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「まだやっていないことは何だろう?」と考えて挑戦するのが楽しいんです

私の元気の秘訣

俳優 風間 杜夫さん

風間杜夫さんといえば、映画『蒲田行進曲』で演じた銀四郎役、あるいはテレビドラマであれば『スチュワーデス物語』の村沢教官役など、人により思い入れのある役柄はさまざまではないでしょうか。
今回は、映画やテレビドラマ、舞台の世界で長年にわたって活躍してきた日本屈指の名優に、日々の元気と活力の()(けつ)をお聞きしました!

8歳で演技の世界へ!小学校時代から多忙な生活が始まりました

[かざま・もりお]——1949年、東京都出身。1959年、子役としてデビュー。早稲田大学演劇科を経て、1977年からつかこうへい事務所作品に多数出演。1982年、『蒲田行進曲』で人気を博し、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞など多数の賞を受賞。1983年、『スチュワーデス物語』(TBS系列)の教官役で一世を風靡。以降、その演技力が高い評価を得て、幅広いジャンルで活躍。舞台やテレビ、映画、吹き替えに加え、1997年から落語にも取り組み、毎年数多くの高座に上がって独演会を開催。華のある実力派俳優として常に第一線を走りつづけている。

僕が生まれ育ったのは、東京都()()(がや)区の(さん)(げん)(ぢゃ)()に近いエリアで、いまでこそ街は多くの人でにぎわっていますが、もの心ついた頃はまだ野原が多く、典型的な日本の原風景が広がっていました。いまでいう地下鉄(でん)(えん)()()線もなく、当時は(たま)(でん)(とう)(きゅう)(たま)(がわ)線)という路面電車が走っていましたから、若い人にはちょっと想像がつかないかもしれませんね。

そんな環境の中、僕が母のすすめで芝居の世界に足を踏み入れることになったのは、小学校2年生のときのことでした。

幼い頃の僕は引っ込み思案な性格で、すぐに母の陰に隠れてしまう内気な子どもでした。ところが、学芸会の演劇で役を与えられると、舞台の上で別人のようにはつらつとした姿を見せていたそうで、「これは才能があるのでは⁉」と母は直感したそうです。

単なる親のひいきめだったのかもしれませんが、もともと子どもには何か習い事をさせようというのが我が家の方針だったようで、僕は「(とう)(どう)」という児童劇団に入ることになりました。もっとも、僕自身は新しい環境に飛び込むのが苦手なタイプでしたから、決して乗り気ではなかったのですが、当時どうしても欲しかったミニチュアの大工道具セットを買ってくれるというので、しぶしぶ承諾したのを覚えています。

それでも、いざ芝居を始めてみると、これが思いの外楽しい世界でした。

「東童」は大人も子どももいっしょになって1つの作品を創る劇団で、幼い僕が何かを演じるたびに、周りが「上手だね」といちいち褒めてくれるんです。そんな言葉に乗せられてがんばってしまうのだから、単純なものですよね。そうした褒め言葉に弱い性格は、実はいまも変わっていません。

「東童」で1年ほど過ごした頃、(とう)(えい)が映画やドラマで通用する子役を育成しようと、児童演劇研修所を設立するという情報を母が仕入れてきました。この頃にはすっかりその気になっていた母のすすめで試験を受けてみたところ、晴れて合格。僕は劇団を出て、東映児童演劇研修所の一期生になりました。

この当時、東映は劇映画だけでなく、学校の視聴覚教育に用いる教育映画の制作を手がけていました。同じ東映の所属というご縁から、僕はそうした教材用の映像にいくつか出演しています。そのため僕が出演している映像を、クラスメートたちが授業で見ることになるのですが、皆、感想文に「(すみ)()くん(本名)の泣く演技がとてもよかった」などと本筋とは関係ないことばかりを書くので、担任の先生は困り果てていましたね。

また、『名犬物語 (だん)(がい)の少年』という映画作品で主役を務めたのもこの頃でした。その名のとおり、イヌと少年の愛の物語で、いわばこれが僕の初主演作ということになります。

その後も時代劇の撮影が続くなど、ほとんど学校に行けない日々が続きましたが、撮影現場が遊び場のような感覚だったので、不思議とストレスを感じることはありませんでした。この世界が性に合っていたということなのでしょう。

