プレゼント

「ストレスフリーな状態を保つ」ことこれに尽きますよ

私の元気の秘訣

漫画家 弘兼 憲史さん

幼少期はチラシの裏に絵を毎日描いて過ごしていました

[ひろかね・けんし]——1947年、山口県生まれ。早稲田大学法学部卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)に入社。1974年に漫画家デビュー。主な作品は『人間交差点』『ハロー張りネズミ』『課長 島耕作』『黄昏流星群』『加治隆介の議』など多数。第30回小学館漫画賞青年一般部門、第15回講談社漫画賞一般部門、第4回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞、第32回日本漫画家協会賞大賞を受賞。2007年、紫綬褒章を受章。『島耕作』シリーズは週刊漫画誌『モーニング』にて『社外取締役 島耕作』として絶賛連載中。

物心ついた頃から絵を描くのが大好きな子どもでした。

私は山口県岩国(いわくに)市の生まれで、実家の近くに映画の看板屋さんがありました。当時、映画館の軒先の大看板は、職人さんが手描きするのが普通だったんです。まず、小さな用紙にマス目を切って下描きをして、それを一マスごとに等倍で大きく描き、組み合わせて屋根いっぱいの大きな絵を仕上げる。その様子が子ども心にとても興味深くて、暇さえあれば横で眺めていたものです。

ちょうどその頃、手塚治虫(てづかおさむ)さんの作品と出合ったことも私にとって大きかったですね。『ぼくのそんごくう』から始まり、『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』など、その後、数十年にわたってずっと手塚作品を追っかけつづけることになりました。

そんな子どもでしたから、いつもチラシの裏に絵を描いていて、チラシがなくなったらトイレのチリ紙に描くほど没頭していました。中学生になっても高校生になっても変わらず絵を描きつづけていたので、大学は美術大学へ進みたい気持ちもありました。けれど両親から、「画家になっても食べていくのは大変だぞ」と反対され、上京して早稲田(わせだ)大学に進むことになりました。

大学では漫画研究会に籍を置いていましたが、当時はきちんとコマ割りをした漫画を一度も描いたことはありませんでした。では〝漫研〟でどんな活動をしていたのかというと、新聞に掲載されているような時事的な一コマ漫画を描いたり、学園祭で似顔絵を描いたりするのが主でした。

特に似顔絵は、1日に100人、200人とこなすこともあり、なかなかの重労働でした。女性の場合など、あまりご本人の特徴を強調したり、デフォルメしたりして描くわけにはいきません。何かと気を遣わなければならならないので、けっこう大変なんです。

でも、今にして思えば、顔のパーツのバリエーションをたくさん覚えることができたので、これはいい経験でした。後に描くことになる『黄昏(たそがれ)(りゅう)星群(せいぐん)』は、主人公が毎回代わる作品なので、キャラクターを描き分けるのに役に立ったと実感しています。

大学生時代には、漫画家になろうとはまったく思っていませんでした。というのも、漫画雑誌の編集部でアルバイトをしていたおかげで、それがどれほど過酷な仕事なのか、思い知らされていたからです。

私の役割は、漫画家の先生のところに原稿を取りに行くことでした。「午後2時に取りに来てほしい」といわれて仕事場に伺うものの、3時になっても4時になっても原稿が上がらないのはいつものこと。そのうち日が暮れて、うたた寝をしながら待ちつづけていると、深夜になってようやく、青い顔をしたフラフラの状態の先生が原稿を持って仕事部屋から出てくるのが常でした。これはとても自分に務まる仕事ではないなと、嫌でも痛感しますよね。

結局、普通に就職活動をして、卒業後は松下電器産(まつしたでんきさん)(ぎょう)(現・パナソニック)に入社することができました。おまけに配属は、花形と目されていた広告宣伝部です。これには親もすごく喜んでくれましたし、仕事も非常にやりがいがありました。

ところが、一緒に仕事をするデザイナーさんには、漫画家を目指しているという人が意外と少なくなかったんです。

学園祭で1日200人の似顔絵を描いた経験が今に生きているという弘兼さん
写真提供:広島大学教育室教育部教育推進グループ

ある日、仕事仲間どうしでへべれけになるまで飲んだくれた後、一緒に飲んでいたデザイナーさんの家にやっかいになったところ、夜中にふと目を覚ますと、隣の部屋でせっせと漫画を描いている姿が目に入りました。これはショックでしたね。自分と同じようにしこたま酒を飲んでいるのに、こうして人知れず努力している彼と比べて、自分は一体何をやっているのか、と。

