演歌歌手 藤 あや子さん
『こころ酒』『花のワルツ』などのヒット演歌を世に送り出し、紅白歌合戦に21回もの出場を果たしている藤あや子さん。演歌歌手として第一線で活躍しながら、作詞作曲やロックなどの異ジャンルにも挑戦し、表現の幅を広げる努力を続けています。妖艶な美しさや美声をいまでも維持しつづけている藤さんに、元気の秘訣を伺いました。
歌手を目指したのはお祭りで脚光を浴びる踊り子への憧れでした
私が生まれ育った秋田県では、毎年秋に大きなお祭りがあり、豪華に飾られた山車が出るんです。その上で踊り子さんが踊るのですが、私はその姿に幼い頃から憧れていました。
秋田県の田舎ではこのお祭りがいちばんのビッグイベントで、山車の上に立つ踊り子さんはスターです。そこで、いつか自分も山車の上で踊りたいと、小学校4年生のときに、踊りを習うために民謡の教室に通いはじめました。当時から人前に出るのが好きだったんでしょうね。
実際、当時から歌手になりたいという気持ちは持っていました。といっても、目指していたのは演歌歌手ではなく、アイドルです。私より少し年上の山口百恵さんや桜田淳子さんの活躍をテレビで見ながら、「自分もあんなふうになれたら……」と夢見ていたんです。特に桜田さんは同じ秋田県出身ですから、なおさら憧れが強かったですね。
もともと歌うことは大好きで、小学生の頃にテレビ番組のオーディションを受けてみたこともあります。でも、まったくの素人ですから、こぶしを回して歌えるような本格的な歌手志望の人たちにはとてもかなわず、このときは二次審査で落ちてしまいました。それでも、アイドルになりたいという夢はその後も常に心のどこかに持ちつづけていたんです。
そんな私が本格的に歌のお稽古をするようになったのは、実は20歳を超えてからのこと。これは歌手志望としてはかなり遅いスタートでしょう。
私は20歳のときに最初の結婚、そして出産を経験しています。そのため、アイドルになる夢は諦めざるをえませんでしたが、それでも踊りだけは続けたいと、21歳のときに民謡の一座で踊り子のアルバイトを始めました。出番がある日は娘の世話を親にサポートしてもらい、たまに人前に出て踊るのはとても気持ちがよかったですね。
ただ、民謡をやるのであれば、踊るだけでなく歌も歌えなければ一人前とはいえません。そこで我流ではありますが、自分で歌のお稽古を始めました。川中美幸さんの曲などを教材に、自分なりに練習を重ねたんです。当時はまさか後に自分が演歌歌手になるなんて、露ほども思っていませんでしたし、地元の友人たちからも「あなた、いつの間に演歌なんて覚えたの?」なんて驚かれたものです。
転機が訪れたのは、24歳のときです。この年、縁あってNHKの『勝ち抜き歌謡天国』と日本テレビ系列の『日本民謡大賞』という2つの番組に出場する機会を得ました。
とはいえ、4歳の幼子を抱える身ですから、本格的に歌手を目指そうとは考えていません。単なる腕試しのつもりで臨み、なんらかの結果を残せれば、引きつづき秋田県で民謡をやっていくうえで箔がつくだろう、といった程度の気持ちでした。
ところが、『勝ち抜き歌謡天国』で優勝し、『日本民謡大賞』で特別賞をいただくと、東京のプロダクションやレコード会社からスカウトの電話が殺到。中には秋田県まで直接会いに来てくださる会社もあり、思わぬ反響にびっくりしました。
でもこのときは、すべてのオファーをお断りしています。まだまだ子どもが手を離れるまではそばにいてやりたいというのがその理由でした。
いまは亡き父の力強い言葉に背中を押され上京を決意しました
秋田県での歌手活動は順調でした。民謡や演歌だけでなく、ときにはディナーショーの前座で歌謡曲を歌う機会もありました。
例えば、五月みどりさんなど演歌の大御所から、ものまねタレントとして人気絶頂だったコロッケさんまで、さまざまなスターが秋田県にいらっしゃいましたが、そこでふと現実に気づいたんです。お客さんは皆、あくまで五月さんやコロッケさんを楽しみに来ているのであって、前座の私はおまけにすぎない、ということに。
