俳優 角野 卓造さん
『渡る世間は鬼ばかり』(TBS系列)の勇役でおなじみ、俳優の角野卓造さん。3年前に舞台の仕事にはひと区切りをつけたものの、73歳になったいまも変わらぬ笑顔でお茶の間に元気を届けてくれています。長年にわたって第一線で活躍しつづける角野さんに、日々の健康法やストレス解消法をお聞きしました——!
予餞会の上演後、先生に褒められて演劇部入部を決意したんです
角野家の父方は広島県呉市の出身なのですが、僕は東京の慶應義塾大学病院で生まれています。当時はまだ、産婆さんに来てもらって自宅で出産するのが一般的でした。それがなぜ僕が東京の病院で生まれたのかというと、自宅分娩で誕生した1歳上の兄が、生後1ヵ月ほどで亡くなってしまったという悲しい出来事があったためです。慶應義塾大学病院の医師だった母の兄が「今度は用心して病院で産むべきだ」とすすめてくれたおかげで、僕は無事に生を受けたわけですね。
しかし、後から思えば、これには運命じみたものを感じます。信濃町の慶應義塾大学病院のすぐ目と鼻の先には、いまも僕が所属している文学座があり、なんだか胎内回帰したような気分になるんです。
広島県議会議員だった父の落選がきっかけで、幼少期は広島から大阪に居を移し、さらに中学生になって東京に引っ越すなど、幼い頃の角野家は慌ただしく移動を繰り返していました。
僕は小さいときから鉄道が大好きで、将来は機関車の運転士になりたいと漠然と思っていました。それがこうして演技に興味を持つようになったのは、中学校2年生のときの卒業生を送る予餞会がきっかけです。確かモリエールの喜劇だったと記憶していますが、それなりに目立つ役をやることになりました。
自分としては特に猛練習をして臨んだわけでもなく、ただいわれた役を淡々とこなしただけだったのに、上演後に「おまえ、おもしろいな」とか、「演技うまいよ」とクラスメートたちから口々にいわれてびっくり。そして何より、尊敬する担任の先生にまで褒められたことは最高にうれしかったですね。
これが校内で評判となり、3年生の秋に演劇部から「文化祭での上演に出てほしい」と出演依頼されました。こうなるとやはり悪い気はしないもので、僕は中3の秋に演劇部に入部するという、高校受験を控えた時期としてはありえない行動を取ったのです。
千代田区立麹町中学校は都内では知られた進学校で、生徒の大半はそこから名門・都立日比谷高校に進み、やがて東京大学を目指すのが王道でした。しかし僕は、何度も受験をしなければならないのが嫌で、できれば大学までトコロテン方式で進める私立高校に行きたいと考えていました。
果たして、3年生から演劇を始めたくらいですから第一志望の高校には落ちましたが、望みどおり大学までトコロテン方式で進学できる学習院高等科にどうにか合格しました。
高校、大学とも演劇部に所属。人前で演じることに、はっきりと生きる喜びを感じる学生でした。プロの役者になることを意識するようになったのは、小劇場のアングラ演劇に目覚めたことがきっかけです。
僕が大学生活を送った1960年代後半は、政治も文化も、あらゆる領域で物事の根本が疑われ、問い直された時代です。演劇の世界も同様で、既成のセオリーが次々に覆され、それまでのプロセニアム・アーチ(舞台を額縁のように切り取る構造のこと)で近代劇をやる主流に対し、アンチな抵抗勢力が台頭していました。具体的にはこれまでの新劇に抵抗し、「劇場で芝居をすることがすべてじゃない」と、実験的なアングラ演劇がにわかに流行りはじめたのです。僕はその新しい世界観が好きでした。
しかし、将来を考えるとアングラ劇団では、たいへん心細い。「とりあえず新劇の劇団に所属して、下積みに耐えながら日が当たるのを待つしかないかな」と考えたのが実情です。
悩み抜いたあげく、新劇の代表格である文学座を選びました
