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世界チャンピオンを育てることが新たな目標です

患者さんインタビュー

元プロボクサー カシアス 内藤さん

咽頭がん手術をためらったのは亡き恩師との約束を果たすのに声が必要だったからです

[カシアス・ないとう]——1949年、神奈川県横浜市育ち。1970年、日本ミドル級チャンピオン。1971年、東洋ミドル級チャンピオンのタイトルを獲得し、「和製カシアス・クレイ」の異名を取るほど大活躍した伝説のボクサー。作家・沢木耕太郎のノンフィクション『一瞬の夏』(新潮文庫)の主人公としても有名。末期の中咽頭がんを患うが、長年の夢だったみずからのボクシング・ジムを開設し、後進の指導に心血を注いでいる。

僕が(いん)(とう)がんと診断されたのは、2004年のことでした。当初はのどに少し違和感を覚える程度で、「カゼぎみなのかな?」と気にも留めていなかったのですが、やがて食べ物を飲み込むたびに痛みが走るようになり、近くの総合病院で検査を受けることにしたんです。すると、「悪性の可能性もあるから、念のため大きな施設で精密検査を受けてください」といわれて紹介されたのが、神奈川県立がんセンターでした。それまで、自分ががんになるなんて夢にも思っていなかったので、これはまさに青天の(へき)(れき)でした。

果たして、精密検査の結果、口の奥にある中咽頭という部位にがんが認められました。僕はかなりのヘビースモーカーですから、かかるなら肺がんだと思っていたので、これは少し意外な気がしましたね。しかも、僕の咽頭がんはステージⅣと、かなり進行した状態だったようで、その時点ではっきりと「余命3ヵ月」といわれました。

でも、僕にとって、余命が短いことよりも問題だったのは、治療法の選択です。根治を目指すなら摘出手術を受けるべきだと主治医の先生はいいますが、真っ先に思ったのは「絶対に声を失うわけにはいかない」ということでした。なぜなら、声が出なくなったら、亡き恩師との約束が果たせなくなるからです。

僕の恩師とは、ガッツ(いし)(まつ)さんをはじめ6人もの世界チャンピオンを育てた伝説の名トレーナー、エディ・タウンゼントさんです。僕はエディさんのおかげで、現役時代にはミドル級の東洋チャンピオンにまでなれたのですが、そのエディさんと、こんな約束をしていたんですよ。

「引退した後、いつか必ず自分のボクシング・ジムを開き、エディさんの教えを次の世代に伝える」

エディさんは、「ハートのラブで教える」ことを信条とする、当時のボクシング界には珍しいタイプの指導者で、選手や関係者、そしてファンから深く愛された名伯楽でした。

しかし、僕がのどの手術を受けて声を出せなくなってしまったら、ジムを開いても選手を育てることはできなくなります。まさかボクシングのトレーナーが、筆談で選手を指導するわけにもいきませんからね。これはなんとしても避けなければならないと思ったので、先生に相談したところ「だったら、根治は難しいかもしれないけど、放射線化学療法でがん細胞を小さくして抑え込みましょう」といってくれました。つまり、がんと共存しながら生きていこうというわけです。

ボクシングの勝負にたとえれば、根治はKO勝ちで、共存は引き分けのようなもの。だったら勝利を目指すべきだと思われるかもしれませんが、タイトルマッチでは引き分けの場合、チャンピオンの防衛ということになります。つまり、元ミドル級東洋チャンピオンである僕にしてみれば、引き分けは勝ちに等しいんですよ。

でも、実際に抗がん剤治療を始めてみると、これが苦しくて苦しくて……。計25回の放射線治療も受けましたが、そのたびにのどが焼けただれ、一時的に味覚も失いました。当然、食欲はまったく湧きません。それでも食べなければ治るものも治りませんから、強い気持ちを持って1日3度の食事をとりつづけました。

一方で、病院で処方された薬は、服用後の(けん)(たい)(かん)がどうしても受け入れられず、ほとんど飲みませんでした。先生もそれは分かっていたようですが、幸いにしてがんは当初の4分の1くらいまで小さくなっていて、経過も良好だったため、特におとがめはなかったです。

ほんとうはこっそりタバコも吸っていたんですけど、それもきっとにおいでバレていたのでしょう。「あなた、ほんとうに死んじゃうよ?」と脅されることがしばしばありましたからね。でも、あまり我慢しすぎてストレスを抱えるのも、かえってよくないと思ったんです。

