プレゼント

自分が誰かのためになっている——前向きな心が大切です

私の元気の秘訣

女優 岡崎 友紀さん

東京大神宮のそばで歌と踊りに夢中の幼少期を過ごしました

[おかざき・ゆき]——1953年、東京都出身。1961年、『そばかすまり子の恋ものがたり』で初舞台を踏み、子役として舞台やテレビに出演。1970年、歌手デビュー。同年、『おくさまは18歳』(TBS系列)で愛らしい喜劇俳優としての魅力を開花させ、国民的アイドルとして人気を博す。その後も数々の舞台、テレビドラマなどに出演し、タレント・女優・歌手として精力的に活動中。また、環境保護活動にも積極的に取り組んでいる。過去にエルザ自然保護の会副会長、NPO法人地球こどもクラブ理事、一般社団法人日本トラウムハイム協会理事。

私は浅草(あさくさ)の生まれで、仲見世(なかみせ)を駆けずり回っていた記憶が、今でもかすかに残っています。もっとも、当時はまだ3歳くらいですから、記憶といっても曖昧なものですけどね。

はっきりと思い出に残っているのは幼稚園に入ってからのことで、わが家はその頃、飯田橋(いいだばし)に引っ越しました。新しい住まいは東京大神宮の目と鼻の先で、子どもにはとてもいい環境だったと思うのですが、心配性の母は私が外で遊ぶのを許してくれませんでした。いつも「遊ぶなら家にお友だちを呼びなさい」といわれるので、しかたがないから家の中で友だちとカウボーイごっこに興じていました。

女の子なのに不思議に思われるでしょうけど、これは当時テレビでやっていた『ローン・レンジャー』という西部劇の影響なんです。白馬に乗ったカウボーイが、それはそれは格好よくて、とにかくまねしたい一心で、母に「白馬を買って!」とおねだりしたほど(笑)。

もちろん、そんなものを買えるわけがありません。代わりに、またがって乗れる木馬と、ガンベルトに二丁拳銃、ウエスタンブーツと一式そろえてもらって、家の中でひたすら遊んでいたわけです。おてんばですけど、そういう幼少期だったんですよ。

ちなみに、自宅から歩いて行ける皇居東御苑(こうきょひがしぎょえん)に乗馬クラブがあったので、せめて乗馬くらいはほんものを経験したい!とおねだりしたこともありました。でも、なにしろお金がかかりますからね。これはどんなにお願いしてもかないませんでした。

それほど『ローン・レンジャー』にはまったのは、ウマが好きという理由のほかに、BGMが気に入っていたのも大きかったと思います。わが家では母の趣味で洋楽をよく流していましたから、自然と私の好みもそちらに向いていたのでしょう。

そんな一方、ご近所のお姉さんの影響で、4歳からモダンバレエを始めています。踊るのは性に合っていたようで、バレエを始めてからは、音楽が聞こえてくるとどこでもすぐに踊りはじめる癖がつきました。私に歌と踊りの原体験があるとしたら、この頃ですね。

バレエに関しては母もわりと熱心で、「なにごとも基礎をしっかり固めるべき」という教育方針から、クラシックバレエも同時に習うことになりました。

当時の私は踊ってさえいればゴキゲン☆というだけで、これを将来の職業にしたいなんて気持ちはまったくありませんでした。

そんな幼い私の将来の夢はなんだったかというと、新聞や雑誌の記者になることだったんです。小学校で学級新聞のようなものを一人で作り、勝手に教室に貼り出していたのですが、これが今思い返してもなかなか凝ったものでした。自分で四コマ漫画を描いたり、近所の交番のお巡りさんにインタビューをしたり……、われながら精力的にやっていたと思います。

そんな毎日の中で、たまたま縁あって子役としてデビューを果たすことになったのが、8歳の時。それも新宿(しんじゅく)コマ劇場ですから、なかなかの大舞台です。

この時はほんとうに偶然、声がかかっていわれるがままに出てみただけだったのですが、きらびやかなライトに照らされたステージや、きれいな衣装とメイクに飾られた出演者の皆さん、そしてすてきな音楽と、なにもかもが新鮮で刺激的でした。目の前にはたくさんのお客さんの笑顔があって、「一生この舞台が終わらなければいいのに」と思うくらい楽しかったですね。

