プレゼント

ありのままの自分でいい——この考えで堂々と生きましょう

私の元気の秘訣

タレント オスマン・サンコンさん

「一コン、二コン、サンコン!」のフレーズと明るく元気な笑顔で人気を博す元祖黒人タレントのオスマン・サンコンさん。自他ともに認める〝日本とアフリカの架け橋〟として、日本全国での講演活動や老人ホームでのボランティア活動、母国ギニアでの小学校建設、緊急物資の提供などを行ってきました。来日50周年を迎えた現在も精力的に活動しているサンコンさんの元気の秘訣(ひけつ)に迫ります!

家族との食事は戦場で生きるたくましさが自然と育まれました

[おすまん・さんこん]—— 1949年、ギニア共和国出身。国立コナクリ大学卒業後、仏国ソルボンヌ大学に国費留学。1972年、ギニア外務省に入省。同年12月、日本に開設されたギニア大使館の大使館員(駐日親善大使)として来日し、8年間を日本で過ごす。その後、米国ワシントンD.C.勤務を経て、1984年に再来日。アフリカを日本人に知ってもらうためにさまざまなテレビに出演。日本全国で講演会、老人ホームでのボランティア活動、ギニアでの小学校建設、緊急物資提供など母国への支援も行う。2013年、日本外務大臣より表彰。2017年、旭日双光章受章。2018年、一般社団法人日本ギニア友好協会を設立。日本とアフリカの架け橋として来日50周年を迎えた現在も、各アフリカ大使館のアドバイザーとして精力的に活動中。

日本でギニア大使館を作るために来日し、タレントとして『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)に出演したり、日本各地で講演活動を続けたりしていたら、いつの間にか50年以上の年月がたっていました。日本と母国ギニアの架け橋として世のため人のために尽力する日々を送ってきましたが、幼少期は自分の命を守ることで精いっぱいだったんです。

僕が生まれたギニアは一夫多妻制で、兄弟姉妹がたくさんいます。僕は22人の中で12番目。そのうち男兄弟は10人、女姉妹は12人でした。

人数がそれだけいると、毎度毎度の食事が戦場なんです。まず、男性と女性に分かれ、それぞれのテーブルの真ん中に料理がこんもり盛られた大皿が出てきます。それを「せーの!」の掛け声とともに一斉に食べはじめるんです。早く食べないとどんどんなくなってしまうから、毎日必死に食べていました。箸やスプーンを使う文化がないため、熱い料理は水で指を冷やしながら手で食べます。おなかいっぱいになるためには兄弟に負けていられない。今振り返ると、生きるたくましさは幼少期のうちに自然と育まれたんだと思います。

日本では「人生百年時代」などといわれていますが、ギニアの平均寿命はわずか55歳程度です。その理由は、5歳までに亡くなる子どもが多いからです。特に男の子は体が弱いので、5歳になるとお祝いをする風習がギニアにはあります。日本でいう七五三のようなものです。5歳までの衣類は常におさがりですが、5歳を迎えたら新品の服をもらい、髪を切って坊主頭にするんです。それで「おめでとう」とお祝いして、大人の仲間入りを果たします。

それからは大人と一緒に(まき)の原料となる木を採りに行くなど、家族を養うために仕事をします。田舎(いなか)なのでガスが通っておらず、炭や薪で火を起こさないと料理ができません。道中はヘビや大きな虫が多く、かまれることもあって危険と隣り合わせ……。生きることが常に戦いでした。

僕の故郷は、首都から150㌔離れたボファという海に面した自然が豊かな町です。おなかがすいたら、そこら中に実っているバナナやマンゴーを採って自由に食べていました。

ギニアがフランス領だったこともあり、幼少期の遊びはもっぱらサッカーでした。僕も夢中になってサッカーで遊んでいたのですが、高校生の時、試合中に敵チームの3人が僕の右足をめがけて同時にタックルしてきたんです。悪質なプレーのせいで、アキレス(けん)を断裂する大ケガを負ってしまいました。

ところが、ギニアの医師の技術が未熟で放置されてしまい、足が内側に向いた状態で固まってしまったんです。足がうまく動かず、身体障害者として生きることになりました。兄弟や周りの人から「お前は役立たずだ」と冷たい視線を浴びせられましたが、この経験のおかげで「負けるもんか」というハングリー精神が養われたのだと思います。

当時、僕の将来の夢はパイロットか医者になることでした。ふと空を見上げたら飛行機が飛んでいて、あれはなんだと母に聞いたら「あの中に人が乗っているんだよ」と教えてくれたんです。あの鉄の(かたまり)の中に人が乗って、しかも空を飛んでいると知った時は驚きとともに感動を覚えました。さらに、母が「がんばって勉強に励んだら飛行機に乗れるよ」というので、パイロットになりたいと思って勉学に邁進(まいしん)したんです。

