膵臓がんとわかったとき、医師から「死ぬまで生きられるから大丈夫」といわれてらくになりました
2010年8月、58歳のときにステージⅣの膵臓がんと診断されました。「自分はいつまで生きられるのか。死ぬにはまだ早い」と、頭の中が真っ白になりました。
がん患者になってからの人生は、以前より充実していると思います。これまでは自分なりにさまざまな仕事を一生懸命やってきたつもりでしたが、いまの私と比べると平々凡々。充実感がまるで違うと感じます。
若いころは、ジャズバンドでベースを弾いていました。好奇心が旺盛なのか、ジャズプレーヤーになって3年後には、もっと広い世界が知りたくなりました。戦後に父が抑留されていたシベリアを鉄道で渡り、ヨーロッパや北アフリカを旅しました。モロッコでは当時、世界中で活動していた赤軍派のメンバーと勘違いされて、3日間も留置所に入れられました。もっとも、昼間は外出が自由だったので、宿泊代がタダですみました。
帰国後は、日本の伝統芸能に興味を持つようになりました。俳優の小沢昭一さんが旗揚げした「芸能座」の劇団員になりましたが、しだいに1人で自由に演じられる落語に魅力を感じるようになったんです。
師匠は9代めの入船亭扇橋です。小沢昭一さんと俳句仲間だった扇橋師匠は牧歌的な芸風が持ち味で、日本の四季折々を巧みに表現するところに魅かれて入門しました。
真打になった39歳のとき、お祝い事はいっしょのほうがいいと考えて結婚しました。以後20年間、寄席や落語会を中心に仕事をしてきましたが、58歳のときに私の体をがんが襲ったのです。
いま振り返ってみると、がんの兆候として、ふくらはぎがひどく張っていました。しびれを感じたのでかかりつけの医師に診てもらうと、坐骨神経痛と診断されました。頻尿も覚えるようになったので診察を受けると、今度は前立腺肥大症かもしれないといわれました。
大学病院で診察を受けると、ステージⅣの膵臓がんと診断されて、即入院。手術で膵臓の一部と十二指腸、13ヵ所のリンパ節などを摘出しました。
膵臓がんは、早期発見が難しいことで知られています。当時はがんについての知識がなかったのでインターネットで調べてみると、5年生存率は7%とのことでした。
担当の先生に「私の余命は短いでしょうね」と聞いたら、先生はなんていったと思います?「大丈夫です。死ぬまで生きられますよ」と答えられたのです。
まるで落語に出てきそうな答えです。思わず、「そのセリフ、私の落語で使わせてください」とお願いしたほどでした。私は死ぬまで生きられる――この言葉のおかげで、気持ちがとてもらくになりました。
心の落ち着きを取り戻した私は、これから何をすべきか考えるようになりました。がんになる前は、いただいた仕事をこなしていればいいと思っていたのですが、生き方について真剣に考えるようになったのです。
子どものころの思い出がつまった千葉県勝浦市に移住。自宅の隣に造った寄席で落語会を開いています
まず実行したのが、父親の実家がある千葉県勝浦市に移住することでした。子どものころに何度も訪れた勝浦の町は、海水浴や昆虫採集、魚釣りなど、忘れられない思い出がたくさんある、もう一つのふるさとです。自然が豊かな勝浦は気候も穏やかで、1時間半もあれば東京に行くことができます。
人は誰でも最期は土に還ります。勝浦で畑を耕し、野菜を育てて自給自足の暮らしをしよう。そして、大好きな落語で勝浦の地域振興に貢献しようと思いました。酪農家ではなく、落語と農業を半分ずつして暮らす「落農家」をめざすことにしたのです。自宅の隣に小さな寄席(勝浦らくご館)を造り、若い芸人たちといっしょに落語会を開くと、毎回10~20人ほどのお客さんが来てくれました。
落農家として暮らしていた2015年、畑仕事中にめまいを感じました。すぐに病院で診てもらうと、3本ある冠動脈のうち、2本がつまった重度の心筋梗塞を起こしていたのです。本来なら我慢できないほどの激痛に襲われたはずですが、膵臓がんから重い糖尿病を併発していたこともあって、何も感じない状態になっていたとのことでした。医師の説明によると、心臓の異常を示す検査値が見たこともないほど高かったそうです。
手術で一命は取り留めたものの、運動は厳禁といわれました。畑仕事ができなくなった私は、勝浦市内の中心部に引っ越して、40人ほど入る勝浦らくご館を、あらためて造りました。畑仕事の代わりに家の周辺にある空き地で花を栽培しはじめた私は、「落農家」から「演(園)芸家」になったのです。
昨年、肝臓に転移したがんの手術を受けました。今年は膵臓と肝臓に加えて、大動脈付近のリンパ節に転移したがんの切除など、大きな手術をこれまで4回受けています。
「勝浦に落語を根づかせる」という私の取り組みが進んでいるのは、妻の協力があるからです。ジャズピアニストの妻は、プロデューサー的な才能に長けています。落語会への出演交渉やプログラムの作成は主に妻の担当。私が入院しているときでも落語会が延期や中止にならないのは、妻のおかげです。
がんと診断されてからしばらくは、自分ががん患者であることを隠して高座に上がっていました。がんであることを伝えたら、お客さんは笑うどころか引いてしまうと思ったからです。ところが、ある医師に「同じ病気の患者さんを励ますことも、あなたの使命」といわれて告白することにしたんです。すると、多くの方から応援されたり、同じがん患者さんから相談を受けたりするようになりました。がんになったことを機に、これまで知り合えなかった多くの人たちと親しくなれたと思っています。
落語を教えた生徒さんたちの発表を見て、落語が秘めている可能性をあらためて感じました
勝浦らくご館で地域の人に落語を届けながら、勝浦で行われるさまざまな催し物にも参加しています。特に力を入れているのが、2014年に開館した勝浦市芸術文化交流センター(愛称キュステ)で年に3回開かれている「勝浦落語会」です。2015年に開催された第1回の落語会には林家木久扇師匠にご出演いただきました。その後も林家正蔵師匠、三遊亭圓歌師匠、三遊亭好楽師匠など、高座やテレビで人気の落語家を中心に、漫才や紙切りといった色物も交えて地域の皆さんに楽しんでもらっています。今年の8月5日には林家たい平師匠、12月2日には三遊亭小遊三師匠に登場いただく予定です。キュステの中にある大ホールは800席以上あるのでなかなか満員にならないのですが、1人でも多くの人に来ていただきたいです。
キュステでは、一般の方を対象にした落語教室が開かれていて、私が講師をしています。生徒さんたちは全4回の講義を終えたら、ホールで落語を発表するんです。小学生を含む7人の生徒さんはみんな熱心で、創意工夫のある楽しい落語を聴かせてくれました。生徒さんの1人で、勝浦に伝わる民話の朗読活動を続けている女性は、なんと民話を落語風にして発表したのです。本職の私が感心するほど完成度の高い朗読落語を聴きながら、落語が秘めている可能性をあらためて感じることができました。
落語の醍醐味は〝ドカーン、ドカーン〟という打ち上げ花火のような笑い声です。笑うことで免疫力が高くなることは科学的に実証されているそうです。皆さんも落語で大いに笑って、どんどん健康になりましょう!