プレゼント

心のバランスを取って病気と共存していくのがいちばんです

私の元気の秘訣

フリーアナウンサー 梶原 しげるさん

みずからアルツハイマー病であることをテレビ番組で公表し、世間を驚かせたフリーアナウンサーの梶原しげるさん。病状が進む中でも、心の平穏を保ちながら、心身ともに充実した日々を送っています。アナウンサー歴51年目を迎えた梶原さんに、これまでのキャリアや現在の心持ち、そして大病に負けない元気の秘訣(ひけつ)をお聞きしました!

湘南の海を間近に臨む茅ヶ崎の街で幼少期を過ごしました

[かじわら・しげる]——1950年、神奈川県出身。早稲田大学法学部卒業後、文化放送にアナウンサーとして入社。1992年からフリーアナウンサーとして活動。バラエティーから報道まで数々の番組に出演し、49歳で東京成徳大学大学院心理学研究科に進学し、心理学修士号を取得。著書である『口のきき方』(新潮新書)は15万部を突破し、中学校の教科書『伝え合う言葉 中学国語1』(教育出版)に採用される。東京成徳大学経営学部客員教授(口頭表現トレーニング)、日本語検定審議委員、日本語大賞審査委員。

私は神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市の生まれで、生家から砂浜まで歩いてほんの4、5分という、海辺の街で育ちました。

夏には毎年、「浜降祭(はまおりさい)」というお祭りがあって、早朝から砂浜にずらりと神輿(みこし)が並び、それを大人たちが「茅ヶ崎甚句(どっこい)」という歌を歌いながら担ぐんです。それはそれはものすごい迫力で、子ども心にいつも胸を躍らせながら眺めていたのを懐かしく思い出します。

そんな環境なので、もちろん海水浴は日常的なレジャーでした。夏場は毎日、日焼けで真っ黒になるまで遊んでいた記憶しかありません。そんな絶好の遊び場がすぐ目の前にあったせいか、勉強はあまりやらない子どもでしたね。

海岸線を間近に臨む生活というのは、今にして思えば非常に恵まれていたと感じる一方で、台風の時期は非常に恐ろしい思いをしました。普段は雄大で懐の深さを感じさせる海が、別人のようにどう猛に荒れ狂うんです。激しい雨風と波に、本能的に命の危機を感じていたのか、荒天の時は海にはいっさい近寄らかったですね。

そんな茅ヶ崎は、いわゆる「湘南(しょうなん)」エリアですから、都会的なイメージが定着しているかと思います。でも、それはサザンオールスターズのおかげで、私が幼少の頃はまだ単なる神奈川の田舎(いなか)町でした。クラスメイトと話す時も「だっぺ言葉」が当たり前。海水浴シーズンに都心からやってくる観光客の様子と比べると、ずいぶん文化に違いがあるように感じていたものです。

東京から来る人たちは皆、言葉遣いだけではなくファッションもおしゃれであか抜けていました。砂浜にレジャーシートを敷いてくつろいでいるお兄さんやお姉さんは、たいていお菓子を持っているので、物欲しそうに眺めていると、「僕、一緒に食べる?」と声をかけてくることもしばしばでした。

ちなみに、当時はまだアナウンサーになりたいだなんてことはまったく考えていなくて、勉強が苦手だった私は中学校卒業後、地元神奈川に新しくできた県立貿易外語高校(現・神奈川県立外語短期大学付属高校)に進むことにしました。

「これからは世界を相手にできる人材が必要だ」というモットーで実践的な教育を行う、職業訓練校に近い学校で、偏差値が心もとなかった私にとってはお手頃な選択肢だったのです。実際、国語や数学の座学を黙々と受けるよりも、ビジネスの世界に身を置く先生方からさまざまな現場の話が聞けるのは刺激的で、私の性に合っていたように思います。

だからてっきり、将来は貿易の仕事に従事するのだろうと勝手にイメージしていたのですが、いざ卒業が近づいてくると、そんなに簡単に進路を決めてしまっていいのだろうかという疑問が湧いてきました。

自分なりにたくさん悩み、考えた末、結局、遅まきながらがんばって受験勉強に取り組み、早稲田(わせだ)大学に進むことになります。

今振り返っても不思議な選択でした。早稲田という大学にまるで関心を持っていなかった私が、なぜあの時急に早大(そうだい)進学を目指して受験勉強に励む気になったのか……。人生なんてそういう曖昧なことで決まっていくものなのかもしれませんね。

