プレゼント

心の栄養を大切にしながら、自分らしい生き方にこだわってみてください

私の元気の秘訣

シンガーソングライター 南こうせつさん

日本を代表するフォークシンガーとして、長く第一線で活躍しつづける南こうせつさん。74歳になった現在も、その美声はもちろん、軽快なトークとはつらつとした笑顔は健在です。まだまだファンをたっぷり楽しませてくれそうな南さんに、元気と健康の秘訣(ひけつ)をお聞きしました!

落ちていた竹をバット、丸く固めた布をボールに野球に興じた少年時代

[みなみ・こうせつ]——1949年、大分県出身。1970年にソロデビュー。デビュー直後にフォークバンド・かぐや姫を結成し、「神田川」「赤ちょうちん」「妹」など、数々のミリオンセールスを記録。デビュー以来、コンサート活動をベースにしてきたが、現在は九州で田舎暮らしをして自然と向き合いながら、独自の価値観を構築して多くの共感を得ている。デビュー55周年を迎える今も、コンサートを中心に精力的に活動中。2021年には、コロナ禍の中で制作したアルバム「夜明けの風」を発売。積極的に制作活動も続ける。そして、2023年11月、数十年ぶりにLPレコード「三日月のセレナーデ」を発売。自身が選曲した心に寄り添うラブソングをリマスター音源で収録。CDも同時発売中。

僕は昭和24年(1949年)の生まれで、いわゆる「団塊(だんかい)の世代」にあたります。団塊の世代というのは戦後の第一次ベビーブーム期の生まれで、僕が生まれ育った大分県の竹中村(たけなかむら)(現・大分市竹中)もほんとうにどこへ行っても子どもたちがあふれていました。

小学校では教室いっぱいに人を詰め込んだクラスが二つ。とにかく人が多いので、なにをやるにしても競争になってしまうムードがあって、運動会はもちろん、勉強もご飯を食べるのも、とにかく競い合うように毎日を過ごしていた気がします。

一方で、日本全体がまだ貧しかったからなのか、河原で野球をやろうとしても、ちゃんとしたバットやグローブなんて誰も持っていません。しかたがないので、その辺に落ちていた竹をバットの代わりにして、布を固く巻いたボールで遊んだものです。

そんな状態でも人数だけは多いものですから、9人対9人ではあぶれる人がたくさんいました。だから、プレー中も「早く代われ」とうるさい控えがたくさんいます。時は長嶋茂雄(ながしましげお)さん全盛の頃ですから、サードのポジションと4番の打順はことさら希望者が多く、競争率が高かったのを思い出しますね。

自分でいうのもなんですけど、僕はどちらかというと、そうしたコミュニティーの中で裏方が得意な子どもだったと思います。というのも、うちの実家はお寺だったので、物心ついた時から「なんでもやってもいいけど、他人に迷惑をかけてはいけない」とよくいわれていました。

それに、寺なので庭が広いですから、いつもわが家におおぜい集まってかくれんぼなどで遊んでいました。歌う楽しさに目覚めたのも、その頃でした。

直会(なおらい)といって、お葬式の後にはみんなで食事をするのが通例なのですが、田舎(いなか)なので近くに料亭や仕出し屋さんがなく、檀家(だんか)の女性たちがわが家の台所に集まってお料理をして、それをみんなでいただく機会が多々ありました。お葬式や法事の時だけではなく、例えば地域の消防団が訓練の後に打ち上げをする場所としてもわが家がよく使われていて、ちょっとした公民館代わりだったともいえますね。

そうした食事会の最中、いい感じに酔いが回ってくると、誰かしらが歌いはじめるのが常でした。

入れ代わり立ち代わり、いろいろな大人たちが機嫌よく歌う中、小学生の僕にもお(はち)が回ってくることがあり、元気よく歌い終えるとみんながワーッと拍手してくれて、おひねりで10円玉が飛んできたりするんです。あめ玉が1円で2個買える時代ですから、当時の10円は大きかったですよ。なんとなく、「そうか、歌うとお金がもらえるのか」という意識が根づいたのは、そんな体験からでしょうね(笑)。