もう一つの夢だった医者ですが、医者になれば自分のような曲がった足を治せるんじゃないかと思ったからです。どちらにしろ勉強しないとなれない職業だったので、夢を実現させるために猛勉強する日々を送りました。

努力のかいあって、無事大学に合格。結局、国家公務員になる道を選ぶことにしたのですが、大学卒業後に受けた国家公務員試験で、受験生1万人中1位で合格することができました。なにしろトップ合格ですから、あらゆる省庁から熱烈なオファーが殺到しました。

その中から外務省を選んだわけですが、上官から「アジアの日本という国に行きなさい」といわれたんです。日本なんて国はもちろん聞いたことがなかったので、ギニアよりよっぽど発展していない田舎なんだろうなと思っていました(笑)。

当時の日本にはギニア大使館がありませんでした。ただ、ギニアの大統領が「日本人は器用で技術力も医療も発展しているいい国だから、ぜひとも大使館を作ろう」と提案していたんです。そんなにいい国だったら行ってみようと思い、日本行きを決断しました。その時、母国ギニアのため、自分が日本との架け橋になりたいと強く願うようになったんです。

そして、日本へ向けて乗った、憧れの飛行機! 感想はというと……怖かった(笑)。こんなに大きい鉄の塊が空を飛ぶなんて、やっぱり恐怖でしかありません。当時はギニアから日本への直通便がなく、ギニアからスイス、イタリア、パリ、アンカレッジ、テヘラン、ビルマ(現・ミャンマー)、香港(ホンコン)を経由して羽田(はねだ)に到着しました。「どこまで行っちゃうの!?」と不安を覚えながらの長旅。合計22時間ほどかかっていたので、日本に到着した時にはヘトヘトでした。

日本の医療や薬を提供できたおかげで母は大往生でした

「日本人が気づいていない日本の誇るべき点を僕はいくつも知っています」

初めて耳にした日本語は「チュイチュイチュイ……」と鳥がさえずるような音にしか聞こえず、まったく聞き取れませんでした。大使館で働くためには、この言語を覚えなければいけないのかと思うと焦りが増す一方で、すぐに日本語学校に通いはじめました。

結局、3年くらいたって、ようやく日常会話ができるようになりました。日本で生活するうちに友だちができて、日本語でコミュニケーションを取っているうちに会話ができるようになったんです。合計8年間日本語学校に通いましたが、ひらがなやカタカナ、漢字は学んでいないので読めません。実は、今も読めないので、文字にする時はローマ字表記にしてもらっています。

ギニアと日本はそれぞれいいところがありますが、日本人が気づいていない日本の誇るべき点を僕はいくつも知っています。日本は安心・安全で、治安が非常にいいと感じます。ギニアの夜は非常に危険で、女性が外を一人で歩いていたら誰かに襲われてしまうこともあるんです。

日本人はギニア人よりも勤勉で、むしろ働きすぎているのではないかと感じてしまいます。ギニアは農業が主要産業ですが、日中は暑いので、人間は涼しくなる夕方までバナナの木の下で昼寝をし、イヌやウシも道端でダラーッとしています。夜は砂漠地域特有の激しい寒暖差のせいで非常に寒く、毛布にくるまって暖を取ります。そのため、ギニア人の多くは運動量が少なく、あまり知られていませんが、日本と同様に肥満や糖尿病、高血圧などの生活習慣病の人が多いんです。

日本の高度な医療技術も誇るべき点です。国民皆保険(こくみんかいほけん)もすばらしい制度だと思います。僕も年に一度は人間ドックに通って、体に異常がないか確認しています。

実は、25年くらい前に動悸(どうき)が止まらなくなり、救急車で搬送されて心臓のカテーテル手術を受けたことがあるんです。その経験から、医者のいうことはちゃんと守るようにしています。昔は飲兵衛(のんべえ)で、『笑っていいとも!』の収録後は決まって朝までお酒を飲み歩いていました。ただ、健康診断で肝機能の数値の異常を指摘されてからは、お酒はたしなむ程度にしています。

日本の医療は検査の精度が高く、病気を早期発見・早期治療できる点も恵まれていると思います。ギニアの兄は、がんの発見が遅れて亡くなってしまいました。もし兄が日本の医療を受けられていたら、今でも生きていたかもしれません。

恩返しのため、母を日本に招待して病院で人間ドックを受けてもらったことがあります。すると、白内障が見つかり、すぐに手術をして治すことができました。そのほかにも、母は体調が悪くなったら私が日本から送ったバファリンや正露丸(せいろがん)などを飲んでいたので、年齢を重ねても元気でした。おかげさまで、86歳まで生きて大往生を遂げることができました。日本にいると当たり前かもしれませんが、早期発見・早期治療ができたり、薬が簡単に手に入ったりする環境はとても恵まれていると思います。