この時に共演させていただいた大人たちの姿が、私のその後の人生に大きな影響を与えてくれたのです。

皆さん、何千人も入る大きな会場を毎回満員にできるスターなのに、いつでもすごく真摯(しんし)に、真面目に、そしてエネルギッシュにパフォーマンスを披露していました。お客さんを楽しませることに、すべてを懸けているという姿勢が子ども心にも伝わってきて、プロの厳しさと同時に醍醐味(だいごみ)を肌身で感じる、貴重な経験だったと思います。

小さいうちからそんな経験をしたものですから、歌と演技の世界にそのまま進むことになったのも、自然の成り行きだったのでしょう。

すてきな思い出を永遠に輝かせることができる女優業はすばらしいです

キャリアの中で強いて一つの転機を挙げるなら、やはり『おくさまは18歳』(TBS系列)でしょうね。これは国民的な話題を呼んだ学園ラブコメディーで、岡崎友紀という女優の知名度を一気に押し上げてくれた作品です。

そもそもこの作品の依頼をいただいた時は、ありがたいことにあちこちからさまざまな企画のオファーが舞い込んでいた時期で、僭越(せんえつ)にもその中からどれを選ぼうか、という状態でした。

「こう見えて実はけっこう恥ずかしがり屋なんです」

そんな中、『おくさまは18歳』というタイトルには、なんだかアメリカのライトコメディーっぽい雰囲気があって、直感的に「これを私が演じれば、きっと皆さんが喜んでくれる作品になる!」と感じたことを覚えています。

実際、ドラマの放送が始まると、とてつもない反響がありました。この頃はまだ、アイドルという言葉が一般的ではありませんでしたが、私のプロマイドが売れつづけるなど、一気に周囲が騒がしくなりました。長いキャリアの中では一つの通過点に過ぎないわけですが、やっぱりこれは忘れられない体験でしたね。

そんな私ですが、こう見えて実はけっこう恥ずかしがり屋なんです。女優としていろいろな役を演じてみたい、という気持ちは元々あまりなくて、お客さんを楽しませたい——これが、この仕事を続けているいちばんの目的ですね。演技をしたり、歌ったり、作品を提供したりするのは、あくまでそのための手段の一つなんです。

数年前に、とてもうれしいファンレターをいただきました。その方は、私が20歳の頃に出演したミュージカルから観てくださっていて、今も当時のパンフレットを手元に保存してくださっているといいます。その貴重な古いパンフレットもさることながら、その方の記憶の中では、当時の私のステージが色あせずにキラキラと輝いていて、すてきな思い出になっている、とその手紙には書かれていました。

私が皆さんに伝えたいのは、まさにこれなんです。私たちは舞台の上から物理的になにかを送ることはできないけれど、その瞬間にその場所で感じていただいたものを、永遠に輝かせることができるんです。それがお客さん自身の元気の源になるなら、こんなにすばらしい職業はありませんよね。

気がつけばずいぶん長くこの仕事を続けてきましたけど、こうした思いはいつだって変わりません。

元気で丈夫な体はバレエと自分の体との「対話」のおかげです

「大変だとしても、やるべきことは黙ってやる姿勢が身についていました」

幼少期からずっとこういう仕事を続けてきましたから、正直、自分の健康を意識する余裕はありませんでした。ただただ毎日、「眠いなぁ」「もっと寝たいなぁ」と思っているうちにこの年になっていたという感覚です。

逆にいえば、幼い頃から舞台を経験してきたので、「眠い」とか「疲れた」なんて、自分だけの理由で休めるような仕事ではないことを皮膚感覚で分かっていました。

だから、泣き言を口にするような習慣が身につくこともなく、どんなに大変だとしても、やるべきことは黙ってやる姿勢が身についたのは、よかったと思います。「疲れた」と口に出してみたところで、かえって疲れが増すだけですからね。

病気もあまりしない、丈夫な体だったのも幸いでしたが、これはずっとバレエをやっていたおかげでしょう。今でも体は柔らかいし、それなりに筋肉もついていますから、並の人より頑丈にできている自負があります。

とはいえ、過去には肺炎で救急搬送されたことがありました。

たしか、『ママはライバル』(TBS系列)の撮影をしていた20歳前後の時だったと思います。その日は現場に行った瞬間から鉄鍋でもかぶっているかのように頭が重く、ひとまずいつものように撮影を始めたんです。でも、すぐにスタッフさんが私の異変に気づき、救急車を呼んでくれてそのまま2日ほど入院することになりました。

