演歌歌手 山本 譲二さん
はっきりと「大腸がんの疑いあり」と記入されているのが目に飛び込んできたんです
大腸がんの手術を受けたのは2019年5月のことですから、はや2年以上がたったことになります。若い頃から向こう見ずな生き方をしてきましたが、まさか自分ががんという大病を患うことになるなんて考えたこともありませんでした。当時の私にとっては、まさに青天の霹靂でしたね。
もともとがん家系ではなかったこともあり、私はすっかり油断していました。がんは遺伝的なものとよくいわれますけど、身内にがんになった人がいなかったとしても決して油断してはならないということが、いまの自分にはとても理解できます。
がんが見つかるきっかけとなった症状は、深夜の激痛でした。夜中の2時くらいに突然、右側のわき腹にものすごい痛みを感じたんです。思わず手のひらでさすってみたら、ぽっこりとおかしな膨らみがあることに気がつきました。
「何だこりゃ?」と驚きながらも、思い当たる節がなかったわけではありません。実はその半年くらい前から、ズキズキとした痛みを腹部に感じることがあったからです。しかし、一過性のものだろうと気に留めることはありませんでした。
実際、お酒を飲んでいるといつの間にか治まってしまう程度の痛みでしたし、それでも治まらないときはカゼ薬を飲めば症状がなくなりました。ちょっとしたことですぐに症状がなくなってしまうので「カゼのウイルスがどっかおかしなところに入って悪さをしていたんだろう」などと、勝手な解釈をしていたんです。いまにして思えば、カゼ薬の抗炎症作用で痛みが和らいでいただけなんだと思います。
痛みが起こっているときには、「ちゃんと病院を受診して医者に診察してもらおう」と思ったことが何度もありました。しかし、翌朝になると痛みは治まっているので、「やっぱいいや」の繰り返し。そんな様子をかたわらで見ていた女房は「いつか大事になっても知らないからね」とあきれていたものです。
ところが、2年前のあの夜は、それまでのような痛みではありませんでした。のたうち回るほどの痛みで、脂汗まで出てきたんです。いつもなら「酒を飲めば治まる」といってすませてしまうところですが、このときばかりはとても辛抱できませんでした。女房に「悪いけど病院に連れて行ってくれないか」と泣きつき、すぐに救急病院を受診しました。
CT(コンピューター断層撮影)検査を受けた結果、わき腹の激しい痛みは腸閉塞によるものだと判明しました。しかし、どうもそのほかにも不穏な影が見えるということで、より精密な検査を行うことになったんです。
主治医の先生の話を聞きながら、先生があれこれ書き込んでいるカルテをちらっとのぞき見ました。すると、はっきりと「大腸がんの疑いあり」と記入されているのが目に飛び込んできたんです。そのときは何もいわずにおきましたが、内心ではショックのあまり目の前が真っ暗になるのを感じていました。
私の感情は置いてけぼりにされたまま、治療が始まることになりました。先生が私の病床にやって来たときに、先にこちらから聞いたんです。「がんですか?」と。先生は少し驚いた顔をしながら、「残念ながら、がんです」と答えました。
「あと3年間でもいいから生かしてほしい」と心の底から念じていました
それにしても、がんを告知されたときのほんとうの気持ちというのは、当事者にしか理解できないものがありますね。いろいろな言葉を考えるのですが、やはりどれもしっくりこないんです。
がんと告げられる前までは、家族や事務所のスタッフに対して「俺は逝くときはスパッと逝くからな!」などと威勢のいいことばかりいっていました。ところが、実際にがんと告げられて目の前に死の恐怖が迫った状態になると、「死にたくねぇ」と思ったんです。入院中一人になったとき、いつもがんのことについて考えてしまって不安で眠れませんでした。
子どもや孫の顔を思い浮かべながら、なんとかして生き延びたいと思いました。「孫が高校生になるまで……。いや、難しいかな。せめて孫が小学生になるまでのあと3年間でもいいから生かしてほしい」と、心の底から念じていました。