もっとも、歌を歌うと大人たちが喜んでくれるというのはなんとなく理解していましたが、これを将来の仕事にしようなんて思いは、まだ微塵(みじん)もありませんでした。

あの頃、生活の中の歌との接点といえば、もっぱらラジオでした。

幼少期から江利(えり)チエミさんや三橋美智也(みはしみちや)さん、フランク永井(ながい)さんの曲に慣れ親しみ、小学校高学年になるとエルビス・プレスリーやフランク・シナトラといった洋楽への関心を高め、さらにはビートルズやサイモン&ガーファンクルなど、娯楽が少なかったということもあるのでしょうが、僕は音楽にどんどんのめり込んでいきました。

いつか音楽に関わる仕事に就けるといいなという気持ちが漠然と芽生えてはくるものの、当時のそれは、ラジオ局やレコード会社で働きたいという願望でした。音楽というよりも、音楽番組そのものが好きだったのでしょうね。

そうこうしているうちに、ヒットチャートにフォークソングがちらほら登場するようになります。ボブ・ディランやピート・シーガー、ピーター・ポール&マリーなどです。

そこで新鮮だったのは、それまでの歌が「おまえのことを愛している」とか、「今夜は君を離さない」といった歌詞ばかりだったのに対して、フォークシンガーの皆さんはギター1本で、「戦争はやめよう」とか「人種差別をなくそう」などと、それまでとまったく違うメッセージを発していたことです。

これは衝撃的でした。自分が世の中に感じている理不尽をそのまま表現するジャンルがあるとしたら、それはフォーク以外にありえないと体感し、僕はこのジャンルにどんどん傾倒していくことになります。

「神田川」の大ヒットはリスナーの後押しがきっかけだったんです

やがて大学進学で上京し、音楽サークルに入ると、そこには僕と同じような感動を覚えた連中がたくさんいました。1970年代というのは、つまりそういう世代なのでしょうね。世間的にも、シンガーソングライターという存在が一気に世に出はじめた頃です。

「『神田川』はラジオのリスナーの方々が後押ししてくれたおかげで世に出た作品なんです」

その後、クラウンレコードのオーディションに合格して、1970年にかぐや(ひめ)としてデビューすることにはなりますが、黎明期(れいめいき)のフォークソングの世界に身を置いていたせいか、自分の中ではアマチュアとプロの境界が実は曖昧(あいまい)なんです。特にステージ衣装を着るわけでもなく、Tシャツにジーパンで歌っていたので、常にアマチュアの延長線上にいる気分だったのでしょうね。

そうしたら、たまたま「神田川(かんだがわ)」が売れてくれたわけですが、これはもともとレコードのB面に収録されていた曲ですし、レコード会社ががんばって売った作品ではないんです。

きっかけは、僕が当時やっていたラジオの深夜放送で、たまたま「神田川」をかけてみたら、翌週からとんでもない数のリクエストハガキが届くようになったんです。そこでレコード会社が慌ててこの曲をシングルレコードにして売り出したところ、あっという間にミリオンセラーになりました。僕自身はもう、なにが起こっているのか、理解不能な状態ですよ。

だから、「神田川」というのは、ラジオのリスナーの方々が後押ししてくれたおかげで世に出た作品で、当時の世代の皆さんのシンボル的な曲に育ったことが、ほんとうにうれしいですね。いまだにコンサートでこの曲を歌うと、同世代の皆さんがすごく喜んでくれるんです。僕としても、人生を左右する作品になりました。

コロナ禍でコンサートができない期間は自分と向き合いました

こう語ると、トントン拍子の人生のように思われるかもしれませんが、下積み時代がなかったわけではありません。学園祭などで歌っていても、5、6人しか聴衆がいない時もありました。

でも、歌うこと自体が好きだったので、あまり気にならなかったんですよね。好きなことを好きなように、思い切り楽しんでいたら、いつしか口コミで知ってもらえるようになり、少しずつお客さんが増えて、やがて500人規模のコンサートがやれるようになりました。

そして、ついに憧れの武道館にたどりついた時は、さすがに感慨深かったですね。それも、シンガーソングライターとしては初の公演でしたから、喜びもひとしおです。なによりも、あのビートルズが歌った場所でやれるなんて、考えられないことでした。

とはいえ、人気商売ですから、もちろん浮き沈みはつき物です。あまりヒット曲が出ない時期になると、チケットの売れ行きも少しずつ悪くなっていくし、「このままやっていけるのかな」と、将来が不安で眠れなくなることもありました。

「歌は心の栄養源として必要なものだと思います」

でも、焦りながら、不安を抱きながら、落ちるところまで落ちるというのは、しかたのないことだと思います。一発で効く妙薬があるわけではないですから、こういう時は、とことんもがくしかないんです。

