歌手 尾藤 イサオさん
30代のときに加齢黄斑変性と診断された、歌手の尾藤イサオさん。日常生活の不便さに悩まされながらも、持ち前の前向きさで「100歳まで歌いつづける!」と話す尾藤さんに、現在の状況について伺いました。
両目が黄斑変性と診断され、全国の良医を訪ね歩きました
僕が最初に視界の異変を感じたのは、30代の頃でした。いつものように仕事を終えて帰宅すると、「あれ? なんだか見えるものが暗いな」と感じたんです。
どうせ大したことじゃないだろうと、あまり気にせずにいたんですが、しだいに娘の顔が少しゆがんで見えるようになりました。
視界は常にぼんやりしているし、これはいよいよおかしいなと思い、最初に近所の眼科で診察を受けたのが37~38歳のときです。でもそのときは、先生からさほど大げさなことはいわれず、「一度ちゃんと検査したほうがいいですね」といわれた程度でした。
仕事で忙しくしていましたから、結局そのまま1ヵ月ほど放置してしまったのですが、やっぱり視界のゆがみは治まりません。そこでもう一度、同じ先生のところへ行って診てもらったら、今度は血相を変えて、「失明するリスクがありますよ!」といわれたんです。
どうやら先生は、僕が芸能界のつながりですでに大きな病院を紹介してもらっていると思っていたようなんですね。こちらとしては、まさかそれほど大事だとは夢にも思わず、ただただびっくりしたのを覚えています。
大きな病院に紹介状を書いてもらって診てもらいましたが、この時点ではまだ、加齢黄斑変性(以下、黄斑変性と略す)という診断ではなく、中心性網膜炎といわれました。
担当の先生からは「すぐに治療ができる病気ではないけれど、一気に症状が進行するものではない」といわれました。僕としても、日常生活に致命的な差し障りがあるわけでもなかったので、当時はまだどこか悠長でしたね。
ところが、ちょうどその頃、NHKの大河ドラマ『おんな太閤記』で共演させてもらった佐久間良子さんから、ある眼科の先生を紹介していただく機会がありました。その先生の診察を受けてみると、はっきりとこういわれたんです。
「黄斑変性ですね。いまの医学では治りません」
黄斑変性は左右どちらかの目が患うケースが多いそうですが、僕の場合は不運なことに、両目とも黄斑変性にかかっていました。かなり珍しいようで、診断した先生も驚いていました。
それからは、どうにかならないものかと、全国の眼科医を訪ねました。仙台や和歌山など、仕事で地方へ行くたびに、評判のいい先生の情報を聞きつけては診てもらうことを繰り返していましたが、どの先生からも「治らない」といわれました。ある先生からは、「黄斑変性は治らないからしかたがない。病気とつきあいながら、それでもできることを見つけてがんばってください」と励まされてしまいました。
40代、50代と年齢を重ねていくにつれて、見えない部分はゆっくりと、確実に広がってきています。僕は相撲が大好きですけど、あるときからは土俵の上で立ち会う2人の力士が、最初からくっついて見えるようになりました。視界の中央部分が欠けてしまうので、ひしゃげて見えるんです。
それでも家族を養っていかなければなりませんから、落ち込んでばかりもいられません。幸い、目が多少見えにくくても歌うことはできますし、お芝居だってできます。仕事ができるうちは、とにかくこの仕事に全力で取り組んで、いよいよ支障が出るようになったら、そのときにできる仕事を探せばいいと考えました。
テレビ局の廊下で大先輩に気づかず陰口をたたかれました
ただ、日常生活の中では不便を感じることがたくさんあります。例えば、人の顔を正面から見ると、相手の顔が黒く塗り潰されて、のっぺらぼうに見えてしまうんです。自然と視線を胸元や手元まで下げて会話をすることになるのですが、相手からは「目を合わせない失礼なヤツ」と思われかねません。そのため、初対面の人と話すときは、できるだけ黄斑変性であることを伝えるようにしています。
