プレゼント

情熱を注げるものさえあれば、いくつになっても青春時代は続くんです

私の元気の秘訣

俳優 大和田 伸也さん

映画にテレビドラマに舞台にと大活躍! 圧倒的な存在感でファンを魅了しつづける俳優の大和田伸也さん。俳優としてのキャリアは半世紀を優に超え、74歳を迎えた今もその勢いはとどまるところを知りません。健康とバイタリティーの源泉は「いつまでも少年の心を忘れないこと」と語る大和田さんに、元気の秘訣(ひけつ)をお聞きしました。

映画監督になるために早稲田大学に入学し演劇活動を始めました

[おおわだ・しんや]——1947年、福井県敦賀市出身。早稲田大学在学中に演劇を始め、「劇団四季」を経て朝の連続テレビ小説『藍より青く』(NHK総合)で人気を得る。その後、『水戸黄門』(TBS系列)などのテレビや映画『犬神の悪霊』、舞台『細雪』『王女メディア』、ミュージカル『アニー』など数多く出演。舞台演出や映画監督、エッセイストとしても活躍中。

私が生まれた福井県敦賀(つるが)市は、歴史のある風光明媚(ふうこうめいび)な港町です。戦前までは日本の玄関口として、大陸との交易で栄えていました。私は、大好きな古里・敦賀の観光特任大使を永年務めさせていただいています。

敦賀で過ごした幼少時代は、いわばみんなの先頭に立つような存在でしたね。いつも児童会や生徒会の役員を自分から買って出るタイプ。一方で、放送部や新聞部で〝発信系〟の活動もしていました。自分でいうのもなんですが、周囲から信頼されていましたし、何でも主体的に取り組みたいという、意欲あふれる子どもだったんです。

たいして勉強しなくても、いつも県の模試では上位にいる成績優秀な子どもでもありました。でも、高校生活も半ばを過ぎて、周りも大学受験に向けて必死に勉強に取り組みだすと、私の成績はどんどん下がりはじめました。

このままではいけないと、勉強のことよりも、まずは自分の将来について真剣に考えました。「どんな仕事に就きたいのか?」「これからの人生、何がやりたいのか?」——考えた末にたどり着いたのは、映画監督になりたいという夢でした。

映画を見るのは大好きでしたし、文章を書くことにも強い関心がありました。この両方を満たしてくれる職業が、私にとっては映画監督だったのです。

時代はフランス映画やイタリア映画の全盛期。今でも名画として名高いフェデリコ・フェリーニ監督の『道』やアラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』など、少年時代からずいぶんたくさんの作品を見ていました。

では、「映画監督になるにはどうすればいいのか?」といろいろな人に相談してみると、演劇や文学など創作・表現活動は早稲田(わせだ)大学がいちばん盛んだと耳にして、猛勉強の末にどうにか早稲田大学の第一文学部に合格できました。

ところが、実は当時の日本の映画産業は十年来の斜陽化の一途でした。仮にこのまま4年間かけて卒業したとしても、どこの映画会社も経営は厳しく、新入社員が採用される見込みがないような状況だったのです。

「最初の夢は映画監督でした」

さあ、また問題です。いったいどうすれば、大学時代を無駄にせず、映画業界に入り込めるか? 思いついたのが「役者」です。「名うての俳優になれば、映画を撮らせてもらうチャンスが来るかもしれない」と考えたわけです。今になって冷静に思い返せば、なんとも甘い発想ですが。

当時の早稲田大学は演劇が非常に盛んで、多くの卒業生がプロの演劇人として活躍していましたから、早速、私も〝早稲田三大劇団〟の一つ『自由舞台』に所属して演技の経験を積みはじめます。

当時は暇さえあればコーヒー1杯で何時間も喫茶店で粘りながら、仲間たちと演劇論を重ねる日々。もちろん、そんな状態ですから、バーや居酒屋なんてめったに行けません。

当時の学生演劇は「金もうけに走るべきではない」というスタンスで、興行収入を当てにすることはしませんでした。でも、「毎日の食いぶちに事欠く状態では、演劇を続けるどころじゃないではないか?」「それでは本末転倒ではないか?」という考えが私の中には芽生えていました。

