プレゼント

健康第一の生活をしながら体重ではなく人気がリバウンドするように仕事に取り組みます

私の元気の秘訣
タレント せんだ みつおさん

『ぎんざNOW!』『うわさのチャンネル』で名司会を務め、〝ナハナハ〟のギャグでおなじみのせんだみつおさん。3度の大病を乗り越えた現在も、イベントの司会や役者として精力的に活動を続けています。いつまでもパワフルなせんだみつおさんの闘病談や元気の秘訣を伺いました。

大病を乗り越えてスカウトされ子役で活躍した少年時代

[せんだ・みつお]——1947年、樺太真岡郡真岡町(現・ロシア連邦サハリン州ホルムスク)生まれ。子役時代を経て、1969年に『ワゴンでデート』(ニッポン放送)で初司会を務める。その後、『ラジオカウント』『セイヤング』『ハローパーティー』など、ラジオ番組の人気司会者となる。『ぎんざNOW!』(TBS)、『うわさのチャンネル』(日本テレビ)の司会でも人気を博す。「ナハナハ」などのギャグでも知られ、バラエティやドラマ、映画、ラジオなど、多方面で活躍中。

いまでこそ、こうして70歳でも元気に仕事をさせてもらっていますが、僕は過去に3度も大病を患っているんです。

最初はまだもの心がつく前のこと。親の仕事の都合で、樺太で生まれた僕は、生後まもなくくる病(骨の石灰化障害)を患ったそうです。日ざしの少ない土地ですから、やはりビタミンDが不足したのでしょうね。背骨が大きく曲がり、医師から「これは完全には治せない」と、さじを投げられるほど重症だったと聞いています。

ただ、母親いわく、リンゴをすり下ろして与えればちゃんと飲み込む子どもだったので、「生命力のある子だ」と感じてはいたようです。

1歳になるかならないかというころ、僕たち一家は日本へ引き揚げることになり、宮崎県で暮らしはじめました。宮崎といえば、日ざしたっぷりの南国です。環境がよかったのでしょう、くる病の症状はみるみる改善していきました。結局、もの心つくころには完治していたので、知らぬは本人ばかりなりという状態。これが僕の悪運の強いところですよね。

その後、親の仕事の都合で東京へ引っ越すことになりますが、特に病気の影響もなく、人並み以上に元気な小学校生活を送りました。

ある日、親戚のお兄ちゃんに連れられて街を歩いていたら、見知らぬ大人が近寄ってきて、劇団に入らないかといわれたんです。いわゆるスカウトです。

自分でいうのもなんですが、当時の僕は目がくりっとしたかわいらしい子どもでしたからね。母親もすぐにその気になってしまい、「この子にはスターになる素質がある!」といいだしました。

僕はもともと目立ちたがり屋ですから、いわれるがままに劇団入りを決め、学校生活を送る傍ら、子役として舞台に出演したり、雑誌のモデルをやったりしていました。これが小学3年生のときのことです。

しかし、当時はまだまだテレビの黎明期。そのまま芸能界へ進もうという雰囲気はまったくなく、5年生になると親も「そろそろ将来のためにちゃんと勉強しなさい」といいはじめました。なにしろ800万人いるといわれる団塊の世代ですから、後に迎える受験戦争も熾烈。僕はそもそもあまり勉強の得意な子どもではありませんでしたから、親が慎重になるのも当然でしょう。結局、劇団での活動は2年でやめることになりました。

中学校では野球部、高校ではバスケットボール部にそれぞれ所属するなど、それなりに活発な少年時代を送っていました。ところが、高校3年生のときに、2つめの大病に襲われます。大学受験のストレスなのか、体質的な問題なのか、腎炎を発症した僕は医師から絶対安静を命じられ、2ヵ月間の入院生活を送ることになりました。

高校生ですから、2ヵ月もの間、ベッドの上でおとなしくしていなければならないのはまさに地獄。おまけに時期が悪く、高校は卒業式にも出られませんでした。

ただ、高校時代にはいいこともたくさんありました。後に「ビリーバンバン」としてデビューする、菅原進君と出会ったのもこのころです。これは僕の人生にとって非常に大きな出来事だったと思います。

司会者として場を盛り上げるせんだみつおさん

高校卒業後、彼らがビリーバンバンとして活動を始めてからも菅原君との縁は続き、僕はつき人のような役どころで行動を共にしていました。やがて、いっしょにイベントに出るようになります。ただし、ミュージシャンではなく、司会としてですが。

それでも、再び人前に立つようになったのがうれしくて、僕はどんどん司会業に没頭していきました。在籍していた専門学校も、いつの間にか行かなくなってしまいました。

するとある日、TBSの関係者の目に留まり、新しくスタートする『ぎんざNOW!』というバラエティ番組の司会に大抜擢されたんです。

ここからの7年間はとにかく多忙で、ひっきりなしに仕事が舞い込み、休みもほとんどありませんでした。腎臓にだけは常に気を配り、塩分を控えたり、体を冷やさないように注意したりしていましたが、とにかくテレビに出られるのが楽しくて、どれだけ働いてもまったく苦になりませんでした。やっぱり僕は、根っからの目立ちたがり屋だったのでしょうね。

突然の肝炎で倒れ入院生活で知った安静にする大切さ

ダイエットに成功して体質が変わり、体がらくになったという

ところが、好事魔多し。ある日、僕は肝炎と尿管結石を併発し、倒れてしまったんです。これが3度めの大病です。

この時期はロケ先でも、先輩から「おまえ、顔が黄色いけど大丈夫か?」とよく指摘されていました。それでもドラマやバラエティの仕事がつまっているので、病院にも行けず我慢していたところ、ついに限界がやってきたわけです。

倒れて初めてわかったことですが、本来は50が基準値の上限とされるγ‐GTPの数値が、なんと2900もありました。よく生きていたなと、我ながら感心しますよね。

入院期間はおよそ3ヵ月。〝肝腎かなめ〟という言葉がありますが、その肝と腎の両方をやられているわけですから、それはもうひどいありさまでした。朝起きると、体から出る胆汁(肝臓で生成される黄褐色でアルカリ性の液体)でシーツは真っ黄色になっているし、そうかと思えばトイレで出す便は真っ白。ステロイド剤を打ってもらって、γ‐GTPの数値はどうにか落ち着きましたが、自分の体はどうなってしまったのかと、さすがに不安になりました。

一方で、毎日安静にしていたことで、腎臓は日増しに正常に働くようになりました。腎臓はとにかく安静が第一なのだそうです。また、当時の担当医がいうには、横になって休むというのは体にとって非常にいいことで、肝臓の血流がおよそ6割増しになるのだとか。

結果的に3ヵ月後に退院し、いまもこうして元気に暮らせているのは、このときに「休む」ことの大切さを知ったことが大きいと思います。いまも休みの日やちょっと疲れを感じたら、なるべく横になって、おとなしく本でも読むように心がけています。おかげで、ほんとうに健康的な生活が送れていますよ。

一昨年には、娘に誘われてジムに通いはじめ、3ヵ月間で13㌔のダイエットに成功しました。適切な負荷でトレーニングを積むことで、明らかに汗がよく出るようになりました。何より体がスッキリとして軽いんです。

ダイエットに成功したのでリバウンドが怖いのですが、ジムのトレーナーからは、「体重より人気のほうをリバウンドさせましょうよ」といわれています(笑)。

もっともっと芸能界で活躍したいですから、これからも健康第一でがんばりますよ。