長年の夢だった自分のジムを開設することができたのはさまざまな縁があったからです

〝東洋のクレイ〟と呼ばれたカシアス内藤さんの現役時代の写真

そうした治療と並行して、僕は急ピッチで自分のジムを開く準備を進めました。元気を取り戻してはいても、余命3ヵ月といわれている身ですから、急がなければどうなってしまうか分かりません。

もともと僕はボクシングをやりながら水道工事の仕事をしていましたし、地元の仲間にも建築関係の仕事をする連中がおおぜいいます。そうした仲間たちの力を借りたおかげで、テナントを見つけてから施工まではほんとうにとんとん拍子でした。

そして、がん宣告の翌年である2005年2月、故郷の横浜で『E&Jカシアス・ボクシングジム』をオープンします。1979年に現役を引退してからずっと追いつづけてきた夢が、ようやくかなった瞬間でした。E&Jはエディさんと僕の本名((じゅん)(いち))のイニシャルから取ったもので、2月をジムのオープンと決めたのは、エディさんの命日に合わせたからです。

実は、僕の現役時代のリングネームである「カシアス」も、エディさんとの思い出がたくさん詰まった名前なんです。カシアスというのはあのヘビー級の名チャンピオン、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)さんの名前からお借りしたものです(モハメド・アリはイスラム教への改宗に合わせて1964年に改名)。

僕がプロボクサーとしてデビューした頃、カシアス・クレイは世界を(せつ)(けん)するスター選手でした。まだインターネットなどない時代でしたが、僕が暮らしていた日本のベースキャンプにまでその名声はとどろいていて、同じ黒人として強い憧れを抱いていたんです。その後、エディさんの仲介でアリといっしょに練習をする機会にも恵まれたのは一生の思い出ですよ。

カシアス内藤さん(右)とモハメド・アリさん(左)がいっしょに練習している貴重な1枚

ジム開設にあたっては、ノンフィクション作家の(さわ)()(こう)()(ろう)さんのサポートも大きかったです。沢木さんが書いた『一瞬の夏』という作品は、現役時代の僕を題材にしたもので、当時、非常に大きな反響を呼びました。

おかげで僕自身、少しは世の中に知られる存在になれましたし、いまも沢木さんのファンだという方から声をかけられる機会が少なくありません。

また、余談ですが、現役時代のある日、沢木さんが1人の男性をジムに連れてきたことがありました。彼は1人でたびたび見学に来るようになり、いつもリングサイドで僕のトレーニングを無言で見つめていたものです。それが、アリスの(たに)(むら)(しん)()さんだったんですよ。彼は僕の練習を来る日も来る日もじっと観察しながら、曲作りのインスピレーションを湧かせていたんですね。そうして出来上がったのが、アリスの代表曲の1つ、「チャンピオン」です。

思えば、ボクシングを通して僕は、ほんとうにさまざまな縁をいただきました。その縁に助けられながら今日まで生きることができています。

「絶対に病気に負けないぞ」と強く思うことが治癒力を高めると信じています

「余命3ヵ月」と宣告されてから、今年ですでに16年が経過していますから、ずいぶん長く生きることができました。こうしているいまも、のどにがんは存在していますし、たまに食べ物がつっかえることもありますが、もう何年もの間、小康状態を保っています。

おそらく、僕自身が「絶対に病気に負けないぞ」「必ず治してやる」と強く思いつづけているからこそ、今日まで生きてこられたのでしょう。これに加えて、何より命を支えている要因として大きいのは、こうしてジムを構え、エディさんの教えを継承していって、いずれ世界チャンピオンを育てたいという目標があることでしょうね。常に前を向いていることで、人間の()()(りょく)は向上すると、僕は確信しています。

その意味では、あのとき、命の危険におびえて外科手術を選択し、ジムを開く夢を諦めてしまっていたら、僕はこんなに長く生きられなかったのかもしれません。ジム開設は僕にとって、自分自身が生き長らえるための、ベストな選択だったのだと思います。

さまざまな病気に苦しみ、悩んでいる人には、ぜひ、人間が本来持っている治癒力を見直していただきたいですね。いくつになっても夢を持ち、それに向けてがんばる強い心を保つ。それによって病気に打ち()つことができるんです。あとは、とにかくたくさん食べて、たくさん眠ること。病気と闘うには体力が必要ですからね。

いま、僕のジムでは息子が選手として活躍し、すでに日本と東洋でチャンピオンになりました。次の目標は当然、世界チャンピオンです。

僕は今後もがんと共存しながら生きていくことになりますが、決して絶望はしていません。できるだけ長生きしたいと思っていますし、必ず長生きできると信じています。世界チャンピオンを育てるという目標に向けて、まだまだこれからもがんばらなければなりませんからね。