ちょうどその頃、日生(にっせい)劇場で浅利慶太(あさりけいた)さんが立ち上げた「劇団四季(げきだんしき)」が公演をスタートします。劇団四季に研究生として入れば、演技を学びながら給料がもらえると聞き、私はすぐに入団を決意したのでした。

劇団四季からの独立後は食うものも食えない苦しい時期が続きました

劇団四季での私の初舞台は、1968年の『ハムレット』でした。これを皮切りに、さまざまな舞台を経験することになり、1971年には大河ドラマ『(もみ)ノ木は残った』(NHK総合)にも端役で出演させてもらう機会も得ました。

入団当初の劇団四季は、まだストレートプレイ(伝統的な科白劇(かはくげき))から、少しずつミュージカル主体にシフトしていく過渡期でした。私としてもミュージカルは好きなジャンルですから、これは歓迎すべきことでした。

けれど、「サラリーマン的な立場」で芝居を続けていくことに、だんだん疑問を感じはじめます。役者というのは安定した給料をもらいながらやる仕事なのだろうか、と。

当時の私が考える役者像は、「道なき道を自ら切り開き、自分なりの創作と表現を追求するもの」でした。劇団四季にいれば生活は安定しますが、胸中の違和感は日増しに膨らんでいくばかりでした。

結局、入団から3年半ほどたったところで、役者として自分らしい道を模索するために退団して、自分の劇団(グループ1+1)を新たに立ち上げました。でも、これが大変な苦労の始まりであることは、当時は知る由もありません。

収入が突然ゼロになり、食うや食わずの状況が続きます。劇団員たちとアパートの一室に集まり、近所の八百屋(やおや)さんからいただいた残り物のキャベツをみんなで煮て、そこに即席ラーメンを入れて、どうにか腹を満たす日々。まさにギリギリの生活でした。

でも、このときのメンバーの中から、後に『ウルトラマン』シリーズに出演する女優さんが出たり、国際映画祭に選ばれる作品に出演する俳優さんが出たりするなど、実力のある人がそろっていたのも事実です。何よりこの時期というのは、貧乏で苦しかったものの、非常に充実した日々でした。

そんな中、私自身に大きな転機が訪れます。

『藍より青く』の出演で生活が一変したという大和田伸也さん

とにかく日銭を稼がなければならないと焦りながら、その日も腹をすかせた25歳の私は、NHKにいる早稲田時代の先輩を訪ねました。大道具係でも何でもいいので、アルバイトをさせてもらえないかとお願いしに行ったのです。

先輩は私を局内の食堂に連れていき、ラーメンをごちそうしてくれました。すると、そこにたまたま居合わせたTVドラマのプロデューサーが、「今ちょうど、次の朝ドラの演者を探しているんだよ。ヒロインの夫役で、今度その最終選考があるから、君も受けてみないか?」と誘ってくれたのです。

もちろん、断る理由はありません。散髪代すらままならずに伸び放題の長髪をばっさり切って、オーディションを受けたら、なんと合格。これが大人気となった朝の連続テレビ小説『(あい)より青く』(NHK総合)でした。

これで明らかに潮目が変わり、私の生活は一変します。

NHKの朝ドラの影響力は絶大で、私のもとに大量の出演オファーが殺到しはじめました。たくさんの放送局や映画会社が私のスケジュールを奪い合うような状態。おかげで移動の車中くらいしか睡眠時間を確保できないほどの多忙が続きましたが、食べたいものを、好きなだけ食べられるようになったことはうれしかったですね。

俳優としての方向性に悩んでいた私を救った高倉健さんの言葉

当初はスケジュールが許す限り、すべてのオファーを片っ端から受けていました。でも、やがて悩みが生じてきました。当時は青春物がブームだったので、いつも似たような好青年役ばかりを演じることに疑問を感じはじめたのです。

「役者として、自分はこれからどういうキャリアを積むべきか?」「いつも似たような設定では役者としての成長が見込めないのではないか?」——やっと売れはじめたばかりなのに生意気ですが、真面目にそう思い悩んでいたんです。

そんなとき、私に役者としての生き方を導いてくれるアドバイスをくださったのが、高倉健(たかくらけん)さんでした。

「君は今、いろいろな役柄を演じているけど、俳優として、枝葉よりも幹の部分を太く育てることを意識してごらん。太い幹さえ持っていれば、どんな枝葉でも支えられるようになるから」

