プレゼント

何事も攻めの姿勢が大切——人生を思い切り楽しむ秘訣です

私の元気の秘訣

俳優 前田 吟さん

映画『男はつらいよ』やドラマ『渡る世間は鬼ばかり』など、国民的作品で名演を披露してきた俳優の前田吟さん。79歳となった今も元気な笑顔は変わらず、多方面で活躍しています。昨年には再婚のニュースが世をにぎわすなど、まだまだエネルギッシュな前田さんに近況をお聞きしました。

養父母が先立ち、中学時代は電気のない山奥で暮らしていました

[まえだ・ぎん]——1944年、山口県生まれ。高校中退後に俳優養成所に入り、1964年、ドラマ『判決』(テレビ朝日系列)で俳優デビュー。その後、映画『男はつらいよ』(全シリーズ)やドラマ『渡る世間は鬼ばかり』シリーズ(TBS系列)に出演。映画、テレビドラマ、舞台だけではなく、バラエティ番組の司会やゲストとしても活躍している。

私は山口県防府(ほうふ)市の生まれなのですが、生後3ヵ月ほどで他家に養子に出されたため、長らく実の両親の顔を知らずに育っているんです。

里子に出されたのは、子どものいない親戚(しんせき)筋の老夫婦の家庭でした。しかし、私が4歳の時には義母が亡くなってしまったので、この育ての母についても記憶は曖昧なんです。

さらに中学1年生の時に義父が亡くなり、その後は親戚の元を転々とする生活が始まります。まず身を寄せたのは、山奥で独居する少し変わった親戚の家で、電気も通っていない小屋で残りの中学生活を送ることになりました。夜になるとランプで明かりをともすのですが、今思い返してみるとなかなか珍しい経験をしたものです。

学費については、親戚の皆さんが少しずつ寄付してくれたものの、別の親戚が競輪で全部すってしまった、なんてこともありました。とにかく裕福とは程遠い少年時代だったのは間違いありません。

話は前後しますが、そんな生活の中で演技の面白さに目覚めたのは意外と早くて、小学6年生の時でした。

毎年、学芸会で演劇をやるのですが、1年生から5年生までは、私は名もなき通行人など端役(はやく)ばかりを演じていました。それもしかたのないことで、ほかのクラスメイトたちはお母さんが役に合わせて衣装をあつらえてくれるけど、私にはそういう親がいません。義父はただの飲んだくれで、とても裁縫なんてできる人ではなかったですからね。

ところが6年生の時、クラスで『西遊記(さいゆうき)』をやることになり、担任の先生が「最後の学芸会だから、それぞれやりたい役を挙手で決めましょう」といいました。そこで何の気なしに沙悟(さご)(じょう)役に手を挙げたところ、ほかに立候補する人が誰もいなくて、あっさり私に配役が回ってきました。正直、沙悟浄というのが何なのかもよく分かっていませんでしたけど、とりあえず名前のある役柄をやってみたかったのでしょうね。

「とにかく裕福とは程遠い少年時代だったんです」

もちろん、私に演技の心得などあるはずはなく、本番に備えて猛特訓したわけでもありません。それでもこの時の私の演技が、クラスで高い評価を受けたんです。先生から「長く学芸会を見てきたけど、あなたほど演技の上手な子は見たことがない」といわれたほどで、私自身も舞台で演じながら、妙にしっくりいった感覚があったのを覚えています。

なぜ自分がそれほど上手に演じられたのかは、よく分かりません。それでも、褒められればやはり気分がいいもので、これを機に俳優の仕事に興味を持つようになりました。

もしあの時、沙悟浄を演じたい人がほかにもいたら、こういう経験はできなかったかもしれません。それでも遅かれ早かれ、私は演技の世界には導かれていただろうという、妙な確信があります。そのくらい、演技の世界は私にとって納得のいく進路だったんです。

中学卒業が近づいてきた頃、お世話になっていた親戚が、私の実の母親を探し出してくれました。私が学校で意外と好成績を収めているのを知って、「この子にはちゃんと高校まで行かせてあげるべきだ」と、実母に直談判してくれたのです。

