落語家 三遊亭 金馬さん
落語界最古参にして“最後の戦中派”といわれる四代目・三遊亭金馬さん。91歳を迎えたいまでも「死ぬまで落語家でいたい!」とますます意気軒昂ですが、過去にはいくつもの大病を経験しています。今秋には次の代に名跡を譲り、「金翁」襲名を控える金馬さんに、元気の秘訣を伺いました。
勉強は苦手だったけど不思議と落語だけはすぐ覚えられたんです
私がもの心ついた頃、我が家は東京の深川で大衆食堂を営んでいました。第二次世界大戦中に焼け出されてしまったものの、それなりに繁盛していて、毎日たくさんのお客さんが食事をしたりお酒を飲んだりしていたのを覚えています。
幼少期の私はといえば、勉強はからっきしで、とにかく落語ばかり聴いている子どもでした。初めて落語に触れたのは小学校1年生のときで、知人の家に預けられるたびに、そこにある落語のレコードを片っ端から聴いていたんです。特に、柳家金語楼さんの兵隊落語に夢中になっていたのを覚えています。
落語三昧の毎日で学校の成績は振るわなかったものの、どういうわけか私には、1、2度聴けばその演目をほとんど覚えてしまうという特技がありました。そして覚えた演目を食堂で披露すると、酔っ払ったお客さんたちが大喜びしてくれる。これが子ども心に楽しかったんですよね。
お客さんにしてみれば、小さな子どもが一席ぶつだけでもおもしろかったんでしょうけど、「坊主、才能あるよ」とか「将来は噺家になれよ」などといわれるうちに、すっかりその気になってしまったわけです。
小学校の卒業式が近づく頃には、親も「この子には勉強より自分の好きなことをやらせたほうがいい」と半ば諦めるようになっていました。そこで中学校には行かず、落語の世界を目指す決心をしたんです。
ところが、小学生の子どもを入門させてくれるところなど、なかなか見つかりません。そこで、たまたまご縁のあった東宝名人会の支配人の取り計らいで、見習いとして入れてもらうことになりました。これがこの世界とのご縁の始まりです。
東宝名人会には当時、落語で食えなくなった噺家さんが何人もいて、楽屋番のようなことをしていました。そこに私のような子どもがやってきたのが、さぞもの珍しかったのでしょうね。先輩方は雑用の合間に、さまざまな演目を聴かせてくれました。
すると、例によって私は15分ほどもある演目をすぐに覚えてしまいます。そしてその場で「えー、お笑いを一席」と演じてみせるものだから、皆さんおもしろがって先輩方は次々に新しい演目を教えてくれました。この時期に覚えた演目は、ざっと10は下らないと思います。
そうして東宝名人会で1年ほど過ごしたところで、支配人が「このままではいけない。どうせならいちばん厳しい師匠に任せたほうがいいだろう」と、私を先代の三遊亭金馬師匠に預ける段取りをつけてくれました。これが12歳のときのことです。
世の中ではすでに第二次世界大戦が始まっていましたが、私は三遊亭一門で軍隊の慰問活動を行っていたおかげで、徴兵されることはありませんでした。時代が時代なので、ほんとうは下ネタを交えたふしだらな演目は禁じられていたのですが、慰問ではむしろそういうネタのほうが喜ばれましたね。
一方で、寄席の真っ最中に空襲警報が鳴り出すこともしばしばでした。そのたびに照明をすべて消して、米軍機が上を飛んでいくのをやり過ごすんです。そして、よほど近くで爆撃がありそうなときは、慌てて頭巾をかぶって防空壕に避難する。決して恐ろしくなかったわけではないのですが、誰もがそんな日々に慣れていましたね。
しかしそれも、飛んでくる米軍機が1機や2機ですんでいたから。1945年3月10日の東京大空襲のときは、それはもう街中が大騒ぎでした。空を埋め尽くすほど大量のB29が飛んできて、腹の部分の爆弾槽からバラバラと焼夷弾を落とす様子はいまでも忘れられません。