この言葉は今も大切にしています。それまで青年役ばかり演じていた私が、大人の役者として成長できる大きなきっかけになった言葉でした。

格さん役を演じた国民的人気ドラマ『水戸黄門』も代表作の一つ

実際、この悩んだ時期を過ぎると、誠実な大人の男を演じる機会が増えてきました。『水戸黄門(みとこうもん)』(TBS系列)の(かく)さん役のオファーをいただいたのも、その頃です。

なにしろ視聴率が毎回40%を超える国民的人気ドラマですから、反響はすさまじかったですね。どこへ行っても「格さんだ!」といわれて、街中で「印籠(いんろう)を出すポーズをやってください」とねだられるのもしょっちゅうでした。

実は当時、撮影のために毎回京都まで行かなければならないのがおっくうで、「早くこの役を降りたいな」とも思っていたのですが……。振り返ってみれば、紛れもなく私の代表作の一つですね。

役者というのは、どうしても演じた役柄がついて回るのが宿命です。格さんを演じていた時は、「ええい、静まれ静まれ」というお決まりのフレーズが私の代名詞になりましたし、アニメ『ライオン・キング』でシンバの父・ムファサの吹き替えを務めた際には、「シンバ、思い出せ。おまえが誰かを」というフレーズが世の中に浸透しました。

最近でいえば、朝の連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』(NHK総合)のおじいちゃん役で発した「おいしゅうなれ」がすっかりおなじみになっています。

こうして時代ごとにはやりのフレーズで役者としての私を覚えていただけるのは、ほんとうにありがたいことです。先日もある舞台のカーテンコールで「おいしゅうなれ」とリップサービスしたら、お客さんたちは大喜びでした(笑)。

70歳を区切りに意識しはじめたのは自然体でいることです

気がつけば、半世紀以上この仕事を続けてきたわけですが、幸い、今のところは大病を患うことなく、毎日元気にやっています。強いて挙げれば昨秋、坐骨神経痛(ざこつしんけいつう)で手術を受けましたが、これも大事に至らず、ホッとしています。

「自然体でいることを意識するようになりました」

特に意識している健康法などはありません。愛犬の散歩が適度な運動になっていることと、バランスの取れた食生活が、私にとっての健康の秘訣なのでしょう。とりわけ食事については、最近結婚した次男の料理上手な奥さんが何かと世話を焼いてくれているので助かっています。

今日、この取材のために使わせてもらっているカフェは、次男夫婦が経営する店なんですが、店内にいろいろなオモチャがあちこちに飾ってありますよね。実はこれ、オモチャが大好きな私が子どもの時から集めてきたコレクションの一部を持ち込んでいるんです。それから『月光仮面(げっこうかめん)』や『鉄腕(てつわん)アトム』をはじめ、『クレヨンしんちゃん』『アンパンマン』といった漫画キャラクターグッズもそうです。中でも『月光仮面』と『鉄腕アトム』は「ウソをつかず、勇気をもって正しいことをする」という意味で、私の心のヒーローなんです。ここでは私はもちろん、(ろう)(にゃく)男女(なんにょ)、誰もが楽しいひとときを過ごせる空間作りを目指しているんです。

こういうモノに囲まれながら、いつまでも少年の心を忘れずにいることは、気力や体力を維持するうえで非常に大切ですね。「情熱を注げるものさえあれば、いくつになっても青春時代は続く」というのが私の持論です。

それから、70歳を超えた辺りから、ことさらに「自然体でいる」ことを意識するようになりました。若い頃のように肩ひじ張ってがんばる必要はないだろう、と。

これまでのキャリアを振り返ってみれば、演者としてさまざまな役柄をやらせてもらい、演出面でも舞台の制作に携わり、悲願だった映画の撮影も実現しました。やりたいことは一通りかなえたといっていいと思います。だからこれからは、いただいた仕事に自然体で向き合い、自分にやれることを真摯(しんし)にやり遂げたいと考えています。

おかげで最近は、テレビや舞台だけでなく、インターネット配信のドラマなど、新しいプラットフォームでの仕事も増えてきています。70代になってもまだまだ新鮮な気持ちで仕事に向き合えるのは、楽しいことですよ。

読者の皆さんにもぜひ、常に好奇心を忘れることなく、たとえささやかでも夢や願望を大切にしながら、毎日を気持ちよく過ごしていただきたいですね。