プレゼント

生かされた理由があると信じてこれからは世のため人のために生きたい

有名人が告白

野球解説者 デーブ大久保さん

意識がもうろうとしたときは死んだ後のことを考えていました

[でーぶ・おおくぼ]——本名・大久保博元。1984年、水戸商業高校からドラフト1位で西武ライオンズに入団。1992年、トレードにより入団した読売ジャイアンツで15本塁打。1995年に引退し、野球解説者、タレントとして活躍。2008年に西武ライオンズ一軍打撃コーチに就任し、日本一に貢献。2012年から東北楽天ゴールデンイーグルス一軍打撃コーチ、二軍監督を歴任。2015年に一軍監督に就任。現在は野球解説者のかたわら居酒屋「肉蔵でーぶ」や、小中学生向けの野球塾「デーブ・ベースボールアカデミー」を経営。

私が心筋梗塞(しんきんこうそく)の発作を起こして倒れたのは、忘れもしない2021年8月29日未明のことです。私は飲食店を経営しており、店の近くにあるマンションで単身生活しています。その日の夜に眠りに就いてまもなく、みぞおちの辺りに何かがひっかかったような強烈な不快感を覚えて目覚めました。何だろうと起き上がったとたん、とんでもない吐き気が襲ってきたんです。

「これは吐いてしまったほうがらくになる」と考え、はうようにしてトイレに行きました。ところが、のどに指を突っ込んでみても、何も吐き出せません。そのうちどんどん胸が苦しくなって息もうまくできなくなり、「いっそのこと殺してくれ」と叫びたいような激痛に襲われつづけました。

トイレで苦しさと闘っている中、ドカーンと大きな音が響きました。何の音なのか分からなかったのですが、気がつくと私は廊下にひっくり返っていたんです。つまり、自分が大きな音を立てて廊下に倒れたことも分からないほど、意識がもうろうとしていたのでしょう。

半ば意識を失った状態だったわけですが、私の頭の中は意外と冷静でした。「俺の享年は何年になるんだろう」「茨城にあるお墓に俺の木札を立てるスペースはあるだろうか」「骨は実家に送ってほしいんだけどな」などと自分の死んだ後に思いを巡らせました。その考えも少しずつおぼろげになっていき、「人間はこうやって死ぬのか」と、どこか他人(ひと)(ごと)のように考えていました。

2時間ほど、意識を取り戻したり失ったりしていたでしょうか。何とか携帯電話をたぐり寄せ、近所に住む後輩に助けを求めました。後輩が駆けつけてくれたときには、胸の痛みは治まって少し動けるようになっていました。自分が倒れていた場所を振り返ると、私の汗でできた大きな水たまりがありました。

インターネットで情報を集めた後輩は「大久保さんの症状は、パニック障害だと思います。書いてある症状が全部当てはまります。命の危険はないですよ」といいます。その言葉に私もすっかり安心してしまい、なんとそれから数時間後、朝になったら約束していたゴルフに出かけてしまったのです。

正直、体調は最悪でしたが、まえまえからの約束で、どうしても外せません。ゴルフ場までなんとか自分で車を運転して行きましたが、少し歩いただけでも息が苦しくなって足が前に進みません。「悪いけど体調がよくないから途中で上がらしてもらうわ」と断って、早めに切り上げました。

ゴルフの後も体調は本調子に戻らなかったので、弟に電話してみました。弟は二度も心筋梗塞の発作を起こし、手術も受けています。父も心筋梗塞で亡くしているので、もしかしたら自分も危ないかもという思いがありました。弟に当時の様子を伝えると、話を聞くなり、「それはパニック障害じゃない。すぐ病院で()てもらったほうがいい」と忠告してくれました。

弟の忠告を受けても、当日にゴルフをしたぐらいだった私にはそれほど深刻だとは思えませんでした。とりあえず、知り合いの医師に電話してクリニックを紹介してもらい、翌日の予約を入れただけでした。翌朝、私は約束のゴルフに出かけ、クリニックに行ったのはゴルフを終えてから。つまり、最初に倒れた後、私はなんと二日連続でゴルフに行っていたんです。

死んでもおかしくない数値と聞いて深刻さにようやく気づきました

「人間はこうやって死ぬんだ」とどこか他人事のように感じていました

クリニックではまず心電図を取りました。するとデータを見ている看護師の様子が変です。心電図の紙を機械からひったくるようにむしり取ると、バタバタと走り出ていきます。間を置かず、今度は先生が駆け込んできて、「救急車を呼びますから、すぐ大学病院に行きましょう」というではありませんか。

