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心地のいい距離感を大切にしながらマイペースでいることが健康法です

私の元気の秘訣

元プロボクサー ガッツ石松さん

合羽かっぱ三度笠さんどがさ姿の入場シーンで人気を集め、「幻の右」でファンを熱狂させた、元プロボクサーのガッツ石松さん。引退後は俳優、タレントとして活躍し、「OK牧場」のギャグでお茶の間に親しまれて元気を届けてきました。「ガッツポーズ」の由来にもなっているガッツ石松さんに元気の秘訣ひけつをお聞きしました!

野球選手に憧れながらボクシングの世界に足を踏み入れたんです

[ガッツいしまつ]——1949年生まれ、栃木県出身。中学卒業後に上京し、ヨネクラボクシングジムに所属。2度目のプロテストで合格、1966年にプロデビュー。1968年に全日本ライト級新人王、1972年に東洋ライト級王座を獲得。1974年に3度目の世界挑戦でアジア人初となるWBC世界ライト級チャンピオンとなり、以後連続5回の防衛に成功。1979年の現役引退後はタレント・俳優として幅広く活躍。『太陽の帝国』『ブラック・レイン』など映画にも多数出演し、タレントとしては「OK牧場」のギャグでお茶の間に愛される。ボクシングの通算戦績は51戦31勝(17KO)14敗6分。

私は栃木県かみ都賀つが郡(現・鹿ぬま市)という地域の生まれなのですが、我ながら幼少期からいっぷう変わった子どもだったように思います。悪ガキといえば悪ガキだったのでしょうが、なにしろ超のつく田舎いなか町なので、私のように「一を見て三や四を発想する」ような子どもは、どうしても浮いてしまうんです。周囲はおとなしい常識人ばかりだったので、なおさらでしたね。

出る杭は打たれるというやつで、田舎では目立っていいことはなに1つありません。私の場合、なにをやっても大人たちから「おまえ、またなにか悪さをしているんじゃないだろうな」と、疑わしい目で見られるのが常でした。

確かに若気の至りで多少のやんちゃはしていましたけれど、学校の先生やお巡りさんからも目をつけられていて、居心地の悪い思いをしたものです。だから、当時は早く大人になって自由に暮らしたいと、常々思っていました。

ただ、運動をやらせれば誰よりも得意だったので、将来は体育の先生になりたいと考えていました。先生というだけで周囲が尊敬してくれる時代でしたから、きっと周囲も私を見直すにちがいないと考えたんです。

けれど、家庭の事情もあって残念ながら高校進学を諦めなければならず、中学校卒業後は東京へ出てさまざまな仕事を転々とすることになります。

日雇労働のような仕事をやりながら、どうにかこうをしのぐ日々——。ボクシングジムに入門したのは、そんな頃でした。

ほんとうは野球選手に憧れていたんですが、プロ野球の世界を目指すには高校野球で活躍しなければなりません。高校に進学できなかった私には、かなわぬ夢だったわけです。ならば、パンツ一丁でできるボクシングをやろうと気持ちを切り替えました。

ちなみに、私の少年時代はしらよしさんやファイティングはらさんが活躍していた頃で、ボクシングは国民的な人気を集めていました。どうせならファイティング原田さんと同じジムに通いたいと考えましたが、そのジムがどこにあるのか、なにも情報がありません。

どうしたものかと思案に暮れていたところ、おおつか駅のそばに、ヨネクラボクシングジムがあるのを見つけて、すぐに入門を決めました。ヨネクラジムは、後に私を含めて何人もの世界チャンピオンを輩出する名門ジムになりますが、当時はまだ名もなき小さなジムでした。

私としては腕っぷしには自信があったものの、ジムのトレーナーから見れば、どこの馬の骨とも分からない新人にすぎません。だから、入門当初はろくに指導もしてもらえず、見よう見まねでトレーニングに励むしかありませんでした。

それでも、スパーリングという実戦形式の練習をやる機会があると、たいていの相手には負けることなく、ぶっ飛ばしていました。今思い返しても、基礎もなにもないけんかボクシングでしたけれど、そこは勝てば官軍の世界です。次々にいろいろな相手をぶっ倒すうちに、トレーナーから「おまえ、どこかでやっていたのか」と目をかけてもらえるようになりました。

