プレゼント

四股はすごく体に負荷がかかるのでいい運動になるんです

私の元気の秘訣

歌手 鳥羽 一郎さん

漁師としての経歴を持ち、海に生きる男たちを歌で鼓舞こぶしつづけてきた演歌歌手の鳥羽一郎さん。デビューシングル『兄弟船きょうだいぶね』をはじめ、多くのヒット曲を持つ鳥羽さんは、その芸名のとおり、三重県鳥羽市の漁師町で産声を上げました。幼少期の記憶や故郷への想い、そして72歳になった今も変わらずに元気でいられる秘訣ひ けつをお聞きしました。

市街地から隔離された伊勢湾沿いの漁師町で少年時代を送りました

[とば・いちろう]——1952年、三重県生まれ。漁業の盛んな街で漁師の父と海女の母の間に二男二女の長男として生まれ、幼少時代から海と共に育つ。17歳から遠洋漁業のマグロ漁船やカツオ漁船の漁船員として5年間海で夢を追いかける。その後、陸に上がり調理師免許を取得して板前の修業をするが、歌手への夢を捨てきれず27歳で上京し、憧れの船村徹氏の門を叩く。内弟子として約3年間修業を積んだ後、出身地の鳥羽市にちなんだ芸名が決まり、1982年8月25日『兄弟船』でデビューを果たす。献身的なチャリティー活動などが評価され、7度の紺綬褒章を受章。

僕が生まれた三重県鳥羽とば市の石鏡いじか町は、伊勢湾いせわんに面した漁師町です。これがすごくひなびたところで、家の近所にはほんとうに海以外なにもないんです。

一応、市街地と陸続きにはなっているけど、険しい岩場に囲まれていたものだから、当時は離島でもないのに船で伊勢湾側からアクセスしなければならなかった。要は、道らしい道がちゃんと整備されていないので、海から行ったほうが早いんです。

おかげでバスのような感覚でしょっちゅう船に乗る生活でしたけど、当然、嵐で海が荒れている日には、町へ出ることはできません。

なにより困ったのは救急車です。急病人が出ても、家のそばまで車が乗りつけられるような場所ではないので、どうすることもできないことがしばしばでした。今思い返してみると、今なら助かる命もあったのかもしれません。

小学校へ行くのにも、片道40分くらい歩かなければならなかったし、放課後も海に潜るくらいしかやることがなくて、もっぱら自作のもりで魚を突くのが暇つぶしでした。

そんな隔離された環境だったせいか、我が家をはじめ、全体的に貧しいところだったように思います。なにしろ田んぼや畑にするような平地が少ないし、あってもあまり農作物が育つ場所じゃなかったですから。

これが東北などの雪国であれば、冬場はほかの地域に出稼ぎに行くのでしょうけど、よそへ行くにも不便な場所ですし、鳥羽の町に出たところでたいした仕事もありません。漁業に頼らざるをえないのは必然でしたね。

だから、うちも親父が船を出して、お袋が海女あまとして海に潜って生計を立てていました。だけど、たいした稼ぎにはならないから、貧乏暮らしを強いられるのも当然でしょう。

2024年5月、『鳥羽の海女』という新曲を、武田鉄矢たけだてつやさんに詩を書き下ろしてもらってリリースしたのですが、その内容はまさしく当時の田舎いなかの風景そのまま。あまりに生々しいから、当時の不便で困窮していた頃の記憶がよみがえりそうで、こういうテーマの曲を歌うのは気が進まなかったんです。

すると武田さんが、鳥羽の風景が描かれた一枚の絵葉書を僕に手渡しながら、こんなアドバイスをくれたんです。

「鳥羽さんね、当時の風景を思い出して歌えなくなってしまうなら、この絵葉書を見ながら、この景色をそのまま歌うつもりでやってごらんよ。そうしたらきっと、なんの照れもなくなるからさ」

いわれたとおりにやってみると、確かにいっさい抵抗なく歌えるようになりました。

「故郷の鳥羽がテーマの曲を歌うのは、最初は気が進まなかったんです」

実はこれまで、僕の歌は北海道や東北を舞台にしたものばかりで、たまに地元へ帰ると「おまえの歌は全部向こうの歌ばかりだな。たまには鳥羽のことも歌ってみたらどうだ」とよく苦言を呈されていたんです(笑)。