先ほどまでゴルフをやっていた人間からすると、まさに寝耳に水です。「いや、俺、元気ですから。一度家に帰らせてくださいよ」といろいろ抵抗しましたが、あれよあれよという間に救急車で大学病院に担ぎ込まれました。

最初は急患担当の医師2人が対応していたのですが、私の検査データが出ると、わらわらと医師が集まってきて、一気に10人くらいに膨れ上がりました。

ストレッチャーに寝かされている私の頭ごしに専門用語が飛び交います。ときどき「緊急オペ」などの単語が聞こえてきて、緊張が伝わってきた私は急にトイレに行きたくなり、そばにいた人当たりのよさそうな医師に「トイレに行っていいですか」と聞いてみました。ところが、返ってきたのは「とんでもない!」というひと言。「あなたのデータはもう死んでいてもおかしくないくらいの悪い数値なんですよ」というのです。ここにきて、私はようやく事態の深刻さを飲み込めてきました。

私に治療方針が伝えられるとともに、ようやく心筋梗塞の可能性が高いという具体的な話が出てきました。その日は大学病院の集中治療室で様子を見て、翌朝に検査を兼ねた手術をすることになりました。ところが、朝の検温で熱が39℃もあったんです。新型コロナウイルス感染症がまだ猛威を振るっている頃でしたから、感染を疑われてPCR検査を受けることになりました。

もし検査結果が陽性なら、手術は延期になります。検査結果が出るまでの2時間くらいは生きた心地がしませんでした。幸い、結果は陰性。すぐに手術が開始されました。

手術はカテーテル治療でした。動脈から細い「カテーテル」と呼ばれる管を入れる方法で、狭くなった心臓の冠動(かんどう)(みゃく)を広げる手術だと聞いています。

途中まで意識がしっかりしていたので、腕の中をカテーテルが進んでいくチクチクする感覚が分かりました。そのうち意識がもうろうとしてきて、気がついたら、もう手術は終わっていました。

心筋梗塞は、冠動脈が詰まったり、動脈硬化を起こしたりして血流が悪くなって起こると聞いています。ところが、私の場合は血管のどこを調べてもきれいな状態だったとのこと。おそらく、原因はストレスだろうということになりました。

当時、確かに私は大きなストレスを抱えていました。夜眠れなくなり、心療内科で薬を処方してもらっていたほどです。たかがストレスと、あなどってはいけないと思いました。

退院して4ヵ月。いまだに体調にはばらつきがあります

心筋梗塞の経験が人生をとらえ直すきっかけになったと大久保さんは話す

ともあれ、手術は無事終了。私の心筋梗塞は食べ物ではなくストレスが原因だったので、厳密な食事制限をする必要はありませんでした。それは幸いだったのですが、生活行動が大きく制限されることになりました。心臓に負担をかけないよう、運動は禁止。大好きなゴルフもできません。緊張してストレスがかかる車の運転も厳禁。さらに、気圧が変化する飛行機や新幹線での移動も禁じられてしまいました。

私は、今回の事態になる前は1日40~50本はタバコを吸うヘビースモーカーでした。ところが、手術後はウソのようにタバコが吸いたいとは思わなくなったんです。

タバコを吸うと、またあの死ぬほど苦しい発作が起こるんじゃないかという恐怖が体にブレーキをかけているのではないでしょうか。おもしろいもので、タバコを吸わなくなってみると、それがすっかり習慣として定着しています

退院して約4ヵ月がたちました。いまでも体調にはばらつきがあり、日によっては息が苦しくなってゼイゼイすることもあります。孫を連れて近くまでお菓子を買いに行くのですが、途中で胸が苦しくなることもしょっちゅうです。でも、くよくよしていても始まりません。

最近、息子にすすめられ、生き方や考え方など自己啓発系の本や心理学の本を読むようになりました。そのおかげか、心筋梗塞の原因となったストレスと距離を置けるようになりました。また、毎朝「今日はいい一日になる」と口に出し、強く思い込むことも始めました。こうすることで、前向きに一日をスタートすることができるんです。

心筋梗塞が起こるまでは自分中心で生きてきましたが、これからは人のために生きたいと願っています。そうすることで人も自分も幸せになれる。心筋梗塞の経験が、人生をとらえ直すきっかけになりました。

後で分かったのですが、父が心臓病で亡くなったのが54歳のとき。私が入院した年齢も54歳です。父と同じ年に心筋梗塞で倒れ、私は生還できました。単なる偶然とは思えません。「私が生き残ったのには意味がある。生かされた理由がある」と信じて、これからは世のため人のために生きたいと思います。