プレゼント

ポジティブでいる——これがなによりの良薬です

私の元気の秘訣

タレント 渡辺 正行さん

コント赤信号の「リーダー」の愛称で親しまれている渡辺正行さん。そのノリのよさと明るい笑顔はすっかりおなじみですが、過去には更年期障害に苦しめられた時期もあったそうです。人知れず苦しい時期を過ごした渡辺さんは、どのように不調を乗り越え、元気を取り戻したのでしょうか? 毎年恒例の舞台『熱海(あたみ)五郎一座(ごろういちざ)』の本番を間近に控えるご本人を直撃しました。

50歳の時に突然うつ病の症状に襲われたんです

[わたなべ・まさゆき]——1956年、千葉県出身。明治大学在学中に劇団「テアトル・エコー」の養成所に入所し、ラサール石井・小宮孝泰と出会ってコント赤信号を結成。テレビ番組を通して人気を博し、多数のバラエティー番組の司会者としても活躍。若手の育成にも力を入れており、1986年から「ラ・ママ新人コント大会」を主催。俳優としては、1987年公開の映画『ちょうちん』で日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞。2003年から、みずからがプロデュースする舞台を上演するなど、マルチな才能を遺憾なく発揮。剣道6段。

ちょうど50歳に差しかかった頃のことです。ある舞台の本番を目前に控えた時期だったのですが、稽古の最中、理由もないのにどうにも不安でたまらなくなるという、おかしな精神状態に陥ることがしばしばありました。

毎年やっている舞台とはいえ、本番が近づくにつれて、なにかと心配な気持ちが湧いてくるのは自然なこと。たとえ普通に健康な生活を送っていても、急にささいなことに不安を覚えるなんてことは、誰しもあるでしょう。

しかしこの時は、不安の感じ方がちょっと特殊で、ほんとうに四六時中、「大丈夫かな?」「このままでいいのかな?」と、理由もなくなにかを心配している状態が続いていました。

不安が不安を呼び、本番直前なのに演出の三宅裕司(みやけゆうじ)さんに電話をかけて、「僕、大丈夫ですかね?」と相談していたほどですから、今振り返ってみてもかなり異常な精神状態だったと思います。

それでもどうにか無事に初日を終えたものの、今度はまるで全身の血液が逆流するような、これまで味わったことのない妙な感覚に襲われました。最初は「初日だから緊張していたのかな?」と軽く考えていたのですが、二日目も三日目も同じような状態が続きます。

さすがにこれは変だなと、懇意の医師に相談してみたところ、「それは男性の更年期障害かもしれませんね」といわれました。先生もその時点では確信を持っているわけではなさそうでしたが、処方された抗うつ剤を飲んだら、症状はぴたりと治まりました。つまり、更年期障害によるうつ症状が出ていたわけです。

今にして思えば、あの時自分の変化や異常を察知して、すぐに医師に相談したことはすごく大きかったですね。おかげで、うつ症状はしばらく続きましたが大事に至ることもなく、少しずつ薬の量を減らしながら、どうにか本来の自分を取り戻せました。

こうした体験をしてからは、日常生活でもなるべくポジティブな気持ちでいられるように心がけています。

例えば、インターネット上で自分に関する評判を調べるエゴサーチなんかも、僕は絶対にやりません。なにか批判めいた書き込みを見てしまうと、どうしても反論したくなりますし、それがまたストレスとして心に重くのしかかります。

とにかく余計なストレスを遠ざけるように工夫してきたおかげで、68歳になった今でも、元気で明るい気持ちを保つことができています。ネガティブなものを自分から遠ざける努力というのは、皆さんが思っている以上に大切なことなのだと、身をもって感じています。

私はもともと千葉県のいすみ市(旧・夷隅(いすみ)郡夷隅町)の生まれで、周囲は田畑ばかりの、ほんとうになにもない田舎(いなか)町で育ちました。高校を卒業するまでは、せいぜい千葉市内へ出るくらいで東京へ出ることはまずありませんでした。