そんな環境だったけど、歌は少年時代から好きでした。

いったいどこで歌と出合うんだと疑問に思う人もいるでしょう。最初の接点は、この小さな石鏡町で、親父が気まぐれで始めた映画館でした。

といっても、自宅の庭に掘っ立て小屋を建てて、映写機を置いてゴザを敷いた程度のものです。親父がどこから映写機を持ってきたのか今でも謎ですが、近所の人たちに映画を見せて、小銭を稼いで家計の足しにしようと彼なりに考えたのにちがいありません。

小器用だったうちの親父は、いろいろ商売を思いついて始めるものの、ことごとく失敗してしまうのが常でした。器用貧乏というやつですね。

映画館にしても、鳥羽市内からわざわざフィルムを担いで持ってきて流していましたけど、まるでもうからなかったのでしょう。そのうちうやむやになりました。

ただ、映画を上映する時、音声は特別な機材を使う必要があり、僕は映像に合わせてレコードをかける役割を与えられていました。これが音楽との最初の接点で、おそらく小学校4年生か5年生の時でした。

中学卒業後は少しでも稼ぎを得ようとマグロ漁船に乗りました

海しかない町ですから、歌手や音楽というのはそれだけで非日常的で、子ども心にもすごく魅力的でかっこよく感じられたものです。

興味を持っていろんな歌を聴くうちに、後の師匠である作曲家の船村徹ふなむらとおる先生のファンになりました。普通は作曲家じゃなくて歌い手に憧れるものなんでしょうけど、僕の場合はなぜか船村先生にピンときたんです。

でも、じゃあ将来歌手になろうかなんてことは考えもしませんでした。そんな発想ができるような育ちではなかったからです。

それよりも、目先の食いぶちをどうにかしなければなりません。中学を出て少したつと、僕は一攫千金いっかくせんきんを狙ってマグロ漁船に乗ることにしました。つまり、遠洋漁業です。

遠洋漁業にもいろいろあって、例えばカツオ漁船なら1ヵ月くらいで戻ってこられるけど、マグロ漁船は一度の漁でたいてい8ヵ月くらいかかります。貧乏生活から抜け出すために、マグロ漁船には2年間(2航海分)、カツオ漁船には3年間ほど乗り、合計で5年間は遠洋漁業で稼いでいました。

マグロ漁船といっても、世間一般が想像するような、過酷な船旅とは少し違います。

これが民間の漁業船であれば、目上の人や先輩にこき使われ、奴隷どれいのような船上生活を送るはめになっていたのかもしれませんが、僕の場合は三重県が所有する船で、地元の水産高校との相乗りでした。高校の実習生たちと共同なので、むしろ同世代がおおぜい一緒に乗っていて、部活のような感覚で楽しかったですね。

ちなみに、船の上でも船村先生が作った曲をよく歌っていました。

弟・山川豊のデビューに刺激を受けて弟子入りを直談判したんです

船を下りてからしばらくは、板前修業に明け暮れていましたが、なんと東京へ出ていた6つ下の弟の歌手デビューが決まります。ご存じの方も多いと思いますが、山川豊やまかわゆたかです。

これには驚きましたけど、「あいつにできるんだったら、自分にもやれるんじゃないか」と、遠い夢物語だったはずの芸能界が突然身近に感じられるきっかけになり、しだいにその気になりました。

早速、弟を通して船村先生の連絡先を調べてもらい、どうにか弟子にしてもらえないかと、すぐに電話をかけました。その時、電話に出たのが、内弟子として先生の家にいた里村龍一さとむらりゅういちさんという作詞家でした。

もしほかの人が電話を取っていたら、無下むげにガチャンと切られていたかもしれません。でも、里村さんは田舎の人間の気持ちが分かるのか、とても丁寧に話を聞いてくれました。そして、こんなアドバイスをくれたのです。

「決死の覚悟で飛び込んで船村先生にあいさつをしたんです」

「船村先生はレギュラー番組の都合で、毎週火曜に東京のグランドパレスというホテルに泊まっているよ。そこで待っていれば会えるんじゃないかな」

個人情報に寛大な時代なればこそですが、この情報を手に入れた僕は、すぐに東京へ向かいました。そして、ホテル中を探し回って、ついに地下の寿司屋さんにいる先生を見つけると、決死の覚悟で飛び込んであいさつをしたんです。