「早く大人になって自由に暮らしたいと、常々思っていました」

シンプルにぶん殴り合いとしてボクシングを楽しんでいた私ですが、それでも練習メニューの1つひとつを、ちゃんと考えながらこなしていました。

例えば、左ジャブ。私は後に「幻の右」というフレーズが定着するように、右ストレートが得意な選手とよく評価されます。しかし、実際には左のジャブをたくさん練習していました。

ボクシングの世界には「左を制するものは世界を制す」という格言があり、強い右を当てるには、左ジャブからの組み立てが重要とされています。これはとても理にかなっていて、相手も訓練されたプロボクサーですから、いきなり大きな右ストレートを狙ったところで簡単によけられてしまいます。

だから、左で相手の気をそらし、距離を測りながら、ベストなタイミングを見計らって右を放つ。そうした理屈を早いうちから理解していたからこそ、私は徹底的に左ジャブの精度を上げる練習に取り組んでいたんです。

手前みそですが、ボクシングに限らずあらゆるジャンルで一流になる人は、周囲が思っている以上に頭を使っていると思いますね。

リングネームは「鈴木石松」に決まりしっくりきませんでした

仕事のかたわら練習に打ち込み、晴れてプロデビューを迎えたのは1966年の12月でした。

デビュー戦は1ラウンドKO勝ち。これは幸先さいさきのいいスタートだと自分でも思いましたが、キャリア初期の頃の私は、勝ったり負けたりを繰り返す平凡な戦績のボクサーでした。

理由は、やはり練習不足だったのでしょう。自分なりに頑張っているつもりではありましたが、しっかり準備が整う前であっても、ジムから「おまえ、来週試合やるか」といわれれば、私は喜んでOKしていました。なぜなら、試合をやれば当時の金額で3300円のファイトマネーがもらえるからで、要は目先のお金に飛びついていたんです。

それでも、3年ほど戦いつづけたところで、私は全日本ライト級新人王になりました。

同期のウェルター級の新人王はじまこういちさんでしたが、同期で世界チャンピオンが2人も出たのは当たり年でしたよね。

伝説の名トレーナーとしてボクシングの歴史に名を残す、エディ・タウンゼントさんの指導を受けるようになったのもその頃からでした。

エディさんは、とにかく選手をよく褒める人で、当時のボクシング界ではかなり珍しいトレーナーでした。教え方も上手で、常に選手が気分よく動けるように乗せてくれるため、エディさんに練習を見てもらうようになってから、自分の実力がどんどん上がっていくのを実感したものです。

ちなみに、この頃のリングネームは本名の鈴木有二すずきゆうじではなく、鈴木石松すずきいしまつでした。これは周囲から「おまえは森の石松にそっくりだ」とよくいわれていたことに由来しています。暗に「ばかは死ななきゃ治らない」といわれていたのでしょうね(笑)。

正直に明かせば、最初はこのリングネームにすごく違和感がありました。鈴木有二という本名を気に入っていたというのもありますが、このリングネームに合わせて、入場の時に三度笠を被らされたりしたことから、「自分はボクサーなのになぜこんなことをしなければならないのか」と、内心ではちょっとふてくされていたものです。

「コツコツと左ジャブから丁寧に磨いてきた私のボクシングが、とうとう世界一の座をつかんだんです」

さらにその後、お世話になっていた後援者の方が私にこういいました。

「君はすごく素質のあるボクサーなのだから、もっとガッツを全面に出して戦ったほうがいい。そうだ、リングネームにガッツを取り入れたらどうだろう」

こんな雑談が元で、私はリングネームをガッツ石松に変更することになりました。しかし、これもやっぱり最初はしっくりこなくてイヤだったんです(笑)。当時はこんなネーミングのスポーツ選手を見たことがなかったので、なんだか色物扱いされているような気がしていたんです。