自分もほんとうは漫画を描きたいはずなのに、キツそうだからという理由で諦めてしまっていいのだろうか。そう考えはじめたことが転機となって、私はほどなく退職する決意を固めます。入社から3年ほどたった頃でした。

ただし、食いぶちは確保しなければなりませんから、退職後はフリーランスの立場で広告制作の仕事を請け負うことにしました。会社員時代に人脈を築けていたおかげで、独り立ちしてすぐに依頼が殺到し、収入はむしろ3倍に増えました。おそらく、当時の松下でいう部長クラスの収入があったのではないでしょうか。

そうやって広告の仕事をこなしながら、合間に漫画を一本描き上げ、出版社の新人賞に応募してみました。すると、これが入選し、賞金をもらうことができたんです。

これに気をよくした私は、その後も広告仕事のかたわら応募を続け、3度の入選を果たしたころ、突然編集者から「プロになりたいのであれば、一度編集部にいらしてください」と電話がかかってきました。

正直、なまじ食べるのに困っていなかったこともあり、プロの漫画家になる覚悟が完全に固まっていたわけではなかったのですが、こうして声をかけてもらえたのもなにかのご縁でしょう。結果的にこれがデビューのきっかけになりました。

つまり私は、食うのに困るような下積み時代を経験していないんです。これは非常にラッキーだったと思いますね。

自身の半生を投影した『島耕作』シリーズがライフワークなんです

ご存じの方もいるかもしれませんが、『課長 島耕作(しまこうさく)』シリーズの主人公である島耕作という人物は、私自身のプロフィールを色濃く反映したキャラクターです。私も島耕作も同じ山口県岩国市の出身で、早稲田大学卒業後に松下電器産業に入社(※作品内では初芝(はつしば)電器産業)。年齢も同じで、今年で75歳を迎えます。

違いといえば、私が3年で松下を去って漫画家になったのに対し、島耕作は会社に残っていろんなポストを経験しながら出世していく点です。肩書も、連載がスタートした当初は課長でしたが、これが好評だったことから、その後、部長、取締役、常務……と肩書とタイトルを変えていきました。

その一方で、学生時代など課長以前の彼の人生も並行して描くことになり、特に島耕作の大学生活である『学生 島耕作』は、私の当時の体験をそのまま描いています。一部の学生が学生運動に躍起になっているかたわら、アルバイトに精を出し、適度に遊びながらも必死に単位を取ったものです。

執筆量を維持できるのは仕事が楽しくてしかたがないからです

そんな私の人生を投影した島耕作も、ついに先日、相談役の座を退き、複数の会社の社外取締役になりました(『社外取締役 島耕作』)。つまり、彼も現実と同じペースで年を取っているわけです。

しかし、加齢や老いをどう表現するか? 曲がりなりにも人気キャラクターですから、しばしば頭を悩ませています。

少しずつ髪の毛に白髪を増やし、目尻(めじり)や口もとにシワを描いて年齢相応の雰囲気を出すような工夫はしていますが、だからといって背すじの曲がったおじいちゃんにしてしまうと、主人公としていまひとつ格好がつきません。このあたりはバランスを取りながら、できるだけリアリティーを表現していければと思っています。

現在の執筆ペースは、月に76㌻ほど。最盛期は毎月170㌻以上も描いていましたから、だいぶ落ち着きました。それでも、この年齢にしてはよく描いているほうだと思います。

執筆量を維持できている最大の理由は、とにかく仕事が楽しくてしかたがないこと。つまり、働くのがまったくストレスにならないんですよ。

特別に健康のために心がけていることもなく、お酒もよく飲みます。それでも私がこれまで大病と無縁のままやってこられたのは、たいていのことは「まあ、いいか」ですませてしまえる、楽観的な性格の賜物(たまもの)といえるでしょう。