もちろん、声援や拍手も段違い。でも、それなりに歌手としての力量に自信を持っていた私は、そのコントラストに愕然としてしまいました。
相手は全国区の人気歌手なのだから、本来は比べるのもおこがましいのですが、私もまだ若かったですからね。「どうしてもっと私を見てくれないの!」と対抗心を燃やしていました。
そこで、唯一まだ連絡を取り合っていたプロデューサーさんに電話をして、秋田県で子育てをしながら東京に通う、出稼ぎ歌手のような形でやらせてもらうことはできないかと相談したんです。すると、意外にもこの話がすんなりと通り、1987年に私は「村勢真奈美」の名前でデビューすることになりました。
それからの1年間は、家族の助けを得ながら東京都と秋田県を往復する多忙な日々を送ることになります。体力的にも精神的にもハードな毎日でしたが、私もついに全国区で脚光を浴びるときが来たんだと、大きなモチベーションをみなぎらせていました。
でも、どれだけ東京へ歌いに行っても、レコードが売れるわけでも知名度が上がるわけでもなく、がむしゃらながらもしだいに限界を悟りはじめます。やはり、秋田県に根を張りながら成功できるほど、甘い世界ではなかったわけです。
私は少しずつ意気消沈し、やれるだけのことはやったのだから、もう十分だろうと諦めにも似た感情を抱きはじめました。
そんな中、いまは亡き父が私にこういったんです。
「おまえはまだ、ほんとうの意味で中央の舞台には立っていないだろう? 子どものめんどうは見てやるから、一度上京して本気で挑戦してこい」
この言葉には、思わずハッとさせられるものがありました。父は、歌手として第一線で活躍したいという私の強い願望を、ちゃんと見抜いてくれていたんですね。これが、「藤あや子」として再デビューするきっかけになったんです。
振り返ってみれば、父の力強い後押しがなければ、いまの私はなかったでしょう。私は本来、意欲はあってもなかなか重い腰を上げられないタイプなので、こうして父に背中を押してもらっていなければ、秋田県を出ることもまずありえなかったと思います。
美と健康を保つには自分の体質と真摯に向き合うのがいちばん
秋田育ちの私にとって、東京都での生活は新鮮なものでした。赤坂や新宿の街並みに触れ、レッスンの帰りにショッピングを楽しむような日々に、当初は女子らしく胸を躍らせていたものです。
しかしやがて、東京のめまぐるしい生活に少しずつストレスを感じるようになります。狭いマンションで暮らすことも、外食中心の生活も初めてのことで、「このままでは体を壊してしまうかもしれない」という危機感を覚えはじめました。
そこで、健康の基本はやはり食事だと立ち返り、自炊中心の生活に切り替えることにしました。すると、もともと料理が好きなこともあって、これがストレス発散にも大いに効果を発揮しました。その後、父と娘も上京していっしょに暮らすようになると、なおさら料理に熱が入り、キャンペーンなどで家を空けるときでも必ず料理を作り置きして出るようになりました。
いまから10年ほど前に、私は突発性難聴で数ヵ月間の休業を余儀なくされています。これも健康と向き合ういいきっかけになりました。
難聴は歌手生命に関わる一大事です。私はなぜ自分が突然この病気にかかったのかを知りたくて、さまざまな本を取り寄せて読みあさりました。自分の体質と真剣に向き合うことは大切で、いろいろ調べてみたら東洋医学でいう腎という生命エネルギーが弱く、基本的に“冷え”の体質であることをあらためて再確認しました。
そこで、例えば毎朝口にしていたフルーツも、パイナップルやキウイなど体を冷やすといわれる南国原産の果物をできるだけ避け、代わりにブドウやリンゴなど、寒い地域で穫れるものに切り替えました。野菜も同様です。また、アルミ鍋は食材の成分に悪影響を与えるという話を聞き、玄米をセラミックの鍋で炊いて食べるように心がけました。
