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「全身の不調を招く“悪夢”の正体を科学的に解明したい」

ニッポンを元気に!情熱人列伝

精神科医 酒井 和夫さん

「今夜はステキな夢を見たい」誰もが一度はそう思ったことがあるでしょう。夢は心の状態を映し出すといわれます。コロナ禍が収束しない現在、感染に対する不安が募って悪い夢を見る人が増えているそうです。学術的に夢を研究している精神科医の酒井和夫先生は、悪い夢は心のみならず、全身に悪影響を及ぼすと警鐘を鳴らしています。

夢は精神状態を映す鏡で心身の状態が悪いと悪夢に襲われる

[さかい・かずお]——医学博士。東京大学文学部哲学科卒業後、医療の道を志す。筑波大学医学部卒業後、長谷川医院での勤務を経て、1996年にストレスケア日比谷クリニックを開院。日本精神神経学会精神科専門医・指導医、日本医師会認定産業医。著書に『不眠症の治し方』(フォー・ユー)、『新しい脳内薬品の作り方 16人のカルテ』『日本人研究者が発見したボケの進行を遅らせる薬のすべて』(ともにリヨン社)などがある。

皆さんは「夢」に対して、どのような印象をお持ちでしょうか。「夢のような話」と形容されることが多いように、私たちにとっての夢は、明るくポジティブなイメージなもの。お正月の夢として見ると縁起がいいとされる「一()()・二(たか)・三なすび」など、私たち日本人は古くから夢に対して明るい印象を持っていることが分かります。

その一方で、夢には悪い夢もあります。実は漠然としたイメージとして捉えがちな夢は、学問の領域として確立されています。夢研究の第一人者として知られるのが、精神科医の(さか)()(かず)()先生。ストレスケア()()()クリニックの院長も務めている酒井先生は、誰もが見たがる「いい夢」の対極といえる「悪い夢(悪夢)」の研究を続けています。そこで編集部では、「夢の正体」の研究に挑んでいる酒井先生にお話を伺いました。

「アメリカ精神医学会が著した『精神障害の診断と統計マニュアル』の中で、睡眠障害の1つとして悪夢障害が明記されるようになったのは、いまからおよそ十年前のことです。誰でも夢見の悪い朝はあると思いますが、悪夢がりっぱな病気の1つであることは、まだほとんど知られていません」

と語る酒井先生。酒井先生によると、夢は学術的に「精神状態を映す鏡」と考えられているそうです。精神科医である酒井先生は、いい夢・悪い夢を問わず、患者さんが見た夢の内容から現在の精神状態を把握し、統合失調症や不眠症、うつ病の治療に応用していると話します。

「いまだに収束しない新型コロナウイルス感染症の影響もあって、最近では“コロナうつ”とも呼べる症状に悩む人が増えています。私は、心身の不調を訴えて相談に来られる患者さんに『最近どのような夢を見ましたか?』と聞くようにしているのですが、実際には7割以上の患者さんが悪夢に悩まされていると感じます」

心身の不調を引き起こす「悪夢」とは、どのような夢を指すのでしょうか。私たちは日常生活において嫌な出来事に直面すると、「これは悪夢だ……」といいますが、悪夢はりっぱな学術用語。広義では、嫌な思いを伴う夢、悪い夢全般を指す言葉と定義されています。極端な例になると、自分が誰かに傷つけられたり、ときには殺されてしまったりする悪夢もあるそうです。逆に、自分が誰かを殺してしまう悪夢に苦しんでいる患者さんも多いといいます。

「悪夢は大きく2種類に分けることができます。1つは、仕事や人間関係といった現実的な問題に悩んでいる人が、夢の中でその問題に直面してしまうもの。もう1つは、私たち人間の遺伝子に組み込まれている悪夢です。これは、天敵が存在した太古の記憶によって引き起こされるもので、(てん)(ぺん)()()や外敵に生命を脅かされる悪夢が多いようです。いずれにしても、朝起きたときにじっとりと脂汗が全身から噴き出して、熟睡感が得られないようであれば、悪夢障害の疑いがあります。睡眠時間は休息のみならず、傷ついた細胞の修復を促す時間でもあります。悪夢障害によって健全な睡眠が得られないと、深刻な体調不良につながってしまうのです」

