株式会社A and Live代表取締役(ジャパネットたかた創業者) 髙田 明さん
方言を生かした自然体のトークと明るくテンポのいい情熱的な語り口でおなじみの、ジャパネットたかた創業者・髙田明さん。息子の旭人さんに代替わりした後は、個人事務所の株式会社A and Liveを設立。人生や仕事の哲学、夢を持ちつづける重要性などについて伝える活動を行っています。その原動力を探るため、長崎県佐世保市を訪ねました。
商売よりも英語に強い興味を持っていた青春時代でした

私の両親は長崎県平戸市で、「カメラのたかた」というカメラ店を営んでいました。4人兄弟の6人家族で、夜は八畳程度の狭い部屋でぎゅうぎゅう詰めになって眠っていたのも、今では懐かしい思い出です。
でも、両親の姿を見て商売に目覚めたのかというと、そういうことでもなく、どちらかといえば昔から海外志向の強い子どもでした。特に英語の勉強に熱心だったことは、私の人生に大きな影響を与えているように思います。
きっかけは中学校時代、英語が堪能な叔父に、なにげなく「ペンの代わりに万年筆を使う」は、英語でどう表現するのか聞いてみた時、叔父が瞬時に、「instead of(~の代わりに)」というフレーズを口にしたことに、なんだか感動してしまったんですよね。違う国の言語に堪能であることがとても格好よく見えたのでしょう。
高校生になってからも英語熱は冷めず、平戸の街角で外国人のそばで聞き耳を立てているだけでわくわくしていました。
だから、大学生になったら絶対にESS(English Speaking So-ciety)に入ろうと決めていたんです。第1志望の国立大学には入れませんでしたが、大阪の私立大学(大阪経済大学)で過ごした4年間は、思う存分、英語を学ぶことができました。
当時のESSのOBにはヨーロッパをはじめ世界各国を飛び回っている人がおおぜいいて、私の中の海外志向は強まるばかり。当時は米ソ冷戦の時代でしたから、海外渡航は今ほど気楽なものではなかったので、なおさら強い憧れを持ったのでしょうね。
ちなみに、この時期に関西にいるというのは、英語を学ぶうえでも非常に都合のいいことでした。なぜなら、1970年に大阪万博があったからです。
私は20回ほど会場へ足を運びましたが、当時大きな話題になっていた月の石の展示などはそっちのけでした。目的は会場に来ている外国人を捕まえて会話をすること。ただそのためだけに万博会場に通い詰めていたんです。
また、大学在学中にアルバイトしていた京都府内の機械製造メーカーの貿易部門の責任者は、私に英語をよく教えてくれていた叔父でした。そのご縁で卒業後もそのまま、当時、機械の輸出に強いこの会社の貿易部門でお世話になることになりました。
熱心に英語を学んだ賜物か、社会人になると比較的早いタイミングで海外駐在も経験させてもらいました。特に1972年には、8ヵ月ほど西ドイツのデュッセルドルフに駐在したのですが、この時期にポーランドやハンガリー、東ドイツといった東欧諸国やフランス、イタリアなど、ヨーロッパの大半の国を訪ねています。
多くの学びを得られた会社員時代でしたが、今もとりわけ印象深いのは、社長のイタリア出張に同伴した時のことです。
バスでミラノ辺りを移動していた時、私はうたた寝をしていたのですが、その様子を見た社長が優しい口調でこういったんです。
「髙田くん、バスから外の景色を眺めることも勉強の1つだよ」
正直、その時は意味がよく理解できませんでしたが、後に自分が起業して、社員が50人、100人と増えていくうちに、社長の言葉の真意が分かるようになりました。要は、何事も関心を持って当たることが重要ということで、実はこれに近いことをニーチェも本の中にしたためているんです。
ニーチェは病に苦しめられながら、ヨーロッパ各地を10年ほどかけて回っていた時期があります。そこで体験したことについて、「楽しかった」とか「おいしかった」ですませるのではなく、その道中のどこに自分が価値を感じ取るのかをしっかり考えると、旅そのものの価値が格段に上がると彼はいっています。あの時、社長が私に伝えたかったのはまさにそういうことなのでしょう。
日常のどこに自分を成長させてくれるヒントが落ちているのかは分かりませんし、異国で過ごしているならなおさらでしょう。この言葉は今も私の中で大切な糧になっています。
退職して翻訳会社を立ち上げましたが無職になりました
さまざまな勉強をさせてもらった会社員時代ですが、勤続期間は意外と短く、25歳で退職しています。きっかけは海外駐在時に発生した歯の痛みでした。
現地の歯医者に診てもらっても、いっこうに症状は治まらないのでほとほと困っていたところ、それを心配した本社から「戻ってきなさい」と指示が来て、私は渋々帰国することになりました。
ちょうどこのタイミングで、学生時代からの親友である中倉玄喜から、「一緒に翻訳の会社をやらないか」と声がかかったことも、退職を決めた理由の1つでした。後年、中倉は『新訳 ローマ帝国衰亡史』『ガリア戦記』といった大著の翻訳を手がける翻訳家になりました。その彼が一緒に翻訳会社を立ち上げようという、なかなか魅力的な誘いでした。
でも、甘くなかったですね。この仕事はあまりうまくいかず、半年ほどで手じまいすることになりました。やはり、英語が少々話せるからといって、翻訳や通訳で食べていこうというのは簡単なことではありません。
結果、25歳にして無職になってしまった私は、大阪の喫茶店で1人、コーヒーを飲みながらあれこれ思いを巡らせていると、店内に設置されていたジュークボックスが目に留まりました。なんの気なしに硬貨を入れると、流れてきたのは、渡哲也さんの『くちなしの花』。私は思わずその歌詞に聞き入ってしまいました。その時の心境にちょうどマッチするものがあったのでしょうね。
「一度、故郷に帰ってみよう」
そう思い立つと、その日のうちにすべて引き払って故郷の平戸市へ戻ることにしました。そして、次の仕事が見つかるまで、ひとまず家業のカメラ店を手伝うことにしたんです。
もしもあの時、歯の痛みが起こっていなかったら、そもそも日本へ戻ることもなかったでしょうし、もうしばらく会社員生活を続けていたはず。そうなると、ジャパネットたかたは存在していなかったかもしれないわけですから、人の運命とはほんとうに面白いものですよね。
カメラ店の仕事で培ったコミュニケーションが躍進の秘訣なんです