ちなみに勉強は撮影の合間に母に教わっていました。算数は苦手でしたが、国語は大得意。これは幼少期から台本を読み込んでいたおかげで、本来なら授業ではまだ習わない難しい漢字も、早々と読めるようになっていました。

これまで演じてきたすべての役柄はどれも自分にあるものでした

役作りは自分との共通項を見つけることで、自然とその人物になりきれる(『セールスマンの死(2018年)』撮影:細野晋司)

そんなちょっと特殊な小学校時代を終えて中学校に上がると、将来を見据え、いったん演技の世界を離れることになります。しかし、大学在学中には仲間とともに演劇活動を再開し、22歳のときには、後のシティボーイズである(さい)()しげるさんやきたろうさん、(おお)(たけ)まことさんらといっしょに劇団も立ち上げました。

そのまま俳優の道に進むことになったのは、僕としては極めて自然な選択肢だったといえます。

僕のこれまでの俳優人生の中には、いくつかの転機がありました。最初の大きな転機は、26歳のとき、つかこうへいさんと出会ったことでしょう。彼のもとで芝居をやるようになり、これが後に『(かま)()(こう)(しん)(きょく)』への出演につながっています。

『蒲田行進曲』はそれまでも舞台で何度も演じていた作品でしたが、映画が大ヒットしたことで、僕の知名度も一気に上がります。どこへ行っても「(ぎん)ちゃん」と声をかけられるようになり、かつて経験したことのない反響の大きさにびっくりしたものです。

さらに、『スチュワーデス物語』で教官役を演じたことで、自分でいうのもなんですが、人気にいっそう拍車がかかります。このときはまさに遅れてきたアイドルといった様相で、街を歩くのにもひと苦労でした。こうしていくつもの作品を重ねながら、僕は俳優としての足場を固めていったのです。

この仕事のおもしろいところは、本来の人生ではありえない、さまざまな役柄を演じられる点にあります。例えば二時間ドラマの犯人役をよく演じていた頃は、女性をだましたり、あるいは人を殺して埋めてしまったり、リアルの自分ではやらないようなことを経験できるのが意外と楽しかったですね。

また、(かざ)()(もり)()という名が世間に知られるようになってからは、演技以外のオファーもたくさん舞い込むようになりました。レコードもいくつか出し、全国ツアーまでやりました。多忙でしたけど、充実したいい日々でしたね。

もちろん、何もかもが(じゅん)(ぷう)(まん)(ぱん)だったわけではなく、それなりに悩みもありました。でも、僕は昔から楽天的で、壁に行き当たったりストレスを感じたりしても、あまり深く考えない性分なんです。

くよくよ考えたところでどうにもならないのであれば、明るく生きたほうがいい。そう割り切って考えられるのは、いまにして思えば何よりの健康法だったかもしれません。

「下手なおせじは嫌いでも、褒め言葉にめっぽう弱いんです」

幸い、幼い頃から場数を踏んできた(たま)(もの)か、演技に悩むようなこともほとんどありませんでした。僕の場合、役作りというのはその人物のイメージを自分の中で深掘りしていくプロセスで、自分との共通項を見つけることから始まります。

「ああ、自分にもそういうところがあるよな」

「この感覚はよく理解できるぞ」

どんな役柄であっても、そう自然に受け入れられる部分が必ずあるもので、その共通項さえ見つけてしまえば、あとは自然にその人物になりきることができるんです。

その意味では、これまで自分とまったく異なる人物を演じたことは一度もありません。経験したすべての役が、自分の中の一部分を切り出して表現したもので、そうでなければ今日までこの仕事を続けることなどできなかったでしょう。

年明けから再演が決まっている舞台『セールスマンの死』で演じるウィリー・ローマンという男についても同様です。

ウィリーは戦後まもない1950年代前後のアメリカで、時代に捨てられ、自分を見失い、失意のままにさまよう哀しいセールスマン。未知のウイルスのまんえんで不安にさいなまれているいまの世相だからこそ、きっと共感を呼ぶ部分が多いのではないでしょうか。