みのもんたさんから仕事のいろはを教わった新人アナウンサー時代

大学時代はハワイアンバンドサークルに所属して、音楽漬けの毎日を送っていました。

当時はニューハワイアンという、現地の人々がビーチで歌って踊るミュージックが台頭していて、夢中になってバンド活動に明け暮れたものです。茅ヶ崎のビーチで育った私にとって、ハワイアン音楽はどこか相通ずるところがあったのかもしれませんね。

バンドのOBには、レコード会社をはじめ、音楽業界に進んだ人がおおぜいいて、「これ聴いてみてよ」と、LP盤を後輩の私たちにばんばん配っていました。新品のレコードを気前よくばらまくその姿にちょっとした憧れもあり、将来は音楽業界で食べていければいいなと、ここで初めて将来の具体的な進路を想像するようになりました。

それがなぜ、ラジオ局である文化放送に入社することになったのかは、これまた記憶が曖昧なのですが、おそらく毎日たくさんの音楽を流す当時のラジオに親和性を感じたのでしょう。まさか自分がアナウンサーになるなんて、子どもの頃は夢にも思っていませんでしたが、入社後の下積み期間は刺激のあふれる時間でした。

「みのもんたさんから学んだことは数知れません」

ラジオ局の職員には、急な災害や技術トラブルなどの有事に備えて、週に二度ほど泊まり込みの日があります。そこで夜な夜な先輩たちと、雑談しながらおいちょかぶや将棋をやったりするたわいのないひと時が、当時の私にはたまらなく楽しかったんです。

そんな新人時代の私に教育担当としてついてくれたのが、その後テレビスターとして活躍されるみのもんたさんでした。みのさんは私の6歳上の先輩で、当時はぎりぎり三十路(みそじ)に差しかかる前だったと思います。研修初日、私が出勤すると局の玄関前で待っていてくれて、「おお、君が梶原くんか」と大きな声で出迎えてくれたのを覚えています。

アナウンサーとしての技術や、社会人としての振る舞いなど、みのさんから学んだことは数知れません。しかし、なによりも衝撃的だったのは、世の中にはこれほどサービス精神に満ちあふれた人がいるのか、ということでした。

みのさんは、若手アナウンサーなどの後輩たちだけではなく、掃除のおばちゃんから出前のお兄さんまで、満遍なく、分け隔てなく必ず声をかけるんです。

「お、おばちゃん、今日もありがとう。そのブラウス、すてきだね!」

「今日はなにを持ってきたの? ワンタン(めん)か、いいねえ」

フロア中に響き渡るようなよく通る声で、万事そんな調子ですから、局内のムードがパッと明るくなりますよね。

宿直明けで疲れているはずの朝でも、とにかく通りがかった部屋の扉はすべて開けて、「よう、お疲れさん!」とやるんですから、あのバイタリティーには感服したものです。

こうしたコミュニケーションというのは、必要ないといえばない。でも、人間と人間をつなぐ、組織における潤滑油のようなものだ、と肌身で感じることができたのは若い私にとって大きな財産でしたね。

収録中の異常を指摘されその後、症状が明らかに悪化していきました

もともと関心を持っていたわけではないアナウンサーの仕事ですが、いざ就いてみると、意外や意外、社外に出る機会の多い、実に楽しい職業でした。

屋外ロケはもちろん、イベントなどの司会を仰せつかることも多く、部屋に閉じこもっているのが嫌いな私にとっては天職だったかもしれません。

また、たまたまご縁があったのが文化放送でしたが、ニッポン放送やTBSなど、テレビとのつながりが深い局に比べると、アットホームな雰囲気があったのもよかったですね。当時は土居(どい)まさるさんや落合恵子(おちあいけいこ)さんといった大御所の先輩も活躍されていましたが、みんな仲がよく、あたかも〝文化放送一家〟といったような居心地のよさがありました。

週に二度の泊まり込みだけは体力的にきつかったですけど、良好な人間関係のおかげでさほどストレスに感じることがなかったのも幸いでした。不規則な生活の中で特に体調を壊すことも大病することもなかったのは、ストレスフリーな環境の賜物(たまもの)でしょう。

