乳腺外科や患者会のない時代、乳がんになった私の支えになったのは家族でした
37歳の冬、左の胸にビリビリと痛みが走りました。その日の夜、お風呂に入って確認してみると、痛みはなかったものの、1〜2㌢大のしこりがあるのが分かりました。年齢も若かったですし、まさか乳がんだとは思いませんでした。
主人に相談してすぐに病院に行き、生体検査を受けました。3日後、病院から「がん細胞が見つかった」との連絡があり、そのまま緊急入院。悩む間もなく、次の日には手術で胸を切り取ることになったのです。乳がんといわれたときは「私が?」と、ただただ驚くだけでした。
当時は乳腺外科などはなく、乳がんが専門ではない外科の先生が手術を行っていました。手術後、麻酔から目が覚めたとき、左胸に手を当てながら「あぁ、なくなったんだな」と思いました。しかし、どこか他人事のように捉えていたことがよかったのか、「これからどうやって元気になろうかな」と、自分でも驚くほど前向きな気持ちになっていました。普通は、がんといわれただけで落ち込みますよね。でも、自分が死ぬなんて想像ができなかったんです。
周りの人からは「若いから進行が速い」など、デリカシーのないこともいわれました。でも、その言葉はがんの知識の薄さだと、いまならはっきり分かります。私はそんな声に負けず、「あなたたちより長生きしてみせるわ!」と心の中で叫んでいました。患者会などない時代で、相談する相手もいなかった私は、乳房を失った自分を奮い立たせる何かが欲しかったのだと思います。そう思えたのは家族の優しさです。
実は入院する1ヵ月前、私は6人の息子と1人の娘がいる55歳の男性のもとへ、後妻としてお嫁に行ったばかりでした。7人いる子どものうち中学生、高校生、大学生、専門学校生、社会人の5人といっしょに暮らしていました。それまでゆっくりとマイペースで暮らしていたのが、突然、1日を家事に追われる生活になりました。私は頼られるのが好きな性格なので、それほど負担を感じていませんでしたし、子どもたちがみんないい子で私を慕ってくれるのは、たいへんうれしく感謝しています。
35年前の日本では、九州はもちろん、全国を探しても乳がんで胸を失った患者さんが着用する人工乳房はありませんでした。乳がんの患者さんも少なく、50代~60代が大半。37歳の私が乳がんになったことは、周りの人たちにとっては衝撃的な出来事でした。それほど、当時は30代の乳がん患者が少なかったのです。
そんな時代だったので、なかなか自分に合う胸が見つかりませんでした。自分で乳房を作ってみようと、台所用のスポンジを乳房の形に削ってつけてみましたが、軽いので動くたびにずれてしまいました。そんな試行錯誤を1年ほど繰り返していたある日、友だちが「週刊誌に人工乳房を扱っているお店の記事が載っていたよ」と教えてくれたのです。情報が欲しくて、すぐに東京に行きました。
週刊誌に掲載されていたお店は期待外れでしたが、たまたま店にいたアメリカの人工乳房の輸入元の方から声を掛けられました。その方の店へ伺うと、いままで見たことがないシリコン製の人工乳房や、乳がん患者さん用の水着が並んでいたのです。早速、人工乳房をつけて水着を試着。がんを告知されたときも家族が心配するからと泣かなかったのに、鏡に映る自分の姿を見て初めて涙があふれてきました。
手術後からずっと、左胸を失ったことを受け入れられなかった私の胸中から、1年半の間にためていた女性としてのつらさや、いろいろな思いがあふれてきたのです。涙を流しながら鏡の前に立つ私を見たスタッフの方が「とってもすてきよ!」と喜んでくれました。
乳がんになった私にしかできない人工乳房の販売活動。いまの私の生きがいです
その後、お店の社長さんが「九州の病院から、九州でもこの人工乳房を患者さんに広めてくださる方が欲しいといわれているので、満安さん、ぜひお願いできませんか」と東京から福岡まで来て頼まれました。私は「少し考えさせてください」とお答えしました。まだ、がんの治療を受けている時期だったので、考えられなかったのです。
当時、薬科大学に通っていた四男に話すと「お母さん、やればいいのに。お母さんにしかできないやろ!」と強く背中を押してくれました。私もすぐに「そうよね! 私しかできないよね!」と素直に思うことができました。なぜなら、乳がんの告知を受けたときの気持ち、乳房を失った気持ち、治療のつらさが私には分かるからです。
また、患者さんが人工乳房を作るときは採寸するために裸になってもらわないといけません。「これは私にしかできない! 神様が私にこのお手伝いをしなさい、そして自分も元気になりなさいとおっしゃっている」と思いました。迷いがなくなった私は、人工乳房の販売活動を始めることになったのです。
38歳になった頃には、人工乳房の販売で九州全域を飛び回っていました。いまでも大分県には定期的に通っています。インターネットがなかった時代、患者さんは人工乳房があるということを知りません。特に地方は情報が少ないので、九州の各県に足を運びました。
私の活動について主人は、私が毎日元気でいてほしいからと、いつも応援してくれていました。「元気で明るい諏美を愛している」といってくれる、いちばんの理解者です。
いまは、大正3(1914)年から義足装具を作っている京都の大井製作所が扱っているフランス製の人工乳房をおすすめしています。私自身も乳がんで乳房を全摘した患者なので、常にいい人工乳房を探しつづけています。
乳がんになったからといって、胸のことだけを気にするのではなく、まずはがんの治療にしっかり専念し、胸のことを考えるのはその後というのが私の考えです。最近の医療技術は進んでいるので、まずは体が元気になることがいちばん。焦ってはいけません。「命とおっぱいとどっちが大切?」と、私はよく患者さんに尋ねています。
私は人工乳房の販売に携わることで、生きがいを感じています。人工乳房をつけると患者さんは見違えるように変わります。自信がつくのです。元気になるには外見も大事。昔はボランティア精神なんてまったくなかったのですが、がんになったことがきっかけでいまの活動につながっています。
誰かが喜んでくれる、誰かが元気になってくれることを願って自分の〝使命〟を果たしていきたい
乳がんの手術後、主人にサウナに誘われたんです。最初は「デリカシーがないな」と思ったのですが、何度も誘われるうちに、「もったいないな。私の人生、おっぱいがないことで何もかも諦めるなんて」と考え方が変わり、「よしっ! 行ってみよう!」と思えるようになりました。私の体を見た人の中には「かわいそう」という人もいましたが、逆に私を奮起させました。がんを理由にかわいそうと思われる女になってはいけない、同情されることは悔しい! 誰から見ても元気で強く優しい、ハツラツとした、ちょっと目立つすてきなおばちゃんになろうと強く決心しました。その気持ちが自分を元気にするエネルギーなのだと思います。
がんになった人は、誰かのため、何かのために一生懸命になれるものを見つけること。そして、その活動を楽しむことで元気になれると思います。
乳がんを患ってから人工乳房を広めるお手伝いをずっとしてきてよかったと思います。他の患者さんのために毎日走り回っていたけれど、よく考えたら私が元気になるために、走ってきたのだと思います。自分がつらかったぶん、つらさの分かる私がいま苦しんでいる患者さんを励ましてあげることが私の使命だと感じています。
入院している患者さんのもとを訪れると「今日は満安さんと話せてよかった」と笑顔でお礼をいわれます。毎日元気で過ごせることは、これまでがんばってきたことへのご褒美だと思っています。私がこんなに元気なのは、まだまだ人のために働きなさいということですね。これからも患者さんたちに寄り添いながら、元気を分けていこうと思います。