フリーアナウンサー 吉田 照美さん
『セイ!ヤング』『吉田照美の夜はこれからてるてるワイド』(共に文化放送)、『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系列)——昭和のラジオとテレビの名アナウンサーとして人気を博した吉田照美さん。マイクの前に立ちつづけるだけではなく、油彩画や漫画の創作など、その才能は多岐にわたります。表現の場を広げつづけている吉田さんに元気の秘訣をお聞きました!
ラジオの生放送中に突然、視界がぼやけて入院を経験しました

2026年3月に、9年間続いたBAYFMのラジオ番組が終了しました。BAYFMの放送局は千葉県にあって、神奈川県内の私の自宅からは片道2時間ほど。毎週日曜日朝9時からの生放送に合わせて出かけるとなると、なんだかんだで家を出るのは6時前でしたから、われながらよく頑張りました。
最終回の最後に「普通のおじさん、おじいさんに戻ります」と宣言したことが少しネットニュースなどで取り上げられましたけれど、引退宣言という意味ではありません。ただ、ほかにいうことが思いつかなかっただけです(笑)。まだほかの番組は続いていますし、YouTubeだってありますからね。
それにしても、番組が始まった時、私は66歳でしたから、まさに10年ひと昔。いってみれば、当時はまだ中年の延長戦くらいの年齢だったわけで、それがこうして75歳になるまで続けられたことには感謝しかありません。これも大病することなく、長らく健康でいられたからなのでしょう。
しかし、そんな私も昨年、人生初の入院を経験しました……。
発端は伊東四朗さんと一緒にやっている文化放送の生番組の最中に、突然めまいがして、視界が一気にぼやけ出したことでした。目の前にいる伊東さんの顔すらまともに見られないほどで、周囲も大慌て。幸い、5分ほどで症状は治まったものの、さすがにこれはただごとじゃないということで、その日のうちに病院へ行くことになりました。
そして、検査を受けたところ、最高血圧が190㍉もあって、即入院が決定。おまけに、ほんとうは1週間の予定だったのが、途中で尿路感染症にかかってしまい、結局、入院期間は2週間に及びました。
もともと遺伝的なものなのか、血圧は高いほうなんです。若い頃からいつ測っても180㍉前後もあって、それでも特に自覚症状がないものだから、20年以上もずっと放置していたんです。
それでも昨年、そろそろちゃんと検査しておこうと考えて病院へ行き、いくつか薬を処方されていたのですが、どうも体に合わない気がして、勝手に服用するのをやめてしまっていたんです。入院騒ぎはその直後のことでしたから、やはりお医者さんのいうことは守らなければなりませんよね。

ちなみに、初めての入院生活は、やっぱり新鮮な経験でした。月並みですけれど、あらためて健康の大切さ、ありがたさを知るいい機会になり、自由に行動できて、いつでも行きたい場所に行ける生活というのは、ほんとうに幸せなのだなと思い知らされました。
私はもともと東京の葛飾区の出身で、住所でいえば立石辺りで生まれました。当時そこに、父が勤めていた製紙会社の社宅があったためです。
その後、小学2年生の時に引っ越した先が柴又で、帝釈天が目と鼻の先という、なかなか味のある地域で暮らしていたんです。引っ越してからほどなく、寅さん人気で帝釈天が全国的な観光スポットになったのは、子ども心にも誇らしい出来事でしたね。
ちなみに、幼少期は漫画ばかり読んでいる子どもでした。父の職場に段ボールの原料として古雑誌が大量に送られてくるらしく、私のために何冊かくすねてきてくれるので、読むものには困らなかったんです。『鉄腕アトム』とか『鉄人28号』が連載されていた頃の話です。
物語の世界に夢中になるうちに、将来は漫画家になりたいと真剣に考えるようになりましたが、当時はまだ、漫画ばかり読んでいるとばかになるといわれていた時代です。親からは「漫画で食べていけるわけがない」と一蹴されたのを覚えています。

