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大谷翔平選手との秘話も初公開!球史に名を刻む伝説の医師インタビュー

著者インタビュー

長野寿光会上山田病院整形外科医師 吉松 俊一さん

投打の〝二刀流〟を現実のものとした大谷翔平選手の活躍に胸を躍らせています

[よしまつ・しゅんいち]——日本整形外科学会専門医、日本リウマチ学会専門医、日本リハビリテーション医学会認定臨床医、日本体育協会公認スポーツドクターとして活躍。主に子どもの肩・ひじ関節、またスポーツ現場で見られる腰痛と遺伝の関連性などを40年以上の長期にわたって研究。さらに、日本屈指のスポーツドクターで、負傷したプロスポーツ選手が数多く治療に訪れ、復帰に貢献している。

今年の夏は、新型コロナウイルス感染症の感染爆発をはじめ、猛暑に大雨、自然災害など、暗いニュースばかりで気がめいりがちです。しかし、そんな中でひときわ輝きを放つのが、メジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスに所属する(おお)(たに)(しょう)(へい)選手の活躍です。

私は、日本プロ野球界の一翼を担うチームドクターとして、これまで数多くのプロ野球選手を心身両面から支えてきました。そんな私の目から見ても、大谷選手には実に華がありますね。他人から愛される(てん)()の才に恵まれているのではないでしょうか。私は大谷選手が出場する野球中継を録画し、胸を躍らせてワクワクしながら彼の活躍ぶりを見守っています。

メジャーリーグ4年目を迎えた大谷選手は、現代野球では不可能と思われた投打の〝二刀流〟を現実のものとし、メジャーリーグ史上初めて投打の両方でオールスターに選出されました。2021年8月19日の時点での成績は、打者としてホームランが両リーグトップの40本、盗塁18回成功。さらに、投手としても先発18試合で8勝1敗、防御率2.79、120奪三振をマーク——まるで〝漫画の主人公〟のような大快進撃を遂げています。

大谷選手は、かつてヤンキースなどで活躍した〝投打二刀流〟の元祖であるベーブ・ルースと比較されることがよくあります。〝野球の神様〟とさえ呼ばれるベーブ・ルースですが、米国メディアの間では、すでに〝ベーブ・ルース越え〟の声も上がっています。大谷選手は、世界最高峰のメジャーリーグという大舞台で投打にわたって大活躍し、球史に残るあらゆる歴史を作っているといっても過言ではないのです。

大谷選手が日本ハムファイターズに所属していたとき、私は栗山英樹(くりやまひでき)監督と親しかったことからサインボールをもらったことがあります。また、じっくりとお話ししたわけではありませんが、大谷選手が足首を(ねん)()したとき、私が考案した「吉松(よしまつ)式・再発防止法」を指導しました。

私は、大谷選手の大活躍を支えるのは、身長193㌢、体重102㌔という恵まれた体格と均整の取れたプロポーションもさることながら、筋力トレーニングや食事管理などのたゆまぬ努力なのではないかと考えています。肉体改造が順調に進んで年を追うごとに体が大きくなっている大谷選手は、約225㌔もあるバーベルを持ち上げて筋力トレーニングをしているそうです。また、花巻(はなまき)(ひがし)高校時代からどんぶり飯を1日10杯食べていたという逸話が有名ですが、現在でも徹底した食事管理を継続しているといいます。

「好きこそ物の上手なれ」ということわざがありますが、あどけなさが残る笑顔でたくさんのファンを魅了している大谷選手は野球が大好きなのだと思います。野球を愛する者として、私には大谷選手の「野球が好きで好きでたまらない」という純粋な思いが伝わってくるような気がします。

近い将来、私は実際にメジャーリーグのスタジアムに足を運んで、大谷選手のプレーを観客席から生で見てみたいと思っています。もし大谷選手と直接お話しする機会があるのなら、彼独自のトレーニング法や食事管理法などについてたくさん質問してみたいものです。その際、日本プロ野球界最速の165㌔を誇る大谷選手に真っ向勝負を挑む——それがいまから楽しみでなりません。

日本ハムファイターズ時代の大谷翔平選手から贈られたサインボール
新聞社から贈呈された王貞治選手の800号ホームランの瞬間をとらえた写真
読売ジャイアンツのチームドクターとなった1年目に撮影された長嶋茂雄巨人軍監督(当時)とのツーショット