するとおもしろいもので、どんどん体調がよくなり、身も心もスッキリするのが実感できました。医師から「完治するまでに2、3年かかる」といわれた突発性難聴を、わずか半年で治して仕事に復帰できたのも、こうして自分の体質と向き合った賜物だと思います。
その反面、自分の体を過保護にすることもしません。これはアスリートの方に通じる考え方なのだそうですが、人の体は「食べたい」と欲したものを欲したときに食べるのが、最も栄養として身につくといわれています。つまり、人間もまた動物なので、必要なものを本能的に欲するようにできているんですね。
たとえそれがラーメンのような脂っこいものであったり、ジャンクフードと呼ばれるものであったりしても、日頃の食事さえきちんとケアできていれば、無理に避ける必要はないと私は思っています。過剰な我慢を強いるのはストレスになりますからね。それはそれで健康に悪影響を及ぼしてしまうでしょう。
こうした体験を通して、いまでも毎日必ず、1食は体にいいものを手作りするというのが私のルールです。このルールを守っているからこそ、そのほかの2食は安心して好きなものを楽しめるわけです。
自分を締めつけすぎず甘やかしすぎないことが元気を保つ秘訣です
美容や健康のことを考えれば、睡眠も大切です。でも、私は毎日必ずしも睡眠を多く取るのがベストであるとは思っていません。眠くなったら寝る、眠くないなら寝ない。シンプルですが、それでいいのではないでしょうか。
極端な話、どうしても眠れない日は一晩中起きていて、その分、次の日にたっぷり眠ればそれでいいと私は考えています。これもまた、自分を締めつけることでストレスをためない秘訣ですね。
新型コロナウイルス感染症の流行による外出自粛期間には、運動不足で不眠に悩まされた人も多いでしょう。でも、どんな状況であってもやれることは必ずあります。私の場合は、ヨガやピラティスを10年以上続けているので、この期間はリモートレッスンで定期的に体を動かすよう心がけていました。
ご高齢の方の中には、「リモートなんてどうしていいか分からない」と最初から諦めてしまう人も多いかもしれませんが、それなら家族や友人など、詳しい人に教わればいいんです。あるいは、けがや病気で体を動かすことが難しい人もいるでしょう。それでも、近所をゆっくりと散歩してみたり、簡単なストレッチをしてみたり、できる範囲内で始めることが大切です。
病気になったり老いを感じたりすると、どうしても弱気になってしまうものですが、人間は自分で思っているほど弱い生き物ではありません。いまできることを1つでも2つでも実際にやってみることで、次の3つ目、4つ目につながるはずです。いくつになっても新しいことに挑戦する気持ちを持つことが、心身を健康に、そして美しく保ってくれるのだと私は確信しています。皆さんもぜひ、前向きな心を保ちながら、日常生活の中でささやかな楽しみや生きがいを見つける努力をしてみてください。
私はいま、自宅で2匹のネコを飼っているのですが、この子たちとの暮らしもまた、大切な癒やしになっています。どちらも保護されたネコで、毎日家の中をドタバタとにぎやかに走り回っていますが、最近の楽しみはその2匹の様子を写真や動画に撮って、インターネット上に記録として残すこと。多くの愛猫家の方からコメントが寄せられ、それがまた私自身の大きな楽しみになっているんです。
そんな私も59歳になり、いよいよ還暦が目前となりました。だからといって立ち止まるつもりはありません。歌手としても、まだまだ挑戦したいことが山ほどあります。演歌の道で精進するのはもちろん、ロックなどほかのジャンルの歌い手とコラボしたり、さらに表現の幅を広げていけたりするよう毎日アイデアを練っています。
〝いま〟をどう楽しむか。その答えは、意外と皆さんの身近にあるものだと思いますよ。
藤あや子さんからのお知らせ
作曲家で恩師でもある中村典正さんの遺作となった藤あや子さんの真骨頂である純演歌を収めた最新シングル『ふたり道』を好評発売中。女性の心の機微が妖艶な美声と合わさり、ほかでは味わうことができない心にしみる純演歌です。