プレゼント

〝目標〟を持ちつづけることが大切で、まだまだ新しい役に挑戦していきます

私の元気の秘訣

俳優 村井 國夫さん

内気な性格を心配した母のすすめで高校時代に演劇部に入部しました

[むらい・くにお]——1944年生まれ。佐賀県出身。俳優座養成所第15期生。舞台『レ・ミゼラブル』のジャベール役や『マイ・フェア・レディ』のヒギンズ教授などで好評を博し、ストレートプレイからミュージカルまで幅広いジャンルに精通。第47回文化庁芸術祭賞、第32回菊田一夫演劇賞、第29回読売演劇大賞優秀男優賞、第54回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。テレビドラマや映画のほか、声優としても活躍。

第二次世界大戦が終わる前の年、僕は父親の仕事の関係で中国の天津(てんしん)で生まれました。生後すぐに現地で大空襲があり、母親は乳飲み子の僕を抱えながら、防空壕(ぼうくうごう)に逃げ込んだそうです。

戦争が終わると直ちに父親は職場で抑留されてしまいました。そんな状況でしたが、母親は少しでも早く中国を脱出すべく、1歳になるかならないかの僕を背負い、さらに4人の子どもを引き連れながら、近所の中国人の監視の目をすり抜けて窓から屋根伝いに自宅を脱出。まさに命からがらの帰国だったそうです。

最初は父親の実家のある愛媛県に戻ったのですが、生死も不明の父の実家では居づらかったのか、母は自分の実家がある佐賀県に移り、結婚前に経営していた美容院をあらためて開業しました。父親が帰国できたのはなんと10年後のことでした。僕にとって、もの心がつく時期にずっと父はいなかったわけですから、初めのうちはあまりなじめませんでしたね。

しばらくは父が生死不明の母子家庭でしたから、母は女手ひとつで僕たち5人の子どもを育ててくれました。それこそ朝から晩まで働きづめで、学校から帰ってきても、母は仕事で家にいません。夜、遅くまで働きつづけるような状況で、幼心には正直寂しかったですね。

ただ、朝起きると必ず末っ子の僕の布団(ふとん)の横でいっしょに寝てくれていました。それから、友だちの家へ遊びに行って夕方になると、あたりまえのように夕飯が出てきたものです。いまから考えてみると、近所の人たちも子だくさんの片親が必死に働く僕たち家族を温かく見守ってくれていたんでしょうね。地域全体で子どもを育てようという、人のつながりと優しさを感じる環境の中で育っていきました。

演劇の道に入ったきっかけは母親でした。10代前半の僕は人前でまともに話もできないような、いわゆる内気な性格。母親はそれを心配し、「演劇部にでも入ったらどうだ」とすすめてくれたのです。

高校の演劇部では、僕の人生を大きく左右する人物と出会います。後にこまつ座で主演を務めるなど、長きにわたって俳優として活躍された辻萬長(つじかずなが)さんです。1つ上の先輩でした。

演劇なんて何も知らない僕とは対照的に、高校演劇部時代から辻さんは発声から照明、台本の作り方をはじめ、舞台や演劇に関してとても詳しく、いろいろなことを熱く教えてくれました。そのおかげもあって、地元の芸術祭の舞台に立ってみたら、周囲からとても褒められました。「演劇っていいなぁ。もしかしたら、自分でも何とかできるかもしれない」——そんな気持ちがむくむくともたげてきました。

辻さんは高校卒業後に上京し、劇団俳優座(げきだんはいゆうざ)の俳優座演劇研究所付属俳優養成所に入りました。僕も辻さんの後を追いかける形で、俳優座養成所のお世話になることに。ちょうど兄と姉も東京の大学に通っていたので、新たに兄姉(けいし)3人での暮らしが始まりました。

いざ養成所に入ってみると、周りのメンバーは見た目も演技もすばらしい。「自分には厳しい世界かもしれない……」。内気な性格が直っていたわけではありませんでしたから、入所当初は後ろ向きなことばかり考えては落ち込んでいました。