迷う心を抱えながら、20歳のとき、僕は早稲田小劇場と、新劇の代表的な劇団である文学座、両方の入団試験に合格します。いったいどちらに進むべきか、悩みに悩んだ末、僕が選んだのは文学座でした。好きなことで食べていくには、やはりそれしかなかったからです。
大学生のまま文学座の養成所に入って演技の研鑽を積み、やっと文学座の初舞台を踏めたのは、まだ研修生だった22歳のときでした。人手不足から、おおぜいのキャストが必要な舞台に端役で出してもらえることになりました。ギャラはちょうど1000円。そこから源泉徴収が1割引かれて手取りは900円。これが僕にとって初めての出演料。
このときはうれしかったですね。それまでの学生演劇では、ギャラどころか経費持ち出しが普通でしたからね。まだまだ食べていくにはほど遠い状態でしたが、「好きな演技をやらせてもらえて、お金までもらってしまってほんとうにいいのかな!?」と、大真面目に思ったものです。その後、少しずつ出番が増えるとともに収入も増え、28歳くらいでようやくアルバイトをやめて役者に専念することができました。
転機になったのは、1973年に初演したつかこうへいさんの戯曲『熱海殺人事件』です。
それまでの文学座であれば、アングラ演劇出身のつかこうへいさんの戯曲を舞台にかけるなど、まず考えられないことでした。僕としては文学座に入った時点で諦めていた分野でしたが、ちょうど時代が一周したということなのでしょうか。期せずして本来やりたかった分野で演技することができたのは、自分の中で非常に大きな体験でした。
その翌年、北村和夫さんと共演させていただいた『花咲くチェリー』も、僕のキャリアにおいて忘れられない作品です。
この舞台に向けた稽古では、ほぼすべてのセリフから動きまで「違う!」と北村さんに怒鳴られました。とにかくすごいけんまくで、こちらとしては何が悪いのかさっぱり分かりません。単に自分のことが気に入らなくて意地悪をしているだけなのではないかと感じるほどで、ついには「この舞台が終わったら、こんな劇団やめてやる」とまで思うようになりました。
ところが、北村さんにいわれた形でどうにか初日を迎えてみると、お客さんの反応が抜群にいいんです。つまり、北村さんには正解が分かっていたわけで、おそらく僕が自分の思うままに演じていたら、客席から歓声が上がることはなかったでしょう。
このとき僕は、役者として自分の頭の中で勝手に思い描いていることがすべてではなく、ほんとうの正解は、お客さんの前で表現してみなければ分からないということを思い知らされました。
それに何より、自分がちゃんと演じなければ、相手役の北村さんも思うような演技ができないように、芝居は役者どうしの関係性によって作り上げるもの。北村さんは芝居に情熱をもって向き合っていたからこそ、あれほど感情をこめて怒ってくれたのだと、すべてを察しました。
この体験は大きな財産です。いまの自分が若い世代に対して、あれほどの情熱を持って怒ることができるかというと、おそらくできないでしょうしね。
そんな僕が48年も続けた舞台から退く決断をしたのは、いまから3年前のことです。
原因は虚血性脳貧血。一過性のものでしたが、僕はそれまでの直近10年の間に、3度ほど舞台上で記憶が飛ぶ経験をしていました。
虚血性脳貧血になったことを機に舞台から退く決断をしました
物語が大きく盛り上がるシーンで突然頭が真っ白になり、自分がいまどこを演じているのか分からなくなってしまう。意識はあるものの、アドリブでセリフをつなぐこともできない。
幸い、途中で幕を下ろすような事態になったことはなかったのですが、こんな状態ではいつまた、共演者やお客さんに迷惑をかけることになるか分かりません。よく、「役者たるもの板の上で死にたい」なんて聞きますけど、お金を払って観に来ているお客さんの身になってみれば、とんでもないことだと思います。役者だって、ベッドの上で死ぬに越したことはないはずですよ(笑)。
