料理人 坂井 宏行さん
空前の大ブームとなったテレビ番組『料理の鉄人』(フジテレビ系列)で「フレンチの鉄人」として活躍した料理人の坂井宏行さん。東京都港区の人気レストラン「ラ・ロシェル」のオーナーシェフとしても知られ、83歳になった今も厨房に立ちつづけています。年齢を感じさせないバイタリティの秘密はなにか——坂井シェフを直撃しました!
中学生の頃から野山で採った食材を自分で調理していました

僕は3歳の時に父親を戦争で亡くし、それを機に朝鮮(※当時は日本領)から母親の実家があった鹿児島県に引き揚げてきたんです。
物心ついた頃、わが家はすごく貧しくて、母親が和裁の仕事をしながら女手一つで生計を立てていました。僕もせめてもの家計の足しにと、毎年夏に開かれる地域の相撲大会に、賞品の文房具を目当てに参加していたのを覚えています。
母親が納期に追われて多忙な時は、家族の食料を確保するために、川でアユやウナギを捕ったり、山でヤマブドウを採ったり、罠を仕掛けてヒヨドリを捕ったりしていました。
今にして思えば、それを家に持ち帰って煮たり焼いたりしていたことが、僕にとっての料理の原体験かもしれません。ヒヨドリのさばき方は、マタギのおじさんたちが普段やっているのを横で眺めていたので、見様見真似で覚えたものです。
白米なんてめったに食べられない時代だったのですが、自給自足の地域でしたから、野菜はいくらでも分けてもらえたし、育ち盛りの中学時代はサツマイモにかなり助けられました。
こういう体験がベースにあるものですから、食に対する執着が人一倍あったのでしょうね。ごく自然に、「料理人は食材に囲まれている。料理人になれば食えなくなるようなことはないだろう」と考えるようになりました。それに、いつかは海外へ行きたいという夢があったので、「大きな客船のコックになれば、世界中を旅して回れるので一石二鳥だ!」と真剣に考えていたんです。
中学を卒業すると鹿児島を出て、大阪の「一富士」という仕出し弁当屋さんに就職しました。若手はみんな、タコ部屋のようなところに住み込みで働いていて、毎朝4時に起きて飯を炊く日々。体力的にも大変でしたが、この時期はとにかく食べていくことに必死でした。
でも、僕が目指していたのはコックです。それも、背の高いコック帽とコック服をかっこよく着こなす、フレンチの世界に憧れていました。
そんな僕の夢を聞いた先輩がある日、こんなアドバイスをくれました。
「おまえ、ここでどれだけ働いていても、洋食のコックにはなれないぞ」

これは確かにもっともな話です。そこで「一富士」で2年ほど働いた後、人づてに紹介していただいた「ホテル新大阪」へ転職しました。これが正式にフレンチの世界へ飛び込んだ瞬間で、17歳の決断でした。
それまでの仕出し弁当と違って、洋食は異国の食文化なので、僕にとっては想像以上に新鮮な世界でした。当時は洋食といえば、ナポリタンとかオムライスなんかを指すような時代でしたから、なおさらです。
要領よく立ち回っていたおかげか、幸いシェフにも気に入ってもらえて、いろいろなことを教わりながら、僕はフレンチの奥深さにますます傾倒していきました。
「ホテル新大阪」で働きはじめて2年ほどたった頃、次のチャンスが巡ってきました。オーストラリアのレストランで料理人を探しているという話が舞い込んだのです。念願の海外へ行くチャンスですから、僕は一も二もなくこの話に飛びつきました。
とはいえ、旅費なんか持ち合わせていませんから、貨客船の厨房で働きながら、2ヵ月近くかけてオーストラリアへ向かいました。これもまた、いい修業であり、いい経験です。
現地では当然のことながら、日本語はいっさい通じません。英語などまったく話せない状態での渡豪に不安がなかったわけではありませんが、厨房で使う言葉は意外と限られていますし、身振り手振りを交えればどうにかコミュニケーションを取ることができました。人間、追い込まれればどうにかなるものですね。
オーストラリア行きの話に飛びついて海外での修業が実現しました
そんなある日、シェフから「この魚をおろしてみろ」といわれたので3枚におろしてみせたら、周囲の従業員たちがいっせいに驚いた顔をこちらに向けました。それもそのはず、向こうではみんな、ハサミで適当に魚をさばいていたので、和食で培われた日本の技術がもの珍しかったようです。
おかげでこれ以降、僕は魚の担当として重宝されるようになりました。実力を認めてもらえたわけです。
さらに、その後は少しずつほかの調理も任せてもらえるようになりました。思えば、日本では「目で見て覚える」ことをよしとする空気が根づいていますが、海外では対照的に、やる気さえ見せればなんでもどんどん教えてくれる土壌があります。その意味で、10代のうちに海外に渡ったのは、非常に有意義だったと感じています。
この経験を踏まえて、僕はうちの店の若いスタッフにもよくいうんです。「チャンスがあったらいつでも海外へ飛び出していけ」と。
今は当時ほど外国との垣根は高くないのでしょうが、それでも「英語が話せないから……」などと躊躇していたら、たった一度の人生が台無しになってしまいます。覚悟を決めて行ってしまえば、案外なんとかなるものだということを、ぜひ次の世代に伝えていきたいと思っています。
オーストラリアでは2年ほど働かせてもらいました。帰国のきっかけは、東京オリンピックです。やはり、自分の祖国に初めてオリンピックがやって来るのなら、この目で見てみたいですからね。
日本に帰ってきてからは、本格的なフレンチ料理の現場をいくつか経験しながら、虎視淡々と独立のタイミングをうかがっていました。
僕はもともと、人に使われるよりも、やりたいことを自分でやりたい性分なんです。だから、いつか来るであろうその日を目指して、働きながらお皿やカップなどを集めはじめていました。
そうして1980年、東京都港区南青山でオープンしたのが、「ラ・ロシェル」です。
バブル崩壊で大ピンチでしたが、『料理の鉄人』に救われました
振り返ってみれば、独立して今年で45年。この間、「ラ・ロシェル」も僕自身も、ほんとうにいろんなことがありました。忘れられないのが、独立から10年後くらいにやってきた、バブル崩壊です。
当時は高層ビルの32階で、230坪という広い店舗でしたが、それでも毎日当たり前のようにたくさんのお客さんが来てくれていました。連日予約客が絶えず、経済的にもこの頃はかなり潤っていたと思います。正直、「こんなに儲かるものなのか」と、調子に乗っていたところもあるかもしれません。