メジャーリーガーから学んだ登板調整法や効果的なアイシングを野球界に提案しました

メジャー屈指の速球王として知られるノーラン・ライアン投手(右)。登板までの調整メニューを教えてもらった

私が日本プロ野球界初のチームドクターになったそもそものきっかけは、一通の手紙でした。

長嶋茂雄(ながしましげお)さんが監督として読売ジャイアンツを初采配した1975年。そのシーズンはチームの戦力が落ちて、読売ジャイアンツが球団創設以来初の最下位に終わりました。

野球好きな私は、週末によく多摩(たま)川で二軍選手のプレーを見ていました。その中に故障しているにもかかわらず練習している選手がいたことから、読売ジャイアンツの球団関係者に「二軍選手は将来一軍を担う金の卵。多摩川には金が埋もれてしまっています。故障した選手は新たに三軍を設けて治療に専念させるべきです」という内容の手紙を出しました。

いまでは、公認のチームドクターが故障した選手を「故障者リスト」に登録するのはあたりまえのことです。ところが、休むことが許されない風潮だった当時としては、画期的な提案だったのです。その提案が読売ジャイアンツ球団代表の長谷川実雄(はせがわじつお)さんの目に留まり、(しょう)(りき)松太郎(まつたろう)オーナーの御曹司(おんぞうし)にもお目にかかることができ、翌年から日本プロ野球界初のスポーツドクターとして、宮崎県で行われる読売ジャイアンツの春季キャンプに行くことになりました。

ただし、初めからすべて自分の思いどおりにできたわけではありません。ときには「アイシングなどをやられては困る」といわれたこともあります。

しかし、決して諦めたわけではありません。自費で渡米してメジャーリーグを訪れ、最先端の情報収集に努めたことも一度や二度ではありませんでした。国境を越えた私の野球への思いがメジャーリーガーとの交流を深めさせ、日本プロ野球を発展へと導く懸け橋となっていったのです。

トム・シーバー投手の翻訳書。翻訳は吉松先生みずからが手がけた

私は、1970年代に160㌔以上の剛速球を記録し、メジャー屈指の速球王として知られるノーラン・ライアン投手に手紙を出し、「あなたに会ってお話を伺いたい」と申し出ました。すると、私の熱意が通じたのか、来たのは「OK」との返事。当時は公式戦の真っ最中だったのですが、幸運なことに私がノーラン・ライアン投手とお会いできたのが登板した翌日でした。私は、本来であれば関係者以外立ち入り禁止のロッカールームに入ることができました。私の英語はたどたどしいものでしたが、十分に時間を取って会話をしながらノーラン・ライアン投手の調整メニューを教えてもらったのです。

まず、登板した翌日は完全休養日で、ボールをまったく触らないとのことでした。そして、室内のバイシクル・トレーニング(自転車こぎ)を中心にメニューをこなしながら、三日目、四日目とボールを触る回数を増やしていき、登板日までに徐々に肩を作っていくというのです。

かつて日本プロ野球では、リリーフ登板も含めて連投や中一日で多投する投手が見られました。しかし、近年では中五日もしくは中六日が主流になっています。もし日本プロ野球における先発ローテーションの前時代的な考え方が定着したままだったら、故障に涙する投手がおおぜいいたかもしれません。ノーラン・ライアン投手の貢献は計り知れないといえるでしょう。

また、降板した投手がよく行っているアイシングも、私が提案したものです。アイシングは当時、言葉自体も存在していませんでした。しかし、1978年に日米野球で来日したニューヨーク・メッツのトム・シーバー投手が試合後に積極的にひじのアイシングをしている姿を日本側のベンチ内で球団関係者に見せることで、日本プロ野球にも導入されたのです。

トム・シーバー投手といえば、1969年にニューヨーク・メッツをワールドシリーズ制覇に導いた立役者であり、当時のメジャーリーグのナンバーワン投手です。それまでお荷物球団として期待されていなかったニューヨーク・メッツが下馬評を覆して見事にワールドチャンピオンに輝いた大躍進劇は、いまでも「ミラクル・メッツ」と称賛されています。