このとき、私は錦糸町の母のもとに戻っていたのですが、すぐ近くに爆弾が一発落ちました。すると、あっという間に火の手が上がり、その直後に爆風で我が家の窓ガラスが割れたんです。これは危ないと先に母親を避難させ、私はどうにか火を消そうとがんばりましたが、火の手はいっこうに収まりません。
やむをえず、私も逃げ出して母を追うものの、右往左往するばかり。母の姿は人々に紛れてしまい、どうしても見つけられません。
しかたがないので、爆風を避けながらまだ燃えていない亀戸方面へ走りましたが、おそらくそっちに火の手が回るのも時間の問題だろうと足を止め、指先をなめて風向きを調べました。火の手というのは風上から襲いかかってくるものだからです。
すると、さっき焼け落ちた錦糸町方面が風上であると分かり、踵を返しました。途中、警防団から「そっちへ行くな! 死ぬぞ!」とどなられましたが、風下にいるほうがよほど危ないと考えて、無視して走りつづけました。それに、すでに焼け落ちて何もない場所のほうが、かえって安全だろうという読みもありました。
果たして、強風が吹き荒れる中、どうにか錦糸公園までたどりつくと、そこで母と無事に再開することができました。ホッと胸をなで下ろしましたが、いつまたB29が飛んでくるかと思うと恐ろしかったですし、この夜はとても眠ることができませんでしたね。何より強風ですごく寒かったのを覚えています。
ラジオが普及して落語ブームが到来しがむしゃらに働きました
戦争が終わった直後の1945年の8月18日に、私は二つ目に昇進しました。この戦前・戦後というのは、落語を取り巻く環境が大きく変わる節目だったと思います。戦前はまだまだ落語や漫才といった芸事の地位が低く、本来なら「芸人になりたい」なんていおうものなら、勘当されかねない時代でした。
ところが戦後、ラジオが急速に普及したおかげで、一気に落語が知られるようになります。映像がなくても楽しめる落語は、当時の人々にとってかっこうの娯楽になりえたわけです。
さらに続いてテレビが登場しますが、黎明期ゆえに番組を作るノウハウがありません。ニュースを伝えるにしても、ラジオと同じようにただアナウンサーに読ませるだけでは意味がないですからね。そこで重宝されたのが私たち芸人でした。
特に、一人でぽんと出てきて、決められた時間内できっちりと演目をこなすことができる落語家は、当時のテレビ局にとって非常に都合のいい存在だったのでしょう。ほかにそういう器用な人材がいなかったものですから、芸人がどんどんテレビに起用されるようになりました。私が1955年に放送が開始されたNHKの『お笑い三人組』に出演するようになったのも、そんな流れを受けてのことです。
3年後の1958年に、私は真打ちに昇進します。生活はいっそう多忙を極めましたが、とにかくテレビの世界は人材難で、がむしゃらに働くしかありません。
この時期は丈夫な体に生んでもらったのをいいことに、健康に対する気遣いなんて、まったくしていませんでした。私に限らず、ほかの芸人も皆、似たような状況だったと思います。戦時中ろくなものを食べられなかった私たちの世代にしてみれば、どんなに忙しくても普通に3食与えられるだけでぜいたくだったんですよ。
ただ、私は扁桃腺が少し弱くて、たまにカゼを引くことがありました。でも当時はいい薬がないので、少しでも不調を感じたら、もっぱら漢方薬やお灸に頼るのが常でした。
幸い、体質に合っていたのか、お灸はよく効きました。とりわけミソの成分を練り込んだミソ温灸の効果は絶大で、毎回、「熱い! 熱い!」ともだえながらも、我慢して施術を受けた翌日は、どんなに前日に熱があってもけろりとしていましたね。まだ体が若くて元気だったのでしょう。
心筋梗塞や心不全、脳梗塞を患いましたが後遺症はありません
そんな私ですが、1990年代に入って還暦を過ぎると、大きな病気をいくつも経験することになります。ざっと数え上げみても、胆のう炎に心筋梗塞、心不全、脳梗塞……と、よくいまもこうして生きていられるものだと自分でも感心してしまいます。振り返ってみれば、お灸に頼りすぎていたことが裏目に出て、医師の助言にあまり耳を貸さなかったのがよくなかったのかもしれません。