大阪、そして東京で本格的に演技を学びはじめました

実母はすでに再婚していて、子どもをもうけていましたが、むげにもできなかったようで、私は山口県内の高校に進ませてもらうことになりました。

しかし、学校でかかる上履き代などを誰が負担するのかがネックになって、私は結局、1学期の終わりに中退を決意します。そして、大阪に行って家具屋で丁稚奉公(でっちほうこう)することになりました。

とりあえず住むところと食いぶちが確保できたことで安心し、1年目はとにかく一生懸命働きました。でも、家具屋になるためにわざわざ大阪に出てきたわけではありません。2年目になってからは、研究生を募集している関西の劇団を見つけて応募し、稽古(けいこ)と仕事の二足のわらじを履くことになります。

ところが、これが家具屋の主人としては面白くなかったようで、「なんだ、おまえは家具屋を目指しているんじゃないのか」と、怒らせてしまいました。

その結果、私は家具屋をクビになり、田舎(いなか)に帰されてしまうことになったのですが、今さら山口に戻ったところでどうにもなりません。そこでこっそり大阪にとどまり、新聞配達の仕事をしながら、演技の勉強を続けることにしました。余談ですが、この時に所属していた演劇研究所の同期に、のちに坂田利夫(さかたとしお)さんとコメディ№1という漫才コンビを結成する前田五郎(まえだごろう)さんがいます。

残念ながら、この研究所はほどなくつぶれてしまうのですが、その後も大阪で民衆演劇活動をしていた倉橋仙太郎(くらはしせんたろう)さんに目をかけてもらい、引き続き演技の勉強をすることができたのは幸いでした。

なお、この頃は結婚式場の給仕に仕事を替えていたのですが、これが私にとって実に都合のいい職場でした。「まかない」が出るので食べるものには困らないし、忙しいのは大安の日だけなので稽古と無理なく両立できるという、お金をためるのにもうってつけの環境だったのです。

おかげで1年後には、倉橋さんのすすめもあって、上京することになりました。これが1962年のことで、通信教育で高校卒業資格を取得したのもこの頃です。

上京後は、(とう)(きょう)(げい)(じゅつ)()の研究所第一期生となり、さらに演技の勉強に励みました。

たまたま見つけた新宿の歌声喫茶で働きはじめたことも私にとっては大きくて、この店でボーイの仕事をしながら、頻繁に人前で演技をする機会を得るようになります。決してレベルの高いステージではありませんでしたが、それでもこの時期に多くの場数を踏むことができたのは、間違いなく血肉になっていると感じています。

その後、俳優座(はいゆうざ)の養成所に入った私は、上京から2年後の1964年、現在のテレビ朝日系列で放映されていた『判決』というドラマでデビューすることになりました。

これは単なるスタート地点にすぎず、特別な感慨があったわけでもありません。というのも、この頃にはすでに最初の妻との間に子どもがいて、とにかく食べていくのに必死だったからです。つらいだのしんどいだのといっている余裕はなく、子どもを養うために稽古の合間にアルバイトに精を出す、無我夢中の毎日でした。

やがて第二子、第三子と家族が増えて、いっそう稼がなければならない状況になりました。俳優としての収入も少しずつ増えていきましたが、自分のぜいたくのためにお金を使えるような身分とは程遠かったですね。

親のいなかった私は、小学校4年生の時から牛乳配達や新聞配達の仕事に明け暮れていましたから、思えば今日まで働き詰めの人生でした。

それがようやく少し休むことができたのが、折しものコロナ()です。仕事の大半がストップし、それで困っている人がおおぜいいるのも事実ですが、心のどこかで「やっとひと休みできる」と安堵(あんど)したのも、また事実です。

もちろん、これまでのキャリアを振り返ってみれば、忙しく暮らす日々の中で、病に倒れることもしばしばありました。

最初は40歳の時で、あまりの多忙から体に負担がかかり、(じゅう)()()(ちょう)潰瘍(かいよう)を患い、1ヵ月の入院生活を経験しました。でも、小学4年生から働きっぱなしだったことを思えば、むしろ長持ちしたほうなのかもしれませんね。基本的には私は元気で健康体なんです。