統合失調症や不眠症、うつ病の患者さんは悪夢障害に悩んでいることが少なくない

悪夢を見ることによって心身に負担がかかると、そのストレスがさらに夢見を悪くしていきます。このような「悪い夢の悪循環」が深刻になると、さまざまな病気が起こりやすくなると酒井先生は指摘します。悪い夢を見ても、目覚めたときに「ああ、夢でよかった」と胸をなでおろす程度であれば悪夢にはなりません。毎晩のように繰り返し夢見の悪さに悩まされ、しだいに心身がさいなまれていく深刻な状態を悪夢障害と呼ぶそうです。

「悪夢に悩まされているのは、大人だけではありません。青少年や、小学生以下の児童でも、夜中に突然悲鳴を上げたり泣き叫んだりする『()(きょう)(しょう)』という病気にかかります。悪夢はさまざまな精神疾患と関連しています。そのような背景もあって、夢の研究や悪夢障害の解決は、精神科医である私にとって重要なテーマといえるのです」

夢の正体を突き止める研究に取り組んでいる酒井先生ですが、「夢に関する研究には高い壁がある」と話します。なぜなら、夢の内容は見ている本人しか分からず、精神科の専門医である酒井先生でも把握することができないからです。内科や外科で診察する疾患は、視診や触診、画像検査によって視覚的に情報を得ることができますが、患者さんが見た夢を、医師が実像として見ることはできません。夢の実態を解明することが難しいといわれる理由はここにあります。酒井先生によると、夢の研究は19世紀、ジークムント・フロイトの時代から活発に議論されてきたものの、そのメカニズムについてはまったくといっていいほど解明されていないのが実情だそうです。

「医学が進歩した現代でも、人間はなぜ夢を見るのか、そのしくみは分かっていません。現時点の研究で明らかになっているのは、睡眠は人間に限らず、あらゆる生物に共通するものであること。さらに、脳波の動きを測定した研究によって、夢はマウスのような小動物でも見ていることです。でも、動物が見ている夢の内容が、おいしい食べ物にありついた幸せな夢なのか、それとも天敵に追いかけられている悪夢なのかは分かりません」

ペットを飼っている人の中には、ぐっすりと眠っている愛犬や愛猫が、突然ビクッと体を震わせて跳ね起きたり、寝言のような鳴き声を発したりする様子を見たことがある人もいるでしょう。イヌやネコが睡眠中になんらかの夢を見ていることは確かですが、「残念ながら彼らは、それがどのような夢だったのかは報告してくれません」と酒井先生は話します。

サフランの成分に「悪夢」を改善する意外な効果を発見!

夢の研究に取り組む酒井先生が注目しているのが、香辛料の一種であるサフランです。睡眠の質を上げる作用が確認されたサフランには、悪夢障害を改善させる可能性も秘めていると酒井先生は話します。

サフランはアヤメ科の多年草で、悪夢障害に有効と注目を集めている

サフランはアヤメ科の多年草で、乾燥させた雌しべがスパイスとして料理に用いられています。古代エジプトでは、絶世の美女といわれたクレオパトラが心身の健康を保つために愛用したと伝えられ、現代の研究ではその成分に睡眠を深くする効果や、抗うつ作用などがあることが分かっています。酒井先生は、安眠を促すサフランに悪夢障害を改善する効果が期待できることも見いだしたのです。

「私は毎朝、その日に見た夢を必ず振り返るようにしているのですが、サフランの雌しべをとりつづけたところ、夢の内容に明確な変化が現れたのです。あるときは月面の美しい世界を旅していたり、あるときは原生林の中で乱舞する美しいチョウに見とれていたり……この世のものとは思えない美しい光景の夢が、毎日のように続いたのです」