当時の段階では、自分のがんが進行性のものかどうかは分かりません。主治医の先生から告げられているのは、7㌢大の腫瘍があるという事実だけです。7㌢大という大きさが、自分にとっては非常に大きく、不気味なものに感じられてなりませんでした。何よりこの年齢になると、がんなどの大きな病気で多くの人を見送ってきましたから、次が自分の番であったとしても不思議ではありません。当時は「もし自分がこのまま逝ってしまったら、残された家族や事務所のスタッフの生活はどうなってしまうのか」と、毎日そればかり考えていました。
私は十数年前に独立していまの個人事務所を構えたんですが、そのときに周囲の人のすすめがあって人間ドックを受けたことがありました。ところが、その際、尿酸値や中性脂肪、コレステロール値など、全部で6ヵ所も引っかかってしまったんです。
若い頃のツケが回ってきたのでしょうね。当時はとにかく生活が不規則で、暴飲暴食の日々を送っていました。特にお酒の量はひどく、ひと晩のうちにウイスキーのボトルを一本あけてしまうことも珍しくありませんでした。体はもうボロボロだったんだと思います。
なのに、当時の自分は検査の結果を見てへそを曲げました。「なんでこんな不快な思いをしなければならないんだ。二度と人間ドックなんて受けてたまるか」と思ったんです。これがいけなかった。いざがんになったら現金なもので、健康診断や人間ドックを、なぜもっと定期的に受けて来なかったのかと後悔しました。
がんの告知を受けたことは、家族とごく一部の関係者のほかには誰にもいわずにいました。とくに90代半ばである母にはこれ以上余計な心配を絶対にかけたくなかったので、周囲にも固く口止めをしていました。
ほとんどの人に口止めをしている中、早い段階で病気のことを打ち明けていた数少ない友人の一人が吉幾三です。がんになったことを伝えると、彼は病院へすっ飛んできてこういいました。
「頼むから、俺が紹介する病院に移ってくれ。最高の治療が受けられるように手配するし、秘密も守ってくれるから」
ほんとうにありがたいですよね。おかげでマスコミに知られることもなく、無事に手術を受けることができました。その後も、吉は不安になった私をずっと支えてくれました。
手術から数日がたったある日、彼が訪ねてきたんです。
「いつまで寝てるんだ。体を動かしたほうがいい、俺もつきあうからさ」
吉はそういうと、私の横について病院の廊下をいっしょに歩いてくれたんです。治療中は「なんでも任せてくれ」といってくれたのをいいことに、ほんとうに頼ってばかりでした。いま元気に動けているのは、吉のおかげです。
昔の不健康な自分を知っている周囲はこの変わりようにとてもビックリしていますよ
手術では、腸閉塞が起こっていた大腸を20㌢ほど切除するとともに腫瘍が取り除かれました。病理検査の結果が出るまでは「どこまで進行しているがんなんだろう」と、内心では冷や冷やしていましたが、検査の結果、ステージⅡAと判明。さらに、主治医の先生は「大丈夫、これなら抗がん剤治療を行う必要もないでしょう」といってくれたんです。その言葉を聞いたとき、隣で女房は泣きくずれました。私だけでなく、彼女もずっと不安と闘ってくれていたんでしょうね。手術後の抗がん剤治療に苦労されている方がおおぜいいるんですから、私は非常に恵まれていると痛感しています。
退院後は、半年に一度のPET(ポジトロン放出断層撮影装置)検査を受けることになりました。私のような不規則な生活を送ってきた人間からすると、劇的な変化です。定期的に通院するなんて、昔の自分が見たら大笑いするかもしれません。ですが、こんな自分だからこそ、定期検査は安心材料といえます。定期的に専門家が体を調べてくれるわけですから、また異変があったとしてもすぐに見つけてもらえるにちがいありません。
実際に退院後に受けた最初のCT検査では、新たに5つのポリープが見つかり、そのうちの1つはがん化していました。内視鏡ですぐに切除してもらいましたが、もし気づかなければ再び大事に至っていたかもしれません。健康診断を定期的に受けることの大切さとはこういうことなのだと実感しています。
健康管理に対する考え方も、若い頃と比べると別人のように一変しました。いまも相変わらずお酒は飲んでいますが、これは「ある程度ストレス発散のために必要」ということにしています。一般的には多い酒量なのかもしれませんが、自分としては以前に比べて激減したと感じています。