50歳の時に翼状片を発症し、失明の危機に見舞われました

ただ、その次の50歳の時に患った(よく)(じょう)(へん)は大変でした。

翼状片とは、眼球の白目の部分の細胞が増殖して、角膜(かくまく)に異常をきたす眼病です。基本的には良性の腫瘍(しゅよう)なのですが、放っておけば失明のリスクもある重大な病気です。

「50歳の時に翼状片を患い、失明寸前の状態だったんです」

私としては、なんとなく目がごろごろする程度で、そのうち治るだろうと高をくくっていたのですが、ある日、『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系列)で私と夫婦役を演じていた長山藍子(ながやまあいこ)さんからこんな連絡がありました。

「ある眼科医の先生が『渡る世間は鬼ばかり』に出ているあなたを見て、『この人の目、おかしいぞ。すぐに連れておいでよ』といっているから、一度病院に行ってほしい」

聞けば、その道ではかなり有名な先生らしく、私もちょっと不安になりはじめました。

幸運だったのは、その後わりとすぐに、その先生が勤務する小田原(おだわら)の病院の近くを偶然通りかかる機会があったことで、ついでに診察を受けてみることにしました。

すると、すでに失明寸前の状態まで病気が進行していることが判明。すぐに手術を受けることが決まったんです。

翼状片は再発リスクの高い病気なのだそうで、その後も5年間はびくびくしながら生活していましたが、幸いにして再発することはありませんでした。

でも、もしもあの時、長山藍子さんが連絡をくれなかったら、そして、たまたま小田原を訪れる機会がなかったら、などと考えるとゾッとしますよね。

ちなみに去年、私は白内(はくない)(しょう)の手術を受けているのですが、主治医はその先生の息子さんでした。4半世紀の時を超えてお世話になったのですから、縁とは異なものだと痛感しています。

78歳での再婚は交際わずか3ヵ月のスピード婚でした

その後も私は、60歳で腰椎椎間板(ようついついかんばん)ヘルニア、70歳で(たい)(じょう)疱疹(ほうしん)を患うなど、人並みに病気を経験してきました。それでも、やっぱり私は79歳になった今も、元気な部類だと自覚しています。

その秘訣(ひけつ)は、たくさんしゃべることと、よく笑うこと。日常生活の中でまったくストレスを感じていないわけではありませんが、それを吹き飛ばすくらい楽しく、自由に生きることが大切なんです。

「恋をすること——これに尽きます」

語弊(ごへい)があるかもしれませんが、治らない病気を患っているのであれば、その病気とともに生きていくくらいの気構えがあってもいいと私は思っています。

損なった健康は取り返せないし、年齢も若返ることはできません。だからこそ、今の状態を受け入れてしまうのがベストでしょう。

もちろん、体にいい習慣を身につけるのは大切ですが、だからといってあまり物事を決めすぎるのもよくないことです。例えば、毎日何歩以上歩かなければいけないとか、どういう食べ物を摂取しなければいけないとか、ルールにしてしまうとそれを守れなかった時に心の負担になってしまいます。

そして何よりの元気の秘訣は、恋をすること——これに尽きます。

わりと大々的なニュースになったのでご存じの方も多いかもしれませんが、私は1昨年に病気で半世紀連れ添った妻を亡くし、昨年、再婚しました。交際3ヵ月のスピード婚ですから、我ながら慌ただしい人生です。

今の妻は歌手で、初めて出会った時に彼女からCDをもらったのがご縁の始まりでした。

歌声を聴くうちにどんどんはまってしまい、彼女のYouTubeなどを追ううちに、「こういう人と残りの人生を一緒に過ごせたら、どんなにすばらしいだろう」と思うようになったんです。

いくつになっても、恋をするとワクワクドキドキしますからね。血流もよくなって、きっと健康にもいいはずです。

何より、人生をいかに楽しくするかは、自分しだいです。恋愛でも仕事でも、守りに入ってしまってはつまらないですからね。皆さんもぜひ、何事も攻めの姿勢を大切に、人生を思い切り楽しんでください。