例えば、1991年に胆のう炎を患った際も、医師から「手術して胆のうを取りましょう」といわれたのですが、私は腹を切られるのがどうしても嫌で断固拒否。医師はしかたなく「悪化したらすぐに手術をしますからね」と折れてくれましたが、ほどなく胆のうが破裂し、腹膜炎やら敗血症やらまで発症する大惨事になってしまいました。このときはあまりの痛みで気を失ったほどで、さすがにそれからは医師のいうことを素直に聞くようになりましたね。
しかし、すでに体はあちこちガタが来ていたようで、胆のうの次は心臓をやられてしまいました。私は1998年と2012年の2度、心筋梗塞を患っているのですが、特に2度目のときは心肺停止の状態に陥るほど深刻な状態でした。
街中で突然苦しくなって倒れたところに、たまたま空っぽの救急車が通りかかって助けられましたが、これは奇跡的ですよね。家族は医師から「おそらく助かりません」といわれていたそうですし、実際、処置が少しでも遅かったらこうして生還することはなかったでしょう。我ながらほんとうに悪運が強いとしかいいようがありません。
金馬を譲って金翁を襲名し死ぬまで落語家でいられれば本望ですね
そんな経験をしていましたから、つい一昨年に心不全と脳梗塞を患ったときは「さすがに今度こそダメか」と観念したものです。もし命が助かったとしても後遺症が残るだろうし、余生はこのままベッドの上で過ごすことになるのかな、とまで考えていました。
ところが治療を終えた後、自分では特に異常を感じませんし、普通に会話ができる。そこで試しに「ガマの油」という演目を口にしてみたら、すらすらと最後までいえるんですよ。
ただ、ベッドで安静にしていたせいか足腰の筋力が落ちたのですが、3ヵ月ほどリハビリを行ったら歩けるまでに回復しました。だったら高座に上がれるじゃないかと、またまた元気を取り戻してしまうんですね。
要するに私にとっては、生きるか死ぬかが問題なのではなく、落語がやれるかやれないか、それに尽きるわけです。
これだけの大病を重ねても、いまだにこうして現役でいられる秘訣は、おそらくよく寝ることとストレスを持たないことでしょう。私は昔から寝るのが大好きで、いまも家族が起こしに来なければ、昼まで眠っていることも珍しくありません。
また、新しい演目を覚える際にはそれなりにストレスがかかるものの、いざ高座に上がって一席終えると、とてつもない解放感と達成感を味わうことができます。つまり、ストレスなんて吹き飛んでしまうんですね。
しかし、これだけいろんな病気を経験してきた私でも、昨今猛威を振るっている新型コロナウイルスには困ってしまいます。なにしろウイルスの特性がよく分からず、予防の手だてがないというのは、やっぱり恐ろしいものですよ。特に飛沫で感染するといわれたら、高座に上がってしゃべることを生業としている身としては複雑な思いがあります。
それでも、落語がやりたいという思いに変わりはなく、今夏には初めて、オンライン落語というものに挑戦しました。91歳の落語家がインターネットを通して一席ぶつとあって、それなりに話題になったようですが、ラジオで研鑽を積み、テレビで世に出た私が、今度はインターネットで世界へ向けて落語をやるんですから、これはおもしろいことですよ。こういう新しいことへのチャレンジ精神はいつまでも忘れたくないですね。
2020年9月には、金馬の名跡を倅の金時に譲ります。伝統ある金馬の名を、私の代で終わらせるわけにはいきませんからね。その後は「金翁」の名を襲名します。
落語家人生が80年に迫ろうとしているいま、特に新しい目標というのはありません。強いていうなら、生涯現役を貫くこと。口が達者なうちは、求めてくれる人がいる限り高座に上がってしゃべりたい。死ぬまで落語がやれれば本望ですね。