元スキージャンプ選手 原田 雅彦さん
2026年2月6日から、イタリアでミラノ・コルティナ2026冬季オリンピックが開催され、大きな盛り上がりを見せています。そこで今回は、通算で日本人最多9個のメダル獲得を果たしたスキージャンプ界のレジェンドである原田雅彦さんがご登場。現在は雪印メグミルクスキー部アドバイザー、全日本スキー連盟会長という要職で活躍する原田さんに、元気の秘訣をお聞きしました!
小学校3年生の時の人生初スキージャンプの飛距離は7㍍ほどでした

初めてスキージャンプを経験したのは、小学校3年生の時でした。僕が生まれ育った北海道の上川町は、豊かな自然以外になにもない小さな田舎町ですが、我が家から歩いて3分ほどの場所にたまたまスキーのジャンプ台があったんです。小規模なスキー場に併設されたもので、おそらく1972年に行われた札幌オリンピックに合わせて、選手の育成用に作られたものだと思います。
小学校の頃から、冬は授業が終わると自然にみんながスキー場に集まるのがいつものパターンで、普通のスキーに飽き足りなくなると、そのジャンプ台が格好の遊び場でした。
ただ、スキーとスキージャンプとでは、さすがに少し勝手が異なるので、初めてスタート台に立った時はすごく怖かったです。
ジャンプ用のスキー板というのは、通常のものと違い、長くて幅広なうえ、かかとの部分が上がる仕様になっています。いつもと感覚が異なることに加え、いざスタート台に立つと思っていた以上の高さがあり、おそろしくてなかなか一歩を踏み出すことができません。ジャンプ台の向こうに飛び出した時、いったいなにが起こるのか想像もつかず、なかなか滑りはじめる踏ん切りがつかないんです。
そうかといって後にも引けず、その様子を見ていた先輩たちに「早く、早く」とせかされる中、覚悟を決めて飛んだ人生初ジャンプ——これが、驚くほど気持ちよかったんです。
技術もへったくれもなく、ただ斜面を滑走し、その勢いでポーンと飛び出しただけですが、飛んだ瞬間に体がふわりと浮かぶような、文字どおり風に乗っているような感覚があったんです。
この時の飛距離は7㍍ほど。しかし、この体験が衝撃的で「もう一度飛びたい」という思いがいつしか「もっと遠くへ飛びたい」という気持ちに変わり、僕はそのまま38歳で現役を引退するまで飛びつづけることになったんです。
上川町では、雪が降り出すとみんなで除雪をするため、町内のあちこちに雪山ができます。子どもたちはその雪山で、ミニスキーを履いて滑って遊ぶのが常でした。
そのうち、雪かきの山では物足りなくなって、スキー場へ足を運ぶようになるのですが、我が家は裏手のスキー場から、そのまま坂道を滑って帰れる好立地だったので、なおさらスキーが身近なものになったのかもしれません。
また、山あり川ありの地域ですから、夏は夏でそこらじゅうを駆け回ったり泳いだりしていたので、意識しなくても身体能力が養われる環境だったと思います。
実際、自分でいうのもなんですが、子どもの頃から運動神経はよかったですね。球技でも駆けっこでもいつもクラスでいちばんで、運動会ではちょっとしたスターでした。
中学、高校で全国制覇し名門・雪印から声がかかり実業団に進みました

だから、中学生時代にスキージャンプで全国優勝した時も、あまり特別なこととは思いませんでした。それよりも、この競技を通して友だちがたくさんできたことがうれしかったのを覚えています。僕は2人兄弟で、6つ年上の兄がいるのですが、一緒に遊ぶには少し年齢が離れていました。それがスキージャンプを始めてからは、年の近い子どもとの接点が増えました。
ちなみに、当時一緒にスキージャンプを楽しんでいた仲間の1人には、高梨沙羅選手のお父さんがいます。彼もまた、出る大会は片っ端から優勝する天才選手だったので、娘さんの活躍には納得しています。
そのまま高校生になってからも当たり前のようにスキージャンプを続け、インターハイでも優勝することができました。
だからといって、スキージャンプが職業になるなんて、当時は夢にも思っていなかったのですが、好成績を残していたおかげで、高校を卒業するタイミングで雪印乳業(当時)のスキー部から声がかかりました。雪印といえば、プロ野球でいうところの読売ジャイアンツのような名門ですから、このお誘いに一も二もなく飛びついたのはいうまでもありません。これが1987年のことです。
当時、日本のスキージャンプ界は低迷していました。メダルを独占した札幌オリンピックで一時的に盛り上がりはしたものの、その後は右肩下がり。世界レベルからどんどん引き離されている状況でした。
そのため、実業団で競技を続ける決意はしたものの、世界を目指そうとか、金メダルを取りたいなんて考えはみじんもなく、ただ大好きな競技を続けて生きていけることに満足していました。
そんな、のらりくらりとした競技者生活を続けていましたが、やがてスキージャンプの歴史が大きな転換期を迎えます。「V字ジャンプ」の登場です。

今ではスキー板をV字に開いて飛ぶのが当たり前になっていますが、かつてはみんな、板を真っすぐ平行にそろえて飛ぶのがセオリーでした。
そんな中、スウェーデンのある選手が、足を少し開いて飛んでいるのを目にした時は、「なんだあの飛び方は」「格好悪いな」などと仲間内で話題にしていました。
ところが、その選手がどんどん飛距離を伸ばしはじめて、あれよあれよという間に世界一にまで上り詰めます。これによりがぜん、「あの独特の飛び方に秘密があるのではないか」と、スキージャンプ界がざわめきはじめました。
おそらくそのスウェーデンの選手は、計算してやっていたわけではないと思います。ただ本能的に、板を開いたほうが飛べそうだと感じていただけなのでしょう。しかし、僕たちはそこにいち早く着目し、しっかり研究して取り入れようと考えました。
とはいえ、それまでのフォームを抜本的に変えることになるわけですから、これはなかなか勇気のいる作業です。そもそも、それまで誰もV字ジャンプなんて経験していないのですから、教えてくれる人もいなければ教科書も存在しません。
いつもマイペースに、笑顔でいることが僕の健康法なんです

現役時代とはまったく異なる、規則正しくて穏やかな生活で、心身ともに健康でいられるのも、こうして好きなことに関わって生きているおかげではないでしょうか。
いわゆる生きがいというのは重要で、今も指導者として好きなスキージャンプに関わっているから、いつも笑顔でいられるし、ストレスにさいなまれることもありません。いい年をしてと、珍しがられるかもしれませんが、僕は今も現役時代に負けず劣らず、毎日が楽しくてしかたがないんですよ。
そして、理想は自分だけが笑顔でいるのではなく、周りの人たちも積極的に巻き込んで、コミュニケーションを通してみんなを笑顔にすること。これに尽きます。やはり、難しい顔をしている人に囲まれているよりも、ニコニコした人たちと一緒にいるほうが幸せですからね。
今後もこうした自分なりの健康法を大切にしながら、スキージャンプの魅力をより多くの人に伝えていきたいと思っています。そして、今の選手たちには、初めて飛んだ時の感動を忘れずに、この競技を全力で楽しんでほしいですし、できることならいつの日かまた、日本での冬季オリンピック開催が実現すれば最高ですよね。その日まで僕も、指導者としてまだまだ頑張りたいと思います。

