歌手 野村 真希さん
出身地の奈良県桜井市を拠点に、関西エリアで高い人気を集める歌手の野村真希さん。「歌を聴くと元気が出る」と注目を集め、その人気ぶりは今や全国区になっています。多忙な芸能活動をしながら看護師の仕事も続ける理由についてお話を伺いました。
はしかの悪化から生死の境をさまよい幽体離脱を体験
今月の情熱人は、「現役看護師」の肩書を持つ異色の歌手・野村真希さん。関西地区から全国区へと人気が広がる野村さんは、幼少時から歌手になるのが夢だったそうです。
「幼い時はぬいぐるみよりも、動き回って遊ぶのが好きな子でした。教育熱心な家庭でしたから、『歌手になりたい』と両親に相談した時は猛反対されましたね。高校生時代はソフトボール部とコーラス部に所属して、憧れていた水森かおりさんや山口百恵さん、松田聖子さんの歌をよく口ずさんでいました」
歌手を志すことを両親に反対された野村さんは、子ども好きだったことから幼稚園の教諭免許を取得。ところが、幼稚園で働きはじめた数ヵ月後に原因不明の発熱を起こし、人生の転機を迎えます。
「病院で風邪といわれましたが、解熱剤を飲んでも熱は下がりません。母は昔から、ちょっとしたケガや病気では病院に行かなくていいと考える人でした。そんな母から診察をすすめられるほど、当時の体調はひどい状態でした。大きな病院で検査を受けると、はしか(麻疹)にかかっていることが分かったんです」
はしかは、感染力が強いウイルス性の疾患として知られています。野村さんのはしかはすでに重篤な状態で、画像検査では左右の肺が真っ白に写っていたといいます。その後、意識を失った野村さんは、2週間にわたって意識不明の状態が続き、生死の境をさまよったそうです。
「その時に、自分の体から魂が抜ける幽体離脱を経験しました。自分の体から抜けた魂が天井付近にとどまり、ベッドで寝ている自分の体や周りを囲む家族を眺めていたんです。一人ひとりの家族が何を思っているのか、心の中まで見えました。そのまま霊界(三途の川)に行くと、白い着物をまとった人たちが目に留まり、亡くなっていた祖父母の顔も見えました。祖父母が私を置いてそのまま行きそうになった時、現世にいる家族の声が聞こえたんです」
野村さんいわく「真希、戻ってこい!」と家族に何度も名前を呼ばれたとのこと。目を覚ました時はベッドに横たわり、点滴をはじめとした多くのチューブが全身に巻きついていたそうです。
「幽体離脱の経験がある人に話すと、『野村さんはこの世でやることがたくさんあるから戻ってきたんだよ』といわれました。突然やってきた幽体離脱の経験から、私の人生は大きく変わりました」
退院から2ヵ月後、野村さんを新たな異変が襲います。
「脳腫瘍が見つかったんです。自覚症状はまったくなかったのですが、なぜか太りはじめて男性のように体毛が生えてきました。不審に思って病院で検査を受けると、クッシング症候群と診断されました」
クッシング症候群は、副腎で作られるコルチゾールというホルモンが過剰に分泌される難治性の疾患です。肥満をはじめ、顔が丸くなったり、血圧や血糖値が上昇したりするなどの症状が現れます。医師から「手術をしても助けられるかどうか分からない」と告げられた野村さんは、わらにもすがる思いで祈りを続けたといいます。
「オカルト的といわれそうですが、幽体離脱を経験してから、自分自身がちょっと違う力を持っていることを感じるようになりました。また、幽体離脱を経験した後は、ご縁を大切にするようになっていました。そんな心境でご紹介いただいた病院で祈りを続けていたら、信じられない奇跡が起こったんです」
大病から救ってくれた病院への恩返しから看護師を目指し猛勉強
クッシング症候群の診断から2週間後にレントゲンと血液検査を受けると、すべてのデータが正常値に戻っていたという野村さん。医師は驚きながら、ずっと首をかしげていたそうです。