「尿路結石の激痛はいまでも忘れません」

それでも70代になってからは、否が応でも健康の大切さを思い知らされることが増えました。

一昨年には、生まれて初めて救急車で搬送される経験もしています。尿路結石でした。

仕事場で一人、作業を始める準備をしていたところ、それまで感じたことのない痛みが、背中のほうから少しずつ降りてきて、やがてあまりの激痛で床にうずくまってしまいました。

出勤してきた尿路結石の経験のあるアシスタントがその様子を見て察し、すぐに救急車を呼んでくれましたが、搬送中も診察中も痛みは続いて何度か嘔吐(おうと)してしまったほどです。経験した人にはよく分かると思いますが、あれは二度と体験したくない痛みですね。

どうにか痛みが引いた後も、4㍉ほどの結石がまだ体内に残り、担当の先生によると「そのうち尿といっしょに出ますから」とのこと。それを聞いて、いずれ漫画の中でも使えるかもしれないと思いつき、結石とはどんなものなのか、出てきたら採取してやろうと、しばらくは外出するときも菜箸を持ち歩いていたんです。でも結局、気づかないうちに出てしまったようで、見つけることはできませんでしたけどね。

また、2021年7月には初めて入院を経験しました。新型コロナウイルス(以下、コロナと略す)に感染したためです。

いつものように仕事をしていたら急に熱っぽくなってきて、手持ちのキットで検査してみたところ、陽性反応が出たんです。症状としてはさほど重くはなかったものの、一時は(きゅう)(かく)と味覚を失い、さらに髪の毛が大量に抜けて不安になりました。

何より、このときは時間差でアシスタントたちも全員コロナにかかってしまい、あらためてその感染力の強さに驚かされました。実はそれより先に私は、島耕作がコロナに感染してホテル療養をするシーンを描いていたのですが、まさか自分が後追いすることになるとは夢にも思いませんでしたね。

幸い、それ以降は特に大きな病気にかかることもなく、健康を維持しています。

「まあ、いいか」の精神で気楽に漫画を描きつづけたいです

弘兼さんのライフワークになっている『島耕作』シリーズ。

運動といっても、たまにゴルフをやるくらいですし、もともとショートスリーパー(短時間睡眠体質)なので睡眠も4時間程度。とても健康に気を遣った生活とはいえませんが、昔から海藻類やキノコ類が大好きで、みそ汁の具として毎日食べているのがプラスに働いているのかもしれません。

前向きに考えれば、寝酒として日常的にたしなんでいる日本酒やワインにもポリフェノールが含まれていますから、血液をサラサラにしてくれる効果があるはずです。こんな日常の小さな習慣の積み重ねが、意外とものをいっているのかもしれません。

そんな私も、後期高齢者と呼ばれる年齢が迫ってきています。今後も健康を保ちながら、できる限り漫画を描きつづけていきたいと思っていますが、描きたくても描けなくなる日が来るのも必然だと覚悟はしています。実際、体調こそ大きな問題はなくても、最近は目の疲労に悩まされることが増えてきました。長時間、仕事に没頭していると、徐々に焦点が合わなくなってくるんです。

『島耕作』シリーズをラベル化したワインは好評発売中。週刊漫画誌『モーニング』で最新作『社外取締役 島耕作』が絶賛連載中

これは若い頃にはなかったことですから、いつかこの仕事にも終わりが来ることを意識せざるをえません。長く続けてきた『島耕作』シリーズにしても、どのようなゴールを迎えるのか私にも分かりませんが、一ついえるのは、私が漫画を描けなくなったときには、そこで完結せざるをえないということです。

ただ、私としては〝気にしすぎ〟こそが健康の大敵と考えていますから、そのときが来るまでもうしばらくは、「まあ、いいか」の精神で仕事を楽しみたいと思っています。

ご高齢の方の中には、病気や体調不良に悩んでいる人も多いと思いますが、ストレスこそが万病の元ですから、あまり考えすぎないことも大切です。

もちろん、そのためには必要な健康診断や治療を欠かさないことが重要です。医師の指導に従いながら、やるべきことさえちゃんとやっていれば、あとは気持ちをらくに、安心して目の前のことを楽しんでいられればそれでいいのではないでしょうか。

元気と健康の秘訣(ひけつ)は、「ストレスフリーな状態を保つ」こと。これに尽きますよ。