主演女優が倒れるなんて、今振り返ればけっこう大ごとですけど、当時の私はたっぷり眠れてうれしかったですね(笑)。

国民的アイドルとして人気を博していた当時の岡崎さん

こんな楽天的な私ですが、もうこの年齢ですから、食事などにも気を使わなければならないとは思っています。でも、大の甘党なもので、ついついお菓子に手を伸ばしてしまうのが最近の悩みです。「ガリガリに()せてしまうくらいなにも食べずにいられればいいのに」なんて思うこともあるのですが、これがどうしてもやめられなくて……。

近頃はちょっと開き直っています。お菓子を食べすぎて、ほんとうに栄養が偏ってしまったら、その時はきっと体が「もっと野菜を食べなさい」とアラームを鳴らしてくれる——と考えるようになりました。

まったく虫のいい考え方ですけど、実際に中学生の頃、私はこんな体験をしています。

当時、私はピーマンが嫌いでまったく食べられなかったのですが、ある日突然、朝起きた瞬間に「ピーマンが食べたい」と感じたんです。そういう夢を見たからなのか、原因ははっきりしませんが、すぐに台所の母のところに行って、「朝食にピーマンを出して!」と頼みました。

母はとても驚いた顔をしながら、「あんた、なにをいっているのよ。ピーマンなんて大嫌いでしょ、どうやって食べるのよ」というので、「生で食べたい」と伝えました。

いぶかしがる母をよそに、千切りの生ピーマンに少しケチャップをつけて食べはじめたら、とてもおいしくってあっという間に完食してしまいました。

あれほど嫌いだったのに、なんとも不思議な体験です。これはきっと、野菜不足に危機感を持った私の体が発した指令だったのでしょう。自分の体と対話することは、やはり大切ですよね。

亡き親友への想いを作品に昇華して前向きな心の大切さを知りました

「『Now to Now』は親友の死を受けて作った曲です」

昨年、古希(こき)を迎えた節目を記念して、「70th ANNIVERSARY SUPER PREMIUM LIVE」を催しました。

私は元々、生のステージで歌うのが大好きなのですが、なんの理由もなくやるのも気が引けるので、大義名分が欲しかったんです(笑)。まさかこの年齢になってこういうライブをやらせてもらえるとは思っていなかったので、うれしかったですね。

これはちょうど、「Now to Now」という新曲が出たタイミングで企画したライブでもあります。実はこの曲は、親友の死を受けて作ったものなんです。

中学2年生の頃から仲よくしていた三人組の一人だったので、しばらくは彼女の死を受け入れることができず、大きな悲しみに暮れていました。

でも、これまで一緒に過ごした時間を回想しているうちに、彼女がいかにすばらしい人生を歩んできたかということが、私の中で浮き彫りになってきて、徐々に気持ちが落ち着いていくのを感じたのです。人はどのみち、生まれた瞬間から死に向かっているのは間違いありません。だったら、どうやって生きるのかをもっと大切にすべきという気づきです。

これまでの私は、人はどう生きるべきかなんて考えたこともなかったので、これはいい経験になりました。きっと、常に前向きだった彼女からの贈り物なのでしょう。

前向きな気持ちは、人を健康に、そして元気にしてくれます。実際、3ヵ月の余命宣告を受けた方が、私の番組を楽しみにしながら、3年も生きながらえたということもあります。

それは私自身の力ではなく、私の作品を見た方の中で、時としてお医者さんよりすごいことが起こってしまうという、可能性を知る体験でした。だったら、私にできることがあるうちは、まだまだがんばらなければいけないな、と。そう思うたびに、いっそう元気が湧いてきます。

年を重ねるとつらいこともたくさんありますが、皆さんも「自分が誰かのためになっている」と信じて、前向きな心を取り戻してくださいね。

新作CDアルバム「Now to Now」

古希という節目を迎え、「あの時の"今"」と「現在の"今"」を1つのアルバムにまとめ、新旧織り交ぜた本作品。収録曲には、1976年に発表された楽曲「明日のスケッチ」「晴れた日には特別」を提供した作曲家の小坂明子(こさかあきこ)さんによる新曲のほか、中学生時代からの親友の娘であり音楽プロデューサーの神村紗希(かみむらさき)さんによる作編曲に加え、過去にリリースした楽曲を現代版にリアレンジして再録。年齢を感じさせないパワーのある新曲は必聴です。

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