浪人生の頃は暗黒時代で話すのが苦手な性格に拍車がかかりました
逆に、アナウンサーになりたいなんて気持ちは、これっぽっちもありませんでした。というのも、基本的には人と話すのが苦手だったからなんです。私は一人っ子ですし、野球などチーム制の競技に打ち込んだ経験もなかったですから、おおぜいの中でコミュニケーションを取ることに苦手意識がありました。
やがて、大学受験に失敗して浪人生活を送るようになると、そうした性格にますます拍車がかかります。というのも、学生でも社会人でもない、予備校生という中途半端な立場がどうにも肩身が狭く感じられ、親にも申し訳ない気持ちでいっぱいだったからです。
今であれば、一浪や二浪を気に留める人は少ないのかもしれませんが、これも時代なのでしょう。とにかくすべてが息苦しくて、自分がどんどん暗い人間になっていくのを感じていました。一浪を経て、どうにか早稲田大学政治経済学部に進学できたことは幸いでしたが、この1年間はほんとうに苦しかったですね。
大学生になってからも、特に将来について具体的に考えることはなく、ほかの学生と同じように、銀行などに就職することになるのだろうなと想像する程度でした。
でも、せめて人並みに話せるようになりたいと思い、アナウンス研究会に入ったことが、今にして思えば運命の分かれ道でした。当たり前のことですけれど、アナウンス研究会というのは、当時の私のような暗い人間が入るところではないんですよ(笑)。
案の定、そのギャップを思い知ることになったのが、入会してすぐに出場させられたアナウンスコンテストです。

おおぜいの人の前に立って話すなんて、最も苦手とすることですから、これは参りました。ニュースを読み上げることは多少やれたように思いますが、問題はフリートーク。なんの下地もないのですから、いきなり人前で自由に話せといわれたところで、なにをどうすればいいのかも分かりません。果たして、ただただ絶句するばかりで、大恥をかくことになりました。
でも、ここでわれながら不思議だったのは、これに懲りてアナウンス研究会を辞めてしまうのではなく、翌年のアナウンスコンテストで雪辱を果たしたいと考えたことでした。
正直、この時の心境は今でもよく分からないのですが、よほど強い意志があったのでしょう。私は家庭教師で稼いだなけなしの小遣いをはたいて、アナウンス専門学校にこっそり通いはじめました。そこでアナウンサーとしての基礎がたたき込まれるわけですから、結果的にこれはいい判断だったのだと思います。
また、プロのアナウンサーの話術にもっと触れなければいけないと考えて、ラジオの深夜放送を聞くようになったのもその頃からでした。深夜放送なんて普通は高校時代とか予備校時代にはまるものなのでしょうけれど、話のうまい人たちの番組をあれこれ聞いているうちに、私は気がつけばすっかり熱心なラジオリスナーになっていました。
そこで初めて、「将来はこういう深夜放送をやるアナウンサーになりたい」と、明確に目標が定まったんです。
文化放送に合格し念願の深夜番組を担当できました
就職活動の時期を迎えると、私はいくつかの放送局を受けてみることにしました。しかし、専門学校に通っていたとはいえ、本気でアナウンサーを目指して頑張ってきた人たちからすると私は出遅れていましたから、思うような結果は得られません。
そんな中で唯一、私を採用してくれたのが、文化放送でした。これには親も大喜びでしたが、なぜ私が採用してもらえたのか、今でも謎なんです。実は、この入社試験の時の音声が残っているのですが、とにかくひどい出来で……。
実際、この試験の時に居合わせた、文化放送の先輩アナウンサーであるみのもんたさんからは、こんな言葉をかけられました。
「吉田くん、君は〝ら行〟の発音が弱いね」
みのさんとしてはなんの気なしに口にしたアドバイスだったのかもしれませんが、試験を受けた直後に駄目なところを指摘されたこちらとしては、不合格を覚悟するのも当然です。だからなおさら、合格の通知を受けた時はうれしかったですね。