そんな環境だったためか、お笑いとの接点もほとんどなく、子どもの頃はそういうジャンルがあることすらよく理解していませんでした。

大学進学と同時に楽しい世界に憧れて「落研」に所属しました

そんな僕ですが、大学では落語研究会に所属することになります。ほんとうは、高校までやっていた剣道を続けるつもりでいたのですが、正直、大学レベルで通用する腕はないと自覚していました。それよりも、せっかくの大学生活なのだから、なにか楽しそうなサークルに入ろうと考え、新入生歓迎イベントをあちこちのぞいていたら、着物姿で勧誘する人たちが視界に入ってきました。

キャンパスの中での着物姿自体がちょっと異様で、「ああ、この人たちはちょっとおかしな人種なんだろうな」とピンときたのが運命の始まりです。もともと楽しいことが大好きだったので、あの着物姿のグループの一員になれたら、にぎやかな大学時代が送れそうだと直感したのですね。ちなみに、その落研(おちけん)にいたのが、三宅裕司さんや立川志(たてかわし)(すけ)さんです。

問題は、肝心の落語がまったくの未経験だったことでした。落語に関してはわりと厳しいところだったので、これはけっこうネックでした。ほんとうに自分にやれるのかな、と。

ただ、入会直後に当時3年生だった志の輔さんが、1年生に向けて落語を披露してくれたのですが、それがほんとうに面白くて、心の底から感銘を受けました。

僕にとっては初めて生で聞く落語でもあり、ずぶの素人(しろうと)でもちゃんと稽古を続けていけば、3年生になる頃には志の輔さんみたいになれるんじゃないかと、思わずその気になってしまいました。

もっとも、落語を知るにつれて、それが大きな間違いであることを思い知ることになるのですが(笑)。志の輔さんの技は一朝一夕(いっちょういっせき)にまねできるレベルのものではなく、はっきりいって僕の落語は全然上手にならなかったですね。

志の輔さんや三宅さんが、将来は俳優を目指していたことが、僕の将来に影響しています。憧れの先輩がそっちへ行くなら自分もがんばってみようかなと、ほんとうに軽いノリではありましたが、3年生になってから、僕は「テアトル・エコー」という劇団の養成所に入ることになりました。

そこで出会ったのが、後にコント赤信号を結成することになる、小宮孝泰(こみやたかやす)くんとラサール石井(いしい)くんでした。

大学卒業後も研究生として劇団に残った僕たちは、懸命にお芝居の勉強を続けました。研究生というのは劇団の構成員なので、養成所時代と違って授業料を払う必要はないのですが、講師がいてレッスンが受けられるわけではないので、自分たちで学ばなければなりません。

いちばんの経験の場は、やはり舞台。しかし、舞台に立つにはお金がかかります。そこで僕たちは知恵を絞り、三人でコントを作って練習するようになりました。コントなら少人数でやれますし、演技の練習にもなります。なにより、僕たちが主役になれるのだから一石三鳥。

ストリップ劇場でコントに励んだ不遇の下積み時代

そして、いくつか作品を作ってみたところで、試しに学園祭の場でお披露目してみたら、これがめちゃくちゃウケました。ほんとうにこちらがびっくりするくらい、なにをやってもドッカンドッカン笑いが起こる。どうやらわれわれは芝居よりもコントのほうが向いているのではないかと気づくまでに、そう時間はかかりませんでした。

ただ、当時はお笑いをやれるステージというのがあまりなく、ネタはあってもそれを披露する機会がないのが悩みの種でした。

そんなある日、たまたま知り合った芸能関係の方から、「コントをやれるストリップ劇場がある。君たちが本気でお笑いをやるなら、こっちへ来ないか」と誘いを受けました。要は、ストリップの前座ですね。

「ストリップ劇場ではまるで通用しませんでした」

果たして、僕たち三人はこの話に乗り、劇団をやめる決意をします。これがお笑い一本に絞った瞬間でした。

ところが、思う存分コントをやれるのはいいものの、現実は甘くはありません。学園祭ではあれほどウケた僕たちのネタが、ストリップ劇場ではまるで通用しないのです。

でも、それはそうですよね。女性の裸を見に来たお客さんからすれば、目的がまったく違うのですから、笑ってもらえないのも当然でしょう。

一方、ちょうどその頃、世間では空前の漫才ブームが到来していました。ビートたけしさんのツービートやザ・ぼんちなどが大活躍していて、その華やかな活躍ぶりを僕はいつも、ストリップ劇場の楽屋のテレビで眺めていました。