不安を抱えながら学んだ3年目、初めて重要な役に抜擢(ばってき)されました。演じてみると、なんと意外にも好評で、「これなら自分も役者として食べていけるかも」と思ってしまいました。卒業後は養成所の同期仲間で新しい劇団を立ち上げました。しかし、舞台役者だけで食べていくことは難しく、4年ほどで当時は活況を呈していた映画の世界に移ります。

東映(とうえい)の時代劇をメインに2年ほど映画に出ていましたが、以前ごいっしょした女優さんからテレビで共演しないかとお声がけいただいたことをきっかけに、テレビの作品にも出演するようになりました。

『レ・ミゼラブル』への出演を通じ舞台俳優として大きく成長できました

テレビの仕事を中心とした生活が10年ほど続いていましたが、養成所同期の役者たちの舞台を見て、「舞台で芝居がしたい!」とあらためて感じました。そんな気持ちに気づいてからは、PARCO(パルコ)劇場や銀座(ぎんざ)セゾン劇場といったいわゆる中劇場に立つ機会も増えていきました。

ある日、舞台仲間から「ミュージカル作品の配役をすべてオーディションで行うから、受けようと思う。村井もいっしょに受けないか?」と声をかけられ、一大決心をして受けました。それこそが、その後1989年から2004年までの13年間、800回以上の舞台に立つことになる『レ・ミゼラブル』だったのです。それまでもミュージカルに出たことはありましたが、『レ・ミゼラブル』への出演が、その後、たくさんのミュージカル作品に出させていただく最大のきっかけとなりましたね。

ミュージカル『ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』で12人の子どもたちの父親であるジェイコブ役を演じる村井國夫さん

1年に11ヵ月間の公演という年もありましたから、もう生活の一部です。それでも、いわゆる惰性や飽きといった感情はいっさい湧きませんでした。なぜなら、楽曲がどれもすばらしく、当時の僕にとっては極めて高いレベルの作品だったからです。

それまで演技については勉強してきたわけですが、楽曲に合わせて発声する経験はまったくありません。毎日が必死で、ギリギリのところで舞台に立っていました。今日よりも明日、明日よりも明後日、少しでもいいから上達したい——そんな気持ちの毎日でした。

しかし、13年間も続けていれば、納得がいかない演技になってしまって落ち込むことや、のどの調子がよくない日だってあります。どんなにコンディションがよくなくとも、いかに満足のいく演技ができるか——緊張と努力の連続でしたが、それは同時に喜びも味わった13年間でした。『レ・ミゼラブル』はミュージカル役者としての村井國夫(むらいくにお)を大きく成長させてくれた作品でしたね。

2022年4月からは、すべての台詞(せりふ)を音楽に乗せて歌うミュージカル『ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』の舞台に立ちます。

『キャッツ』『オペラ座の怪人』の作曲を手がけたアンドリュー・ロイド=ウェバーと、『エビータ』『ライオンキング』を作詞したティム・ライスの二人の作品で、旧約聖書『創世記』の「ジョセフの物語」をベースにした12人の子どもたちとカラフルなコート(衣服)にまつわる物語です。私は、12人の子どもたちの父親であるジェイコブ役を演じます。

『レ・ミゼラブル』と同じく楽曲がすばらしく、しかもこれまた難しい作品なので、稽古(けい こ)しながらも大きなやりがいを感じています。海外では数多く公演されて高く評価されている作品ですが、日本人キャストではなんと初公演になります。ぜひ一人でも多くの方に見ていただきたいと思います。

心筋梗塞をきっかけに1日1万歩を目標に早歩きをしています

これまで大きな病気をすることもなく、「健康はあたりまえにあるもの」だと、ずっと思っていました。ですから、特に生活で気をつけることもありませんでした。徹夜明けでも、そのまま寝ずに仕事をしたり遊んだりすることもしばしば。食事は焼き肉が大好きでよく食べていましたね。お酒は飲みませんが、葉巻は30年ほどたしなみました。

ただ、あらためて振り返ると、僕は気をつけていませんでしたが、かみさんがいろいろと健康に気をつけてくれていたように思います。特に食事面での配慮は大きく、根菜を中心に食塩を控えるなど、健康を意識したメニューを作ってくれていますね。