手術を受けることなく体調が回復した野村さんは、命を助けてもらった病院への恩返しを決意。医療事務の資格を取得した後、病院で勤務を始めました。医療事務を皮切りに、系列の看護学校の事務員、診療助手、専門学校の講師など、病院グループ内で多種多様な仕事を経験した野村さん。講師を10年続けた後、ついに看護師になる決意をしたそうです。
「はしかやクッシング症候群で苦しんでいた時、分かりやすくもしっかりと説明をしてくれる医師や看護師の方に頼りがいを感じていました。医療従事者として患者さんやご家族から頼られるには、なにを聞かれても迷いなく説明できることが大切と思ったんです。必死に勉強をした甲斐もあり、看護模試の成績はいつも全国で10位以内。成績を妬まれていじめにも遭いましたが、人の心の痛みが分かるようになると前向きにとらえました」
その後、野村さんは外部からの採用枠が1人という三重大学医学部附属病院の看護師試験に合格。その頃から、看護師の仕事の合間にカラオケ大会に出場するなど、歌への思いが再燃するようになったといいます。
「当時は、両親ともにがんと診断されて、闘病生活を送っていました。ある日、病床の母に『私、歌をやってもいい?』と聞くと、『歌やり』といってくれたんです。これが母と交わした最後の会話です」
自分の気持ちを大切にし、導かれるまま看護師と歌手の2つの顔を持つようになった野村さん。歌唱指導を受けていた先生から紹介されたのが、歌謡界の仕掛け人と呼ばれているプロデューサーの岡崎健一郎さんでした。岡崎プロデューサーとの出会いが、歌手としての才能を大きく開花させるきっかけとなりました。
看護師の仕事を通じて常識を超えた〝歌の力〟を実感
「看護師をしながら歌手活動をしていると、常識を超えた〝歌の力〟を感じることがあります。例えば、植物状態になってしまった患者さんのご家族に患者さんの好きな歌を聞いて、歌いながら体を拭いてたら、患者さんの目や手が少しずつ動きはじめたんです。その後も歌いつづけたら、患者さんは起き上がれるようになりました。歌には自然治癒力を高める力があることを目の当たりにしました」
縁を大切にする野村さんは、2011年に、寄り添って人生を歩む夫婦をテーマにした名曲『夫婦杖』でデビュー。現在までに10曲をリリースしています。
「歌手活動に集中するために、看護師の仕事を辞めることを考えた時もありました。そんな私の気持ちを見透かした岡崎プロデューサーから、『看護師と歌手を両立していることがいつか武器になる。野村さんは世の中の人を明るく元気にする天賦の才がある。そのパワーでお客さんも患者さんも元気にしてあげてほしい』といわれたんです。確かに、これは私にしかできないことかもしれないと、岡崎プロデューサーの言葉に感謝しています」
以後、歌手と看護師の二刀流を貫く野村さん。こんなエピソードもあったと振り返ります。
「歌謡界の大先輩として尊敬している鳥羽一郎さんとの歌謡ショーでの出来事です。突然、演奏者が倒れてしまい、救急車を呼んでもなかなか来ませんでした。すぐに応急手当をして駆けつけた救急隊に託しましたが、後から聞いたところ、くも膜下出血だったそうです」
くも膜下出血は、発症後に後遺症が残るケースが多い重篤な疾患の1つです。その演奏者は後に体調が回復して舞台に復帰できたそうですが、主治医いわく、野村さんが行った早期の処置が適切だったとのことでした。
独自路線を歩む歌手としての存在が広まるにつれて、野村さんの人気は関西地区を中心に全国区へと拡大。デビュー10周年記念曲『悠久の古都』は、有線放送(USEN)で20位にランクイン。関東エリアのCD売り上げは、最高2位を記録したそうです。
「2度の大病を乗り越えた身とはいえ、私には気管支ぜん息の持病があります。歌手活動を続けられることは奇跡に近いそうですが、運と縁をいただいたからこそ、今の自分があります。感謝の気持ちを忘れずに、私にしかできないことがあると信じて、元気と勇気、生きる力をお届けしていきたいと思います」