コロナ()で日常のいろいろなところに制約が生まれ、生活様式や働き方が大きく変わろうとしているいま、誰にもこの先を見通すことはできません。ウィリー・ローマンは2年前にも演じている役ですが、今回はいっそう演じる意義を強く感じています。この作品が皆さんにどう受け止められるか、いまからとても楽しみです。

新たなやりたいことに挑戦できるのは心身が健康だからこそです

こうして振り返ってみると、小劇場から活動をスタートして以来、映画やドラマ、ミュージカルなど、ほんとうにいろんなことをやってきたものだと、我ながら感心してしまいます。

また、20年ほど前から僕は、落語家として高座に上がる機会を定期的にいただいています。これももともとはある作品で(はなし)()の役を演じたことがきっかけでした。役作りの一環で、(はやし)()( しょう)(じゃく)さんから手ほどきを受けたのですが、「なかなかお上手ですね」と褒められ、ついその気になってしまったんです。

昔から落語が好きだったこともあり、舞台を終えてからも、「どうせならネタを一本覚えて、噺家さんになりきって高座に上がってみたい」という欲が湧き、これがとんとん拍子に実現しました。(たて)(かわ)(だん)(しゅん)さんの独演会で初めて高座に上がったことをきっかけに、さまざまな師匠といっしょに出演しています。噺家さんのまねごとをしてみたいという当初の思惑からすれば、まさかこれほど長く続くことになるとは夢にも思っていませんでした。

こうしていろいろなことにチャレンジできるのも、すべて心身が元気であればこそ。年齢を重ねるうちに、同業の先輩の中には「もう舞台はキツい」「セリフが覚えられなくなったのでそろそろ引退する」とぼやく人が増えてきましたが、だからこそ元気を保つことは大切です。

先のことは分からないのでいまやれることに精いっぱい取り組みます

噺家の役を演じたことがきっかけで、落語家として高座に上がるようになる

ただ、ほんとうのことをいえば僕は、ほんの少し前まで無駄な運動はせず、効率を重視して行動したほうがいいと考えていたんです。

エレベーターやエスカレータを控えるなど(ごん)()(どう)(だん)で、無理に階段を使って転びでもしたら、ケガをして寝込んでいる間にかえって体が衰えてしまうかもしれません。だったら余計なリスクを冒さず、おとなしくエスカレータに乗ったほうが安心だと、大真面目に考えていました。

ところが、折しものコロナ禍で、そうした考えが一変しました。というのも、舞台や撮影の仕事がすべてストップしてしまったことで、体を動かすことの大切さを、あらためて痛感させられたからです。

これまでは(けい)()に本番にと、仕事をこなしているだけで毎日自然に体を動かすことができていましたが、目先のスケジュールが白紙になると、とたんに運動不足に陥ってしまいます。若い頃からストレッチやスクワットは続けていますが、それだけではとても足りず、油断するとどんどん体が衰えてしまいます。

そこで春先の自粛期間中は、散歩を日課にしていました。夕方から妻と2人で近所の公園まで出かけ、ぐるりと園内を周回すると、万歩計で8000歩ほどの距離になる。これが実にちょうどいい運動なんです。また、歩きながら周辺の景色を見ていると、さまざまな発見が得られて気分転換にもなります。

そして散歩を終えて帰宅した後は、そのまま食事をしながら晩酌をして、夜更けに床に就く。すると、リラックスできているからなのか、あるいは散歩による適度な疲労感のおかげなのか、翌朝の10時頃までぐっすり眠ることができました。

夏以降は以前のように多忙な日々が少しずつ戻ってきましたが、ブランクの間に体がなまることがなかったのは、こうした日課のおかげなのだと思います。

先行きの見えないコロナ禍で、世の中がこれからどうなっていくのか、先のことは誰にも分かりません。でも、考えてもしかたがないですからね。僕としては変わらず、いまやれることに精いっぱい取り組むのみです。

僕も早70代を迎えましたが、来年は5つの舞台に出演することが決まっていて、これは僕の俳優人生における最多記録になります。ますます、健康管理に気を配らなければなりません。

健康で元気な心身を保ってさえいれば、いくつになってもやりたいことに挑戦できるということを、いま身をもって実感しています。皆さんももコロナに負けず、がんばりましょう。