かみさんの料理がいかに自分の体によかったのか? 地方公演で1ヵ月ほど家から離れると、その間に体が脂で満たされてしまうような感覚を味わっていました。やっと家に戻ってかみさんの料理を食べると、蓄積していた脂が体から抜けていくような不思議な感覚を覚えるんですよ(笑)。

病気や不健康とは縁がないと思っていましたが、さすがに70歳を過ぎると、そうはいきませんでした。2019年の年末、心筋梗塞( しんきんこうそく)を発症しました。いまから思えば前兆はありました。それは、首のこりです。

『ジョセフ』の楽曲はどれもすばらしくて、稽古のしがいがありました」

しばらく前から嫌な違和感はあったのですが、主演を務める舞台が始まったばかりだったので、病院に行く暇はありません。だから、かみさんにマッサージをしてもらう程度の対処はしていましたが、首のこりはほとんどよくなりませんでした。

そして公演6日目。その日の舞台公演を終えて外で食事をしていたのですが、相変わらず首に違和感を覚えていました。食事を終えて自宅に戻ると、首だけでなく胸まで苦しくなり、変な汗もダラダラ出てくる状態。さすがにこれはおかしいと思い、すぐにかみさんが救急車を呼んでくれました。そして、ここからは自分の記憶がないのでかみさんから聞いた話ですが、搬送される救急車の中で心肺停止状態となり、電気ショックで蘇生措置(そせいそち)が施されたそうです。なんとか病院に到着して処置室に搬送される途中でも心肺停止が起こり、再び電気ショックで蘇生。付き添っていたかみさんは、もうダメだと思っていたようです。

公演の最中ということもあって、当時マスコミには「軽度」と発表しました。しかし、いまだからこそ話せますが、一歩間違えば命を落としかねない状況だったんですよね。

ただ、ご存じの方も多いと思いますが、心筋梗塞は原因となる血液の詰まりを取り除きさえすれば症状が改善します。局部麻酔でカテーテル手術を受けたので手術中も意識があり、手術が進むにつれて苦しい症状がらくになっていくのが分かりました。そして、2週間ほどで日常生活に戻ることができました。

心筋梗塞で倒れて以降は、それまでとは打って変わって、健康を強く意識するようになりました。もちろん葉巻はやめましたし、食事も食塩は1日6㌘まで。しばらく舞台から離れていたこともあり、体力作りも兼ねてウォーキングを始めました。

始めた当初は1日約10㌔を2時間ほどかけて歩いていましたが、さすがにそれでは歩きすぎだと医師に指摘されて、いまは1日6㌔、1万歩ほどに抑えています。かみさんといっしょに歩くことも多く、早歩きで少し汗ばむ程度のウォーキングを毎日続けています。

睡眠にも注意するようになりました。以前は寝つきが悪くて深い眠りを得られなかったのですが、眠くなくても夜の11時には布団に入ることに決めて朝七時には起きる——こうして睡眠のリズムをしっかりと身に着けたおかげで、いまでは心地よく深い眠りに導かれるようになりました。

かみさんから学んだユーモアのおかげで毎日が楽しいんです

年を重ねれば、誰だって病気になることもあります。でも、病気になった際に大切なことは、まだまだ元気で生きたいという気持ちを持ちつづけること、そして、元気を維持するために努力を惜しまないことではないでしょうか。そのためには、生きる目標が必要だと強く感じています。

僕の場合であれば、これまで長きにわたって役者を続けてきましたが、まだ演じていないタイプの役をやってみたいと考えています。

77歳となり、正直、長い台詞を覚えるのはしんどいこともあります。でも、僕の生きる目標は、目の前の仕事に全力で取り組むことです。ただ、ひたすらがんばっていてばかりでは、それこそ疲れてしまいます。いつでも楽しい気分と、ユーモアを忘れないことも意識しています。

俳優になりたての頃は自己顕示欲が強いタイプで、周りとの人間関係もなんだかギクシャクしていたように思います。一方で、かみさんはおおらかで柔軟性がある性格の持ち主でした。そんなかみさんと長くいっしょにいる影響からか、僕のとげとげしい部分は丸くなり、気持ちが穏やかでユーモアも持てるようになっています。おかげで、仕事はもちろん、人間関係も以前にも増してよくなりました。そんな毎日が続くいまの生活が僕は楽しくてしかたありません。