とはいえ、当時の私は名も無き新人アナウンサーの一人に過ぎませんから、深夜番組をやりたいと望んだところで、実現するはずはありません。そうかといって、ニュースやスポーツ実況にたけているわけでもないので、なかなか番組を持たせてもらうことができませんでした。
するとある日、私が相撲好きであることを知った上司が配慮してくれたのか、『大相撲熱戦十番』という番組で、支度部屋のレポート担当をやることになりました。
ただ、これがなかなか難しくて、相撲の支度部屋というのは、黙っていても面白いネタが飛び込んでくるような場所ではありません。だから毎日、なにかしらの話題を見つけてマイクに乗せなければと、現場では必死でした。
でも、これはいい下積み期間だったのでしょうね。この番組は4年半ほどやらせてもらいましたが、自ら話題を見つけることにしだいに慣れていきましたし、その後、ラジオカーに乗って夕方の街に繰り出し、ネタを集めてレポートするような役どころが増えていきました。
念願の深夜番組が決まったのは、入社から4年目のことでした。『セイ!ヤング』という番組のパーソナリティに抜てきされたのです。
ところが、この番組の放送枠は、あろうことかニッポン放送の『タモリのオールナイトニッポン』と丸かぶり。タモリさんはすでに絶大な人気を博していましたから、わざわざこの時間帯に文化放送を聞こうなんて奇特な人は、まずいないでしょう。
でも、それで開き直れたのがよかったのかもしれません。どうせ誰も聞いていないのだから、好き勝手にやってやろうと腹をくくり、JR中央線(当時は国鉄)の車内で、空のジョッキを持って行ってリスナーの皆さんと乾杯したり、東京大学の合格発表の日に学生服姿で胴上げされてみたり、ほんとうにばかばかしいことをたくさんやらせてもらいました(笑)。
特に後者の東大の企画は、実際にNHKのニュースで放送され、〝ニセ胴上げ事件〟として物議を醸しましたが、永六輔さんが「吉田という若いアナウンサーが、ばかなことをやっていて面白い」と褒めてくださったのがうれしかったですね。
この時期は自分としても、学生時代にあまりそういうばかをやってこなかったことに気づいて、青春を取り戻すつもりでめちゃくちゃなことをやっていたような気がします。
その後、34歳の時に退社して、独立することを決意します。テレビに出させていただくようになったのもそこからで、『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系列)や『ぴったし カン・カン』(TBS系列)、『11PM』(日本テレビ系列)あたりをやっていた時期は、ほんとうに目の回る忙しさでした。
いちばん好きなことは漫画を描くことで夢中になれるんです

それでも体調を崩すことがなかったのは、いつでもどこでも寝られる特技があったからでしょう。それから、この年齢になって思うのは、人間はやはり、自分が好きなことをやるのがいちばんということです。
私の場合、大人になってから始めた油絵もそうですし、ある時からSNSに載せるようになった漫画がそれに当たります。特に漫画に関しては、粛々と描きつづけた結果、本にもなりました。『ロバロック 6869』という作品なのですが、少年時代に夢見ていた漫画家に、一歩近づくことができたわけですから、これは楽しいですよ。
そして今度は、この『ロバロック 6869』を、どうにかアニメ化できないかと考えて動いているんです。ものすごくお金がかかるので、まだ夢のような話なのですが、有名なアニメプロデューサーの方も協力してくれているので、いつか実現できればいいなと妄想しています。
こういう、夢中になれるものを見つけられたら、人生ってほんとうに幸せですよね。それが私にとって、いちばんの元気の秘訣です。ぜひ皆さんも、そういう題材を探してみてください。
取材・文/友清 哲 写真/村上庄吾

『ロバロック 6869』
メトロポリタンプレス、2,970円(税込)

ある時はラジオパーソナリティ、またある時は画家、マルチな活動を展開する吉田照美と、ロバート滝浪が、X、Instagramで連載中の4コマ漫画『ロバロック 6869』。2023年の単行本化で新たに大きな反響を呼び、今回、満を持しての続編刊行が実現。続編の第2巻は判型もひと回り大きくなり、より迫力のある画像でストーリーを楽しめる。
⬇︎⬇︎詳細はこちらから⬇︎⬇︎
https://www.amazon.co.jp/ロバロック-6869-第2巻-吉田照美/dp/4911209852
文化放送『伊東四朗 吉田照美 親父・熱愛』(毎週土曜日 15:00~17:00 好評放送中)