そんな思いとは裏腹に、私はボクサーとして順調にステップアップしていきます。

初めて世界挑戦のチャンスを得たのは、1970年のことでした。敵地、パナマに乗り込んで挑戦した試合で、この時は残念ながら13ラウンドTKOで敗れてしまいました。

それでも東洋ライト級タイトルを獲得するなど再び世界へ向けて走りつづけ、ついに悲願だった世界チャンピオンのベルトを手にしたのが、1974年4月11日のこと。下馬評では「圧倒的不利」といわれながら、ロドルフォ・ゴンザレスというメキシコのチャンピオンに8ラウンドKO勝ちしました。

世界チャンピオンになり思わず出たポーズが「ガッツポーズ」なんです

勝負を決めたのは、やはり「幻の右」でした。コツコツと左ジャブから丁寧に磨いてきた私のボクシングが、とうとう世界一の座をつかんだんです。

リング上で両手を上げたガッツ石松さん。新聞に大々的に載り、「ガッツポーズ」と呼ばれることになる

この時の気持ちは、もうとにかく最高のひと言に尽きますよね。

なにをやっても周囲に認めてもらえなかった幼少期や、勝ったり負けたりを繰り返していたルーキー時代を思い出しながら、私は勝利をあげたリング上で思わず、「やったぞ、バカヤロー!」と叫びながら両手を上げていました。

この様子が新聞に大々的に載り、私のリングネームにちなんで「ガッツポーズ」と呼ばれることになります。今も普通に言葉として定着しているのですから、ガッツ石松というリングネームもあながち悪いものではなかったのかもしれませんね。

なお、世界チャンピオンになったことで、生活は一変しました。当時は今よりもボクシングの認知度が高かったからなおさらで、どこへ行ってもチヤホヤされるようになります。

でも、そういう時こそ自重して、自分を律しなければいけないと考える頭はありました。その後、5度の防衛に成功することができたのも、そうした生活態度のたまものだったと思います。

世界タイトルを失ったのが1976年の5月で、その後、もう一度世界に挑戦したもののタイトル奪還はかなわず、私は1979年に現役引退を決意しました。

心境として完全にすべてをやりきったと思えましたから、いい退き際だったのではないでしょうか。

「自分のコンディションには常に敏感でいるよう心がけています」

引退後は芸能界にお世話になりますが、これはたかくらけんさんやすがわらぶんさんに憧れていたから。セカンドキャリアとして、私は役者になろうと考えたわけです。

もちろん、周囲からは冷ややかな声もありました。ボクシングで成功したからといって、芸能界でも成功できるわけがない、と。それも当然でしょう。

結果的に、私は幸運にもさまざまな役柄で映画やドラマに出演することができましたし、自分で『カンバック』という映画を撮ることもできました。やりたいことにはなんでも挑戦し、衆議院選挙に立候補したこともありました。

あれこれと自分の信念に基づいて挑戦した結果、大きな借金を背負うはめになったこともありましたが、後悔はありません。76歳になった今は、少しは落ち着いてきたように思いますが、まだまだ元気です。

ただ、自分のコンディションには常に敏感でいるよう心がけています。お酒を飲みたいなと思っても、体調によっては量を控えめにしたり、食事の内容に気をつけたりしています。

ボクシングも健康も自分との闘いでありマイペースが大切です

ボクシング界や芸能界とのお付き合いもあるので、どうしてもお酒を伴う機会は多くなりますが、誘いを断るのも人付き合いのうちだと私は考えています。体調がよくないのに無理して出かけて、結果的に相手の迷惑になるようなことがあっては意味がありません。だったら、次につながるよう、誠実にお断りするほうがいいでしょう。

私のキャラクター的に、テレビ番組などではちょっとばかにされているようないじられ方をすることも多いのですが、有名税のようなものと割り切ってしまえば、精神的なストレスを抱えることもありません。

その意味では結局、ボクシングも健康も、自分との闘いなんですよ。世間は勝手な言葉で自分のことを評するかもしれないですが、最終的に自分のしりを拭くのは自分であるはず。

しかし、だからといって他人を他人として無視してもいけません。他人もまた、身内の1人だと思います。

つまり、「あてにしすぎず気にしすぎず」、自分で心地のいい距離感を大切にすることがいちばんです。マイペースでいられれば、それが健康法であり、元気の秘訣になるのではないでしょうか。