何事も揺り戻しというのがありますから、いい時期が来るまでとにかくもがく。遠回りのようですが、仕事に限らず何事もこれがいちばん得策なのだと僕は思っています。

ただ、折しものコロナ()は、さすがに少し戸惑いました。50年ほどこの仕事を続けてきて初めて、コンサートがいっさいできない期間を過ごしたわけですから。

僕は今、大分県の杵築(きつき)市というところで暮らしているのですが、コロナ禍で仕事がまったくない時期は東京の事務所に来ることもありません。だから、毎日朝起きると窓を開けて、風を浴びながら景色を眺めていました。

すると、そこから見える海の色が、分単位で変わることに気がつきました。もともと季節感の豊かな土地であることは理解していたつもりですが、ゆっくりと季節の移ろいを()み締める時間が、それまでの生活の中になかったんですね。

古里(ふるさと)・大分で、あらためてその土地や自分自身と向き合う時間を持てたことは、僕にとって幸いでした。

自分にとって歌とはなんなのかを自問自答し、今後の人生に思いをはせる——いつしか春が来ると、新たな草木が芽吹き、ウグイスが鳴き、サクラの花が咲く。そんな当たり前のことを噛み締められるのが、なんだかとても幸せに思えて、心をリセットする最高の時間になりました。

素材の味に着目すると生活の中に多くのストーリーが生まれます

こうして目の前のなにかと落ち着いて向き合うというのは、例えば日々の食事においても大切なことだと思います。

食材には必ず素材の味というものがあります。野菜でも海藻でも魚でも、ソースやドレッシングに頼りすぎると本来の味を見逃し、食材への感謝の気持ちを忘れてしまいます。そうではなく、地球の恩恵を感じながら素材をいただく楽しみ方ができれば、生活の中にストーリーがたくさん生まれてきて、毎日がより楽しくなる。

例えば、それがどのような場所で育った食材なのか、どんな生産者が育て、どのような経緯でわが家の食卓にやって来たのか——そういうストーリーを思い描きながら食事を楽しむだけで、一日が豊かなものになるんです。

「大切なのは〝いくつまで生きるか〟ではなく〝どう生きたか〟です」

生活の中にそうしたささやかな楽しさを見つけられると、なんだか心も優しくなるんです。心の健康は体の健康に直結しますから、無駄にあらがうことなく、あるがまま自然に、というのはいかがでしょうか。

これは歌も同様です。過去の震災で多くの人々が苦しめられた時、炊き出しなどで食料の支援が行われました。おおぜいのボランティアが集まり、全国から物資が届き、どうにかこうにか生活が落ち着きを取り戻しはじめた時、次になにが求められるかというと、それは「心の栄養」です。

そこで多くのアーティストが被災地を慰問し、歌を届けたことで、被災者の皆さんを勇気づけました。これこそ歌が持つ力の一つであり、心の栄養源として人間には絶対に必要なものだと思います。

その上で、人はいつか必ず死ぬものだと、運命を受け入れるのも大切でしょう。

人生百年時代といわれますが、ほんとうに大切なのは「いくつまで生きるか」ではなく「どう生きたか」ですからね。周囲に迷惑をかけながら百年生きるよりも、いくつであっても自分らしく生きて、生涯を満足して終えるほうが何倍もいい人生であるはず。

どうにかして人の役に立とうとがんばる必要はありません。毎日、笑顔で家のドアを開けて一歩外へ出られるかどうかを重視してください。笑顔というのは、周囲に幸せを分け与える、なによりの平和のメッセージですからね。

明日も笑顔でいられるように、皆さんも心の栄養を大切にしながら、自分らしい生き方にこだわってみてください。それがなによりの元気の秘訣(ひけつ)になりますから。

南こうせつさんからのお知らせ

LP盤&CD「三日月のセレナーデ」

幼少期からアナログ・レコードの温かい響きで感性を培ってきた南こうせつさんが、自身の数々の作品から"心に寄り添う恋のうた"をテーマに選曲。レコード時代に発表された大ヒット曲「神田川」「夢一夜」をはじめ、1980年代以降の名曲がアナログ・レコードとして価値ある響きを創造する名盤ここに誕生! アルバムジャケットは本人の描く水彩画に、時空を超えて自身が融合した幻想的な世界を表現。サウンドからアートワークまですべてをプロデュースする強力盤です。

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