先輩たちに連れられて、忙しい合間にゴルフの打ちっぱなしに行っていたのが適度な運動になっていましたし、宿直中は有事に備えてお酒は禁物なので、飲みすぎるようなこともありませんでした。

こうして振り返ってみると、局アナ時代は健やかな毎日を過ごせていたのだなとつくづく実感しますが、退職し、73歳になった今は、そうもいきません。

先日、『徹子(てつこ)の部屋』(テレビ朝日系列)に出演した際にもお話しさせていただきましたが、最近はアルツハイマー病の症状が出ていて、生活の随所で不便を感じています。

症状を自覚したきっかけは、あるラジオ番組の生放送でした。放送終了後、制作スタッフの方から事務所に「梶原さん、ちょっと様子がおかしかったけど大丈夫ですか?」と連絡があったのです。

その時はまだ、ちょっとした言葉が出てこないとか、年相応の症状だったように思いますが、その後、仕事の現場に自力でたどりつけないことがたびたびあり、症状は明らかに悪化していきました。

そこで、マネージャーのすすめで街の病院に行ったところ、最初はMCI、つまり軽度の認知障害が認められる状態だと診断されました。この時点では「そうなのか、私も年を取ったものだな」くらいに思っていたのですが、その後にあらためて大きな病院で診察を受けたところ、今度ははっきりとアルツハイマー病と診断されました。

一度は絶望したアルツハイマー病と真摯に向き合う日々

「とてつもない絶望感に襲われて涙が止まらなくなりました」

正直なところ、最初はアルツハイマー病といわれても、あまりピンときませんでした。特に外科的な手術を受けたわけでもなく、いくつかの検査の後、淡々と診断を告げられただけなので、こちらとしても「ああ、そうなんですね」といった程度にしか受け止められなかったんです。

ただ、マネージャーやスタッフに、「梶原さん、病院に行きましょう」とただならぬ表情でいわれていたことからすると、症状は目に見えて進行していたのでしょうね。

ほんとうの意味で自分がアルツハイマー病であるという現実を突きつけられたのは、まさに『徹子の部屋』の収録の直前でした。スタジオに向かうためマネージャーと合流した時、トレードマークにしていた眼鏡(めがね)をはじめ、ほとんどなにも持たずに家を出てきてしまったことに、指摘されて初めて気づいたのです。さすがにこれは普通ではないぞと、自覚した瞬間でした。

「頭の一部に薄い膜が張っているような、ぼんやりとした状態に陥ることがあります」

その途端、とてつもない絶望感に襲われて、なぜ自分はこんな病気になってしまったのか、いったいなにがいけなかったのかと、涙が止まらなくなりました。冷静さを失った私の様子を見かねたマネージャーが、番組プロデューサーに「一応スタジオには向かいますが、こんな状態なので、今日の収録は難しいかもしれません」と電話をしたほど、最悪の状態でした。

幸いなことに、スタジオに着いて現場の皆さんに「おはようございます」とあいさつをした瞬間に仕事のスイッチが入り、収録はどうにか無事に終えることができました。

現在の自覚症状としては、時々、頭の一部に薄い膜が張っているような、ぼんやりとした状態に陥ることがあります。でも、精神的な動揺はもうありません。アルツハイマー病である自分を受け入れることで、落ち着きを取り戻せました。

今はとにかく、一日を快適にすごせるように、マイペースを心がけています。日課の愛犬の散歩もいい運動になっていて、心身ともに晴れやかな状態を保っています。

愛犬のレオ君と散歩することが日課という梶原しげるさん

読者の皆さんの中にも、アルツハイマー病という現実に直面し、悩んでいる方がいるかもしれません。この病気が厄介なのは、状態が数字で示されるものではないため、自分ではどの程度進行しているのかがまったく分からないところです。それが不安になったり、落ち込んだりする原因なのですが、こればかりはくよくよしてもしかたがありません。

ネガティブな感情を上手に受け流しながら、日々の楽しいことに目を向けて心のバランスを取り、アルツハイマー病と共存していくのがいちばんです。少なくとも私は、そういう心境になってから毎日がらくになりました。ぜひ参考にしていただきたいですね。