正直、自分たちとの落差に打ちのめされました。いくらやっても笑いは起こらず、こんな状態でくすぶっているままなら、いい加減、まともに将来を考えなければと、解散を考えるようにもなりました。

でもせめて、解散する前にもう一本だけ、本気でネタを作ってみよう。誰からともなくそういい出し、全力で作り上げたネタが『花王(かおう)名人劇場』(関西テレビ系列)のプロデューサーの目に留まるのだから、人生とは分からないものですよね。

当時は漫才ブームでしたが、今のように何千組もの漫才師がしのぎを削る状況とは違い、10組くらいの人気コンビが入れ替わり立ち替わりテレビに起用されていたというのも、僕たちにとっては追い風でした。テレビ局が、そろそろ新しい顔ぶれを求めていたのです。

かくして、僕たちはこれを機に、憧れのテレビの世界へと飛び出していくことになるのでした。

芸能界は僕にとって、刺激的で楽しいものでした。毎日違う人と会い、違うことをやる生活は飽きが来ず、僕たちも日々新しいものを生み出していかなければならないと、チャレンジ精神に満ちあふれていました。

しかし、生活はとにかく不規則で、暴飲暴食の毎日。若かったというのもあり、健康管理なんて考えたこともありませんでした。

だから、50代半ばになってから、テレビの企画で本格的に剣道の稽古を再開することになったのはよかったですね。還暦の時に五段を取って、65歳で六段を取りました。次の七段を取るには6年空けなければならないルールがあるので、きっと71歳でまた昇段試験に挑戦することになるのでしょう。

剣道は武道ですから、ただ身体の鍛錬になるだけではなく、精神の鍛錬になるのもいいですよね。なにしろ六段ですから、今の僕は、すごく人間ができていると思いますよ(笑)。

喜劇なのでどうやってお客さんを笑わせるかを常に考えています

「『熱海五郎一座』は、常に新しいものを創ろうと試行錯誤を続ける集団です」

もっとも、寄る年波には勝てないのか、2022年には胆嚢(たんのう)を取る手術をしました。炎症を起こしてひどい有り様で、普通は1、2時間程度で終わるはずの手術が、僕の場合は6時間もかかったんです。

おまけに患部が化膿(かのう)してしまい、(うみ)を出すための管が3ヵ月間もおなかに入っていたんです。チクチクして気持ちが悪くて、剣道の稽古もゴルフもできない期間がありました。

動かないから足腰の筋力もどんどん衰えていくし、やっぱり人間、健康がいちばんなのだなとあらためて痛感しています。

でも、今年も『熱海(あたみ)五郎一座(ごろういちざ)』の舞台が控えていますから、あまり泣きごとはいっていられません。今年は伊東四朗(いとうしろう)さんという大先輩も加わってくださっているし、僕としては芝居についてたくさん学ばせてもらういい機会です。

「ポジティブな刺激をたくさん探してみてください」

『熱海五郎一座』は、演出の三宅さんを筆頭にすごいメンバーが集まっていて、常に新しいものを創ろうと試行錯誤を続ける集団なんです。基本的に喜劇ですから、どうやってお客さんを笑わせるか、常にそればかり考えています。今年の舞台も、期待していただきたいですね。

今の自分を客観視してみると、やはりポジティブでいることがなによりの良薬なのだと感じます。体調を崩したり、嫌なことがあったりして落ち込むこともあると思いますが、いつどんな場面でも楽しみを見いだす工夫はしたいですね。

たとえ病気にかかって入院することがあったとしても、「晩ごはんはなんだろう」と考えるのもいいですし、「あの看護婦さん、キレイだな」でもいいんです。どんな場所でも、窓の数だけ違う景色があるはずです。皆さんもぜひ、そういう小さなことに目を向けて、ポジティブな刺激をたくさん探してみてください。