仕事を終えて自宅へ帰る際に、近所の人とすれ違ったとしても僕には分かりません。ご近所さんの会釈に気づかず黙って通り過ぎれば、無愛想な隣人だと思われてしまうでしょう。近所とのトラブルを避けるために、最寄りの駅からわざわざ遠回りをして帰るようにしています。町内を1軒ずつ回って病気のことを説明するわけにはいきませんから、これが自分にできる、せめてもの気遣いなんです。
同じように、仕事をするうえでも不便さを感じています。例えば、テレビ出演の際、僕はカメラの後ろでディレクターが掲げるカンペ(カンニングペーパー)が読めません。そのため、どんな仕事でもあらかじめ台本を完璧に暗記してから撮影に臨んでいます。
僕がしっかりと台本を覚えてくるので、共演する若いタレントさんは大変です。ディレクターさんから「大先輩の尾藤さんがしっかり台本を覚えてきているのに、おまえはなんだ!」と怒られている様子を見ると、ちょっと申し訳ないなと思ってしまいます。でも、先輩としていいお手本になっているのなら、ありがたいことですね。
黄斑変性を患っていると、役者をするときも大変なんです。「カメラ目線でお願いします」といわれても、カメラをすぐに見ることができませんから。一度上に視線を外し、視界の端にあるカメラの位置を確認してから、あらためて視線を下ろしてカメラ目線にしているんですよ。
とっさの出来事には、対応できないことがしばしばあります。テレビ局の廊下ですれ違った先輩に気づかず素通りしてしまい、「尾藤もずいぶん偉くなった」と陰口をいわれたこともありました。そんなときは黄斑変性であることを正直にお話ししておわびを伝え、誤解を解くしかありません。
声を残してくれた神様に感謝しながら百歳まで歌いつづけたい
見えない部分が広がることに不安がないかというとウソになります。でも、医学は少しずつ進歩しています。ある先生には「そのうち治療薬が完成するかもしれませんから、諦めずにがんばりましょう」と声をかけていただいたことがあります。結局、よりよい治療法が確立するのを、気長に待つしかないということでしょう。その日が来るまで、とにかく目以外の健康を保ちたいと思っています。
昔はタバコを吸っていましたし、お酒もたくさん飲んでいました。しかし、黄斑変性を患ったのをきっかけに、もっと日頃から健康を意識して、万全に仕事ができる状態を維持しなければならないと強く思うようになりました。
例えばお酒は、いまは焼酎を一晩に二合程度にして……というと、家族やマネージャーから「ウソつき」といわれそうですが(笑)、酒量は意識してかなり減らしています。
タバコをやめられたのは、数年前に亡くなった尾崎紀世彦さんのおかげでした。僕は彼をキヨという愛称で呼んでいて、一時期いっしょに「ミュージックサプリメントO2コンサート」というジョイントコンサートを開催していたんです。O2というのは、2人のイニシャルからとったものです。
タバコを吸っていたのでは、キヨの音域や声量には太刀打ちできません。ステージに来ていただくお客さんにみっともない姿を見せられませんから、できることからやろうと考えて、まずはきっぱりと禁煙したんです。
禁煙をすると、唄うときの声が違うのが分かりました。おかげで、1日に3箱も吸う典型的なヘビースモーカーだった僕がもう10年以上、1本も吸っていないんです。いまでも若い頃と変わらない声量や音域を保てているのは、キヨのおかげかもしれませんね。
いろいろな不便はありますが、こうして喜寿を迎えるまで歌や芝居の仕事を続けられるのは、喜び以外のなにものでもないですね。いまも視野は少しずつ狭くなっていますし、危なっかしくて1人で外出することもできませんが、神様が声を残してくれたことには感謝の気持ちでいっぱいです。
視野の一部を失いながらも、こうして元気に活動できるのは、仕事が活力源になっているからこそ。この秋には、中尾ミエさんといっしょに、僕にとっては初の主演映画となる『感謝離 ずっと一緒に』も公開されました。
この年齢になって映画の主演をさせてもらえるのも、常に前向きな気持ちを失わなかったからだと思います。将来はどうなるか分かりませんが、百歳までがんばって仕事を続けたいです。何事も「なせばなる」ですよ。ほかならぬ僕自身が、それを誰よりも実感しています。