睡眠導入剤をはじめ、精神科の医療機関で患者さんに処方される医薬品の多くは、夢見を悪くしてしまう副作用を伴うこともあります。副作用の軽減どころか、美しい光景が広がる夢を見せてくれたサフランの効果に、酒井先生は驚きを隠せなかったそうです。

そこで酒井先生は、サフランの成分を誰でも手軽にとれるサプリメントを開発。実際に試した多くの患者さんから、「夢見がよくなった」「悪い夢を見なくなった」といったうれしい報告を受けているそうです。

「悪夢を見なくなれば、不眠やうつの改善につながります。サフランは、精神科の治療の観点からも効果が期待できる貴重な素材といえます。今後もサフランの研究を続けて、夢の正体を明らかにしていきたいです」

宗教心理学を機に夢への関心が高まり正体の解明に挑む

夢の正体の解明に挑む酒井先生が、なぜ夢に関心を持つようになったのか、その理由を尋ねてみました。きっかけは、大学時代にさかのぼります。

「当時は学園紛争の真っただ中でした。右派と左派が入り乱れて、どちらの主張が正しいのか誰もが分からなくなっている時代だったんです。混迷の時代に人々が答えを求めるのは哲学です。私も哲学の勉強をきっかけに、宗教心理学に興味を持つようになりました。宗教心理学は、夢と密接に関わっています。日本ではよく『亡くなった人が夢(まくら)に立つ』といわれますが、宗教心理学の分野では、『眠っている間に神様からご託宣を受けた』といった話が世界中に存在します。私は昔から鮮明な夢を見る体質だったので、宗教心理学をきっかけに、夢に強い関心を寄せるようになりました」

酒井先生は東京大学文学部を卒業後、あらためて(つく)()大学の医学部に進学。大学院で博士課程を修めた後、精神科医への道を歩みます。以来、心身症や摂食障害、統合失調症など、さまざまな精神疾患に苦しむ患者さんの治療にあたっています。

「夢は心身の状態を映す鏡」と語る酒井医師は、幻想的な美しい夢を頻繁に見ているそう

「私はあらゆる精神疾患の患者さんを()てきましたが、すべての患者さんに共通しているのが、“悪夢にうなされていること”だったのです。精神疾患の治療には、悪夢障害の解消が欠かせないことを患者さんに教えてもらいました」

酒井先生によると、うつ病や統合失調症の患者さんに悪夢障害を起こす傾向が強いとのこと。アルコール依存症にかかった患者さんの中には、悪夢に襲われる恐怖から逃れるために、再びアルコールに溺れてしまう人も少なくないそうです。

薬物療法は精神科の領域において一定の治療効果を発揮するものの、悪夢障害を引き起こす副作用があります。患者さんを救う立場である精神科医にとって、副作用の問題は大きな悩みだったと酒井先生は振り返ります。

「医薬品を開発する段階で行われる動物実験では、安全性や病気に対する効果は確認できても、悪夢をもたらす副作用の有無については調べられません。薬が製品化されて人間が服用した後、悪夢障害を引き起こすかどうかが初めて分かります。夢は精神面のみならず、全身の健康にも深く関係しています。夢の正体を解明することで、病気の予防や()()につながる新しい医療の常識が生まれるかもしれません」

学術の分野において、夢よりも睡眠に関する研究が盛んなのは、睡眠のほうが解明しやすい分野だからと分析する酒井先生。夢を研究する学問は世界的に進んでいないものの、だからこそ解明に向けて積極的に動きたいと話しています。

「夢については、まだまだ分からないことだらけです。私の患者さんの中には、いわゆる予知夢を見る人もいるんですよ。その人の周りでは、ちょっとした事故から気候の変化まで、夢で見た内容が実際に起こってしまうんです。その人から新しいエピソードを聞くのを楽しみにしているほど、夢はほんとうに不思議な世界です」

なんとも奥が深い夢の世界。夢研究の第一人者である酒井先生は「夢の正体を必ず解明します」と、私たちに力強く誓ってくれました。