たまたまほろ酔いで機嫌がよかったのか、船村先生は「じゃあ明日の朝、日本テレビでこういう番組をやるから、よかったら見学においで」といってくれたのです。27歳の時でした。

そして、これをきっかけに、なかばなし崩し的に弟子入りすることになるのだから、人生とは分からないものですよね。幸い運転免許は持っていたので、運転手としてゴルフ場への送迎をしたり、キャディをやったり、身の回りのお手伝いをさせていただくことになりました。

上京して、そのまま内弟子になったので、当時は先生のお子さんから怪訝けげんな目で見られたのを覚えています。それはそうですよね、突然小汚い男が家で一緒に暮らすことになるわけですから。

この時、船村先生がどうして見ず知らずの自分をこれほど寛大に受け入れてくれたのか、今でもふと考えることがあります。やはり、運がよかったのでしょうね。

というのも、船村先生はそれまでにたくさんのヒット曲を出していましたが、僕が飛び込んだこの頃はやや低迷していて、いろいろ迷っていたようでした。専属のレコード会社を離れてフリーの立場になり、どうにか次のヒット曲を作らなければと悩み、そのために全国の景色を見て回る、演歌巡礼に出ようと考えていたのです。そのタイミングで飛び込んできた僕は、旅のアシスタントにちょうどよかったのでしょう。

実際、この時期は先生について全国津々浦々、さまざまな土地を訪ねました。

そして、ついに出た次のヒット曲が、北島三郎きたじまさぶろうさんの『風雪ふうせつながれ旅』です。

ここから船村徹の再ブレイクが始まりました。『矢切やぎりの渡し』がリバイバルし、僕のデビュー作である『兄弟船』をリリース。そして、大月おおつきみやこさんの『女の港』が大ヒットですよ。まさに破竹の勢いでしたね。

元気の秘訣は四股を踏むことで200回が日課です

気がつけば、自分もデビューからはや42年がたちました。子どもの頃の生活や環境を思えば、こうして歌手としてメシを食っている自分が今でもうそのようです。

今日まで大ケガや大病などとはほとんど無縁でやってこられたのは、あの漁師町とマグロ漁船やカツオ漁船で鍛えられたおかげかもしれません。もちろん、細かな不調は何度もありましたけど、いちいち思い返すほどのものではないし、こうしている今も、バッチリ健康を維持しています。

その秘訣の1つとして、毎日四股しこを踏んでいるのがいいのではないかと思います。

「毎日、四股を踏んできたおかげで、足腰がだいぶ鍛えられました」

四股というのはすごく体に負荷がかかるので、いい運動になるんです。なにより、楽屋でもホテルでも場所を問わずどこでもできますから、毎日左右で合計200回欠かさずやってきたおかげで、足腰がだいぶ鍛えられました。自分で太ももの辺りを触っていて、とても70代とは思えない張りを感じますよ(笑)。

お酒も3年前にやめましたし、タバコにいたってはもう10年以上吸っていません。おまけに若い頃はまったく口にしなかった野菜も、最近はちゃんと食べるようになりました。たぶん、自分なりに老いに対して備えなければという意識が働いているんでしょうね。それこそマグロ漁船に乗っている間は、野菜なんて食べたくても食べられませんでしたから、なおさら今取り返さないといけません。

一方で、やっぱり自分の原点はあの漁師町にあるのだなと、あらゆる部分で実感させられます。いろいろ不便も多かったけど、故郷には感謝しなければならないですね。

そういえば一つ、今でもたまに思い出す不思議な体験があるんです。

小学生の頃、いつものように道端で5、6人の友達とたむろして遊んでいた時のことです。たまたま近くを通りがかった薬売りのおじさんが、僕にだけ突然、「坊や、ちょっと手を見せてみな」といいました。そして、そのおじさんは、僕の手相をまじまじと眺めながら、「あんたは将来、歌手になるよ」といったのです。

その時はなんのことだか分からず、ただただポカンとしていましたが、今振り返るとほんとうに不思議な体験でした。ちゃんと音楽の勉強を積んだわけでもない自分が歌手になれたのも、もしかすると運命として決まっていたのかもしれないですね。

皆さんもたまには故郷に想いをせてみると、あらためていろんな発見があるかもしれませんよ。