食事にもだいぶ気を遣うようになりました。昔はほとんど野菜を食べない人間でしたが、いまはなるべく意識的にとるように気をつけています。さらに、毎朝女房が用意してくれる青汁もちゃんと飲んでいます。
あたりまえといえばあたりまえですが、尿酸値や血圧、コレステロール値を下げるための薬もちゃんと飲んでいます。昔の不健康な自分を知っている周囲の人たちは、この変わりようにとてもビックリしていますよ。
結局、若い頃というのは体に備わっている生命力で、栄養が多少不足していようが偏っていようがどうにかなってしまうんです。しかし、年齢を重ねてからはそうはいきません。不足している栄養素があれば、サプリメントで補うような工夫だってするべきでしょう。血圧ひとつにしても、急に運動の習慣をつけようとしたり、食生活を改めたりしたところで、自力で改善するのは至難の業ですから、素直に薬に頼ればいいんです。四の五のいわずに、できる手は尽くすべきです。大腸がんという大病を経験したことで、自分自身、それを思い知っています。
運動も大切ですよね。私の場合、病気を経験した後は、毎日欠かさず1時間のウォーキングを行うようになりました。もともとスポーツは好きでしたので、体を動かすことは苦ではありません。主治医の先生からは「少しずつ」と念押しされていましたが、退院してからはすぐに動き回っていました。最初はウォーキングにつきあうといってくれた女房を、ペースが遅いからと置いて行くくらいだったんです。きちんと運動したからこそ、退院後の体力の回復が早かったのだと思います。
病気に悩まされている方もどうか前を向いて、いまできることに精いっぱい向き合ってください
がんになった後につくづく思うのは「人間は必ず壁にぶち当たることがあるが、それでも乗り越えられない壁というのは存在しない」ということです。これまでの人生を振り返ってみても、それは正しいのだと思います。私の歌手としての経歴にしても、決して順風満帆なものではありませんでした。
高校卒業後、故郷の下関から歌手を目指して上京したのはいいものの、生活する当てはまったくありませんでした。いつのまにか、キャバレーのアルバイトでどうにか食いぶちを確保する日々を送るようになっていました。
酒が飲みたくてもお金がないので、客が飲み残したビールをこっそり失敬していました。肝心の歌ではまるで芽が出る気配がありません。そんなある日、いつものように客の残りのビール瓶を一気に飲み干したら、なんと中はタバコの吸い殻だらけ。具合が悪くなって病院に行ったら「このままだと死にます」と主治医の先生がいうんです。肝臓が悪いことが原因で全身にじんましんが出て、私はいったん故郷に戻ることになりました。
しばらくは療養を口実にして実家の厄介になっていましたが、ある日、母親が朝のワイドショーを見ながら何気なくつぶやいたんです。
「おまえもいつか、こういう番組に出られるようになったらいいわね……」
その背中を見ているとなんだかたまらない気持ちになり、なんとしても歌手になって親孝行してやるんだという、強い決意が生まれました。今度は何があっても夢をかなえるまで戻って来ないと心に誓い、再び夜汽車に飛び乗ったことが、その後の自分につながっています。
もちろん、その道は平易なものではありませんでした。何が何でも歌で活路を見いだしてやるという一心で酒場で弾き語りを始めたところ、それが作曲家の浜圭介さんとの出会いにつながり、24歳でデビューにこぎつけることができました。
その後も鳴かず飛ばずの苦しい時期が続きますが、北島三郎のオヤジの楽屋に日参し、付き人として下積みを始めて研鑽に励んだことが、『みちのくひとり旅』のヒットにつながりました。想像していた華々しい世界とは違い、泥臭い努力の積み重ねでしたが、あの経験は、間違いなく糧になっています。
今回の病気では柄にもなく悩み、落ち込んだ時期もありましたが、それも後に糧となる大切な経験だったのでしょう。病気を患うと、どうしても気持ちが塞ぎ込むこともありますが、何より大切なのは目の前の壁を乗り越えようとする強い気持ちなのだと思います。
なんらかの病気に悩まされている方もどうか前を向いて、いまできることに精いっぱい向き合ってください。乗り越えられない壁はないと私は信じています。
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