ところが、バブル景気がはじけると途端に客足がにぶり、予約もまったく入らなくなってしまいました。従業員も数十人抱えていましたから、天国から地獄とはまさにこのことです。
ひと頃の好調がウソのように負債で首が回らなくなり、「ああ、俺の人生はもうここで終わりだな」と大真面目に腹をくくったこともありました。
それでも、「捨てる神あれば拾う神あり」というやつなのか、バブル崩壊の余波に苦しめられていたタイミングで舞い込んできたのが、『料理の鉄人』(フジテレビ系列)からの出演オファーでした。
ほんとうはテレビ出演どころじゃなかったし、派手な衣装を着せられ、カメラの前に立つというのは性に合わなかったので、初めはずっとお断りしていたんです。それでもスタッフの方が熱心に声をかけつづけてくれて、渋々ながら番組に出てみると、これが思いがけなく人気番組に成長していきました。
当初は「ワンクール(3ヵ月)で終わりますから」なんていわれていたのに、6年も出演しつづけることになり、私の知名度も異常なほど上がりました。実はあんぱんや肉まんが大好物なのですが、この時期は仕事帰りにコンビニに寄ろうにも、「鉄人がそんなものを食べるんですか?」といわれてしまうので、我慢しなければならなかったほどです。
でも、これは私のキャリアにおいてはうれしい誤算でしたね。面白いもので、『料理の鉄人』でほかの料理人との対決に勝利すると、次の日は店が大繁盛するんです。テレビの仕事と店の仕事はあくまで別物と割り切っていましたので、店頭にグッズやチラシは置かないよう徹底していましたが、テレビでの勝敗は客足に大きく影響していました。
経営者としては、これで一息つくことができたのはありがたかったです。おかげで新たなチャレンジに目を向けられるようになり、今もこうして複数の店舗を運営することができています。
『料理の鉄人』は、審査員をタレントさんで固めていたのがよかったように思います。あれがプロの料理人、すなわち同業者が審査する構成だったら、僕もあそこまで番組に乗っかることはできなかったかもしれません。審査員を1人のお客さんととらえることができていたからこそ、彼らのコメントにも素直に耳を傾けることができたところがありますから。
気がつけば料理人としてのキャリアもだいぶ長くなりました。83歳になった今も、自分が作った料理をお客さんが目の前で楽しんでくれて、「おいしかった。ごちそうさまでした」と笑顔でいってもらえる瞬間の喜びは、かけがえのないものです。
料理人は健康第一で今も週に2度のジム通いを続けています
料理人の仕事は体力勝負でハードですから、健康管理には人一倍、気を遣っているつもりです。幸い、僕はお酒は飲めませんし、週に2度のジム通いも欠かしません。普段の移動もロードバイクが中心ですから、日頃からけっこう運動をしているんですよ。
他人においしい料理を振る舞うには、まず自分の健康から。これが僕の持論です。自己管理のできない人間にうまい料理が作れるはずがないですから。
おかげでこの歳まで大病とは無縁でいられました。丈夫な体に生んでくれた親に感謝ですし、少年時代に鹿児島でたくさん自然のものを食べていた賜物かもしれません。
もちろん高齢者であることに変わりはないので、毎年2泊3日で人間ドックに入って、万全を期すようにしています。
こういう運動や健康チェックを欠かすと、どうしても不安になり、自分に自信が持てなくなってしまいます。これは経営者、中でも客商売をやっている立場としてはマイナスです。特に料理人としては、バシッと味を決められなくなってしまいますから、これはいけません。

そうはいっても、人間ですから日常にささいなストレスは多々あります。そんな時は、僕は素敵な女性を伴ってデートに出かけるようにしています。そこでおいしい料理を食べて楽しく談笑できればそれだけでストレスなんて吹き飛んでしまいますし、なにより、いつまでもモテる男でありたいですからね(笑)。
今の目標は5年後、「ラ・ロシェル」が50周年を迎えた時に、そのお祝いの席で和太鼓を披露すること。その日に備えて、今も和太鼓の稽古をずっと続けているんです。これを全うできたら、僕もようやく一段落するのでしょう。
まだまだやりたいことはたくさんありますから、がんばりますよ。今いちばんやってみたいのは、10人くらいのお客さんが座れるカウンターの店です。毎日いろいろなお客さんを迎えて、1人ひとりに料理を振る舞いながらよもやま話に花を咲かせる。そういう空間を作れたら楽しいでしょうね。
僕と同世代の人たちの中には、病気がちだったり元気がなかったりする人も少なくないですが、みんなもっと楽しい目標を見据えて、そこに向けてチャレンジしてほしいです。そして、おいしいものをたくさん食べて、前向きに人生を楽しんでほしいですね。