虚血性脳貧血がなぜ起こるのか、医師にも原因は分からないそうです。もともと血圧が高めだったので、それが理由なのかもしれませんが、いまのところよく分かっていません。
ただ、舞台を降りる決意をしたことで気持ちはらくになりました。48年間、ほんとうにいろいろな役を演じることができ、舞台俳優としてはすべてをやりきった気分なんです。文学座に入ったときは、シェイクスピアやチェーホフをはじめ、日本の若手作家の作品まで、まさかこれほどいろいろな芝居を経験できるなんて夢にも思っていませんでした。
特に最後の10年間は、自分で作家を見つけてきて脚本依頼からキャスティングまでやらせてもらい、日本中を旅公演することもできました。それに、最後の舞台を友人である佐藤B作さんの公演で締められたのも、なんだか自分らしいキャリアだなと思ったりしています。
もちろん、ドラマの仕事は続けさせてもらっていますし、バラエティなど楽しい仕事をいまもたくさんやらせていただいています。どれもみなほんとうにありがたいことです。
京都は歴史・文化的に魅力あふれる地域で素敵なお店が豊富です
この夏には、『続・予約一名、角野卓造でございます。【京都編】』という新刊を出しました。4年前に出した、僕なりの酒場放浪記の続編です。
旅公演が非常に多かったものですから、日本列島を何周も何十周も飲み歩いているんです。というか、仕事の旅先では食べることくらいしか楽しみがなかったんですが。
昔は気の利いたガイドブックもなかったので、先輩からおすすめのお店を聞きながら、旅先で訪ね歩くのが常でした。やがて慣れてくると、あらかじめ地元のタウン誌を仕入れて自分なりにお店を新規開拓しながら、少しずつお気に入りの店を増やしていったんです。
そうして飲み歩いた土地の中でも、京都はやっぱり特別な街です。僕自身のルーツが関西圏ということもありますが、歴史的にも文化的にも非常に奥深い地域で、魅力的なお店がたくさんそろっている。新型コロナウイルス感染症が落ち着いたらぜひ、皆さんもこの本を手に京都の街を飲み歩いてほしいですね。
こんな仕事ができるのも、健康を維持していればこそでしょう。虚血性脳貧血もいまはどうやら落ち着いているようです。
人生の残り時間もそう長くはないでしょうし、基本的にはなるようにしかならないと達観してもいます。それでも、年に2度の人間ドックは欠かしませんし、毎朝のウォーキングも続けています。おかげで年齢のわりに肝臓以外の数値は決して悪くないんですよ。
お酒の量も昔に比べればずいぶん減りました。最近はコロナ禍で外へ飲みに行けないこともあり、自宅で缶チューハイを2本、日本酒であればせいぜい1~2合程度に抑えています。
朝食には必ず納豆などの発酵食品や野菜、それに一日のうち一食はたんぱく質をとるために牛肉の赤身を食べるようにしています。これは義務感で続けているのではなく、素直に好きで食べているだけですから、ストレスもありません。
実はカップラーメンやインスタント食品などにも興味があり、新製品が出ると必ず買わずにいられない「愛好家」なんです。まぁ、たまにはそういうものも楽しめれば、食生活にメリハリが出ていいじゃないですか。
何事も考えようで、コロナ禍で外食できなくなったことで、お客さんが少ない時間を狙ってデパ地下をめぐる楽しみも増えました。自分なりの生活の楽しみを大切にしながら、健康第一でまだまだがんばっていかなければと思っています。
角野卓造さんからのお知らせ
『続・予約一名、角野卓造でございます。【京都編】』
(京阪神エルマガジン社、1,480円+税)
襟を正してのれんをくぐる気鋭の割烹から50年以上通う老舗まで全36軒を巡った角野卓造さんの酒場放浪記。年間60日以上京都でひとり酒を楽しみ、予約を入れる電話では「角野卓造でございます」と律儀にフルネームを伝える。「お客さんとして来て、お客さんのまま帰りたい。それを貫きたいと思って」——そんな気ままな旅を楽しむ紫綬褒章俳優の素顔をご覧あれ。