がこんなに大きな声で笑ったのは初めてです」「今日の帰りに来年のための洋服を買います」——こうしたメッセージを読むうちに涙があふれ、次もがんばって開催しようという気力が湧いてくるんです。
ただ、私は緑内障による視覚障害で目もほとんど見えなくなり、4年前に重度の身体障害者と認定されました。このままでは一人で高座に上がれず、下りることもできなくなってしまいます。誰かの手を借りるという考え方もあるのですが、それでは私の落語の美学に反してしまうため、2022年の第20回をもって「いのちの落語」の幕を引きました。
その後は第二期として「いのちの落語プラス」を始めています。ここでは落語を話す時間もありますが、参加者みんなが自由に話したいことを話せる「私が主役」というコーナーを作ったんです。
これが大好評でした。参加者は限定30人で全員ががん患者か家族ですから、なにを話しても聞いてもらえるという空気感があるんですよね。例えば、「抗がん剤治療が始まって、体がつらくて」といえば、「うん、つらいね」と共感してもらえる。それだけで気持ちがスッと落ち着くものなんです。
私は今、71歳で、がんに出合ってから28年がたちます。二つ目の命を生きる中で、自分なりに悟ったことが四つあります。
一つ目は、「笑いは最高の抗がん剤だ」ということ。二つ目は、「普通のことを普通にできることがいちばんの幸せだ」ということ。自分の足で道を歩ける、電車に乗れる、喫茶店でお茶を飲める、家で家族と一緒にご飯を食べられる。昨日と変わらない今日が終わって明日もまた同じ1日を過ごすこと——これがいちばんの幸せです。
三つ目は、「1年先にくさびを打つ」こと。1年先の自分をイメージしてくさびを打ち、そこにロープを通して自分の体に巻きつけて毎日っていけば、きっと1年先の自分が両手を広げて迎えてくれるでしょう。
四つ目は、「生きてるだけで金メダル」です。誰でも、これまでうれしいことや楽しいことがたくさんあったと思いますが、苦しいことやつらいことのほうがきっと多かったはず。それを乗り越えて、ここまで生きてきた自分を褒めてあげていいのではないでしょうか。
私は「どうしてがんに出合ってしまったんだろう」と犯人探しはしません。今まで生きてきた自分を褒めて、そのうえでがんを受け入れて生きています。これからどんなものに出合い、どんな世界を見つけていくのかを楽しみにする、そんなふうに考えて今日まで生きています。