講演会でお決まりのフレーズをお客さんというのが楽しいんです

「未来になにか残せたらいいなと思っています」

ギニアから日本に来ることができたのは、非常にラッキーだったと思っています。自分に舞い込んだラッキーをほかの人にもお裾分けしたいですね。

僕は昔から「いい行いをしたら、いずれ自分に返ってくる」と信じています。ギニアの自宅に5万坪の畑を作り、自給自足ができるよう農業に力を入れているのも、その信念があるからです。ギニアは今でも貧困に苦しむ人が多く、僕に助けを求めてくる人には「まず食事を提供しておなかいっぱいにさせてあげたい」と思っています。特に、一人でも多くの子どもたちが飢えることなく、5歳のお祝いを迎えてほしいと願っています。毎年帰国した時は、当然、僕も農業を手伝っています。

農作業以外には、お墓参りを毎年欠かさずに行っています。日本にお盆の文化があることを知って、ご先祖様に感謝することの大切さを学んだからです。また、日本で受けた恩恵を日本人に返したいという強い感謝の気持ちもあり、講演会などの活動の原動力になっています。

講演会では、必ず僕のお決まりのフレーズ「一コン、二コン、サンコン!」をみんなにいってもらうようにしています。盛り上がって会場のお客さんが笑顔になり、温かい雰囲気になるのが毎回楽しいんです。ちなみに、このお決まりのフレーズは『笑っていいとも!』の時にタモリさんが考えてくれたもので、タモリさんにも感謝しています。

子どもたち向けの講演会では、「なんで肌が黒いの?」「サンコンさんの血は黒いの?」といったような子どもながらの悪意のない質問を受けることがあります。差別的な質問で過剰な反応をする人もいるかもしれませんが、僕はまったく気にしていません。「僕は黒人という人種で肌は黒いけど、血は君たちと同じで赤いんだよ」と冷静に笑顔で答えます。なぜなら、ありのままの自分を受け入れているからです。

僕たちは同じ人間で、みんな対等です。黒人や障害者でも恥とは考えずに、一人の人として堂々と生きています。皆さんもいろいろな病気や悩み、障害があるかもしれませんが、「ありのままの自分でいい」と肯定して堂々と生きていいんです。

講演会で話すネタの一つに、僕の視力が6.0あった話があります。日本の視力は平均で1.0くらいだと思いますが、ギニアでは視力が3.0以上あることは珍しくありません。日本に来た当初、視力検査をしたらいちばん小さいマークも見えるので、どんどん後ろに下がったんです。それでもはっきり見えちゃうから医者に「測定不能」といわれていました(笑)。現在の視力は1.2で、東京はビルが多くて遠くが見えないからなのか、どんどん下がってしまいました。これ以上視力が下がらないように、気づいた時にはなるべく遠くを見るようにしています。

偉人のように未来になにか残せないかと常に考えています

ギニアと日本の交流会を主催し、日本とギニアの架け橋として活動を続けているオスマン・サンコンさん

日本に来てから50年以上がたった今も、日本とギニアの未来のためになにか残せないかと常に考えています。日本には、西郷隆盛(さいごうたかもり)坂本龍馬(さかもとりょうま)など、亡くなってもなお人々を勇気づける人がいます。彼らのような偉人になれるかどうかは分かりませんが、子どもたちの将来のために「サンコン小学校」を作ったり、日本とギニアの交流会を主催したりしています。今後も積極的に活動を行い、日本とギニアの架け橋になって、未来になにか残せたらいいなと思っています。

僕は今74歳ですが、70歳になった頃から寝る時に「今日も楽しく生きられてよかった」とその日あったいいことを思い出すようにしています。朝起きた時は「今日も生きて朝を迎えられてよかった」と生きていることに感謝します。ギニアの平均寿命から考えたらすでに亡くなっている年齢なので、今でも元気に生きられていることに日々感謝しかありません。僕の父は65歳で亡くなっているので、正直自分に対して「どこまで生きるんだ⁉」と思っているところもあります。

毎日を必死に過ごしていると忘れがちですが、生きていることは当たり前ではありません。生きていることに感謝する気持ちは、とても大切にしてほしいですね。朝、健康に起きられたら「よかったな」と感じてほしいし、花に水をあげたり仏壇に手を合わせたりする日常を当たり前と思わずに感謝する気持ちを大切にしてください。

せっかく日本というすばらしい国に生まれたのですから、故郷を大切に思い、感謝の気持ちを忘れずに日々を過ごしたら、日常の景色が変わって見えるのではないでしょうか。