先々のことを考えることもなく、わりと気楽に手伝いはじめたカメラ店の仕事でしたが、ほんの1週間ほどでこの世界にどっぷりとはまってしまいます。英語を使う仕事がやりたいという願望や、ヨーロッパでの記憶なんかが一瞬で頭の中から吹き飛んでしまうほど、カメラの仕事が面白かったからです。
平戸は当時、観光産業で栄えていました。なにしろ出島よりも前から世界とつながっていた港町ですから、歴史や文化の宝庫で、年間180万人もの人々が押し寄せる人気ぶりでした。
そんな平戸で、ほかの兄弟たちと一緒にホテルの宴会場へ行って、写真を撮る仕事などをしていました。撮影に関しては素人でしたけど、毎晩いろいろな人たちと触れ合いながらカメラを構えるのが楽しく、場数を踏むうちに自然とカメラの扱いにも慣れていきました。
ほかにも結婚式の写真や学校のアルバム撮影、カメラの販売にプリントサービスなど、カメラ店としての仕事は多岐にわたり、この当時、年間の売り上げは3000万円ほどあったと思います。1日当たりに換算すれば10万円ですから、商店街の1店舗としては立派なものですよね。
そんな仕事を5年ほど続け、30歳になったところで、新たに平戸よりも人口が多い佐世保市に支店を出すことになりました。場所は、中心街から少しはずれた三川内という地域に決まり、次男の私が担当することになりました。そして、佐世保支店営業所の所長を七年やり、経営も軌道に乗ってきた頃、そろそろ家業から離れ、独立しようという話が持ち上がり、「株式会社たかた」を設立しました。私は37歳になっていました。
独立後も、しばらく平戸店時代からのスタイルは続けました。毎晩、宴会の時間に合わせてホテルへ行き、撮ったフィルムを夜中のうちにすべて現像し、仕上がった写真を持って早朝に再びホテルへ戻るという過酷な日々。しかし、自分が撮った写真にお客さんたちがワッと群がる様子がうれしくて、少しも苦には感じませんでした。
売り上げは順調に伸び、私は41歳まで三川内と隣接する、佐賀県の嬉野温泉に通いつづけることになりましたが、実はこの時に、後の通販事業に役立つ得がたい経験がありました。

宴会の翌朝、自分が写っている写真を探すお客さんの中には、「私はこんな顔じゃない」と、自分の写真写りに不満をこぼす人もいらっしゃいます。こちらとしては買ってもらえなければ収入にならないので、それでは困ってしまいます。
そこで、撮影する際に積極的に声をかけて「こっちを向いてください!」「もっと笑顔で!」とコミュニケーションを交えてシャッターを押すように心がけました。そのうち慣れてくると、5、6人のグループで撮影する時でも、全員がしっかりカメラ目線で撮れるようになり、結果的に写真がさらに売れるようになりました。
まさしくここに、通販ビジネスの真髄があります。当時売っていたスナップ写真は1枚500円程度のものでしたが、人は結局、それがいくらであっても対価に見合っていなければお金を払うことはありませんよね。声をかけながらの撮影は、まさにその〝対価〟を生むための仕掛けだったわけです。
私はその後、たまたまご縁をいただいたラジオショッピングをきっかけに、通販事業に乗り出すことになりますが、これはいわば、ホテルの宴会で酔客を相手に実践していた声かけのコミュニケーションを、お茶の間の皆さんに置き換えたことが成長の要因になったのではないかと思います。ラジオでもテレビでも、本質的にはそれをどういう人たちが見ていて、なにが求められているのかを想像することが重要です。ジャパネットたかたでは、今でもこの想像する力を大切に引き継いでくれています。
自分の寿命は決めていて117歳まで元気に生きると思っています

現在は息子に代替わりをし、私は個人の活動に注力する日々を送っています。毎日とても忙しくしていますが、ありがたいことに大病とは無縁ですこぶる元気です。たぶん、あまりくよくよしない性格がよかったんでしょうね。少々嫌なことがあっても、ストレスをためず、すぐに忘れてしまいますから。
実際、よく「過去の失敗体験は?」と聞かれますが、ほんとうになにもないんですよ。ただ、うまくいかなかったことは山ほどあります。うまくいかなかったことは失敗ではなく、試練ですから、10回でも20回でも積み重ねたぶんだけ人間的に強くなれるはず。つまり、何事も気の持ちようなんですよね。
だから、私は自分の寿命も自分で決めているんです。当時の男性の長寿記録が116歳ですから、記録を上回る117歳まで生きよう、と。
講演などでこの話をすると、たいてい皆さんは笑います。でも、117歳まで生きようと思っていれば、100歳まで元気に生きられる未来が待っているかもしれません。
マイナス思考を捨ててプラス思考に、ストレスを振り払って今を一生懸命に生きること——それが私にとって、いちばんの元気の秘訣なのだと思います。