ワールドシリーズ制覇を経験し、アジア人初のワールドシリーズMVPに輝いた松井秀喜選手(右)。〝剛"と〝柔"を兼ねそろえた人徳者という

トム・シーバー投手は、野球理論のみならず、みずからの自己管理や解剖学、生理学にも精通していました。私はトム・シーバー投手の野球理論や体験論を日本の方々にもぜひ知ってもらいたいと思い、彼の書籍『勝つための投球術』(講談社)を翻訳したこともあります。

私はチームドクターとして、可能な限り最先端の医療を行いたいと考えていました。整形外科で肩・ひじの領域はアメリカが進んでいます。私は読売ジャイアンツの尾山末雄(おやますえお)トレーナーとたびたび渡米し、アメリカで行われている最先端の医療を貪欲に学んだのです。

気づいてみれば、私の提案した水泳や筋トレ法などが日本プロ野球の現場で徐々に受け入れられ、しだいに頼りにされる存在になっていきました。数多くの球団から依頼が寄せられ、多いときでは10球団の春季キャンプを回り、全12球団のチームドクターになりました。また、シーズン中には、国立長野病院(現・上山田(かみやまだ)病院)で故障や成績不振に陥った選手などの治療・指導にあたったのです。

球団のチームドクターを任されれば、チームに所属する全選手の健康管理や医療サポートを担当することになります。これまでに私が親交を重ねた選手の中には、プロ野球史に名を刻む名選手たちも含まれます。現在では、後進のチームドクターに道を譲るようにしていますが、一つひとつの出会いに容易には語り尽くせないほどの思い出がぎっしりと詰まっています。

〝ミスタープロ野球〟〝世界のホームラン王〟〝ゴジラ〟など、名選手と親交を重ねてきました

ワールドシリーズ制覇を経験した岡島秀樹投手(左)。読売ジャイアンツに入団する際には吉松先生の大きな後押しがあったという

一例を挙げれば、〝ミスタープロ野球〟の異名を持つ長嶋茂雄さんです。読売ジャイアンツの監督を務めていた頃には電話などで相談に乗ることもありました。そのご縁から、ご家族の健康管理も担当させていただきました。

通算本塁打数868本の世界記録を樹立した〝世界のホームラン王〟こと王貞治(おうさだはる)さんとも懇意にさせていただきました。王さんは福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)を二度の日本一に導くなど、選手としてだけでなく監督としても大成しました。

私は、長嶋さんや王さんのようなお人柄の人は人間の(かがみ)だと思っています。大袈裟(おおげさ)ではなく、神様のような人格者です。私がテレビ番組に出演した際などにはすぐに電話をくれるほど、気配りが行き届いた方です。

また、私が(せい)(りょう)高校の野球部のめんどうを見ていたご縁で、〝ゴジラ〟の愛称で親しまれた松井秀喜(まついひでき)選手とも交流がありました。松井選手は読売ジャイアンツやニューヨーク・ヤンキースなどで活躍した、1990~2000年代の球界を代表する長距離打者です。2009年のニューヨーク・ヤンキース時代にはワールドシリーズ制覇を経験し、アジア人初のワールドシリーズMVPを受賞しました。

1993年の読売ジャイアン時代、オープン戦で成績がふるわずに初の公式戦を二軍で迎えた松井選手に聞いたところ、「直球はなんとかなるが、カーブが鋭く曲がってなかなか打てない」といわれました。そこで、私は「これからは自信過剰になったほうがいい」とアドバイスしました。すると、その二日後と四日後に松井選手はホームランを放ち、みごとに一軍昇格を果たしたのです。

メジャーリーグで"世界一のセットアッパー"と評された岡島秀樹投手(読売ジャイアンツ時代)から贈られたグローブ
日本ハムファイターズの栗山英樹監督から贈られてきた直筆のサイン本

読売ジャイアンツ時代に一度、松井選手の手のひらを触ったことがありますが、親指の下辺りがとても分厚かったのが印象的でした。松井選手の(たぐ)いまれなパワーの秘訣(ひ けつ)の一端をかいま見たような気がしました。反面、松井選手は非常に真面目で物静かな人でした。2013年には国民栄誉賞を受賞しましたが、これも松井選手の人徳のなせる業ではないかと考えています。

ボストン・レッドソックス時代の2007年にセットアッパーとしてワールドシリーズ制覇を経験した岡島秀樹(おかじまひでき)投手が読売ジャイアンツに入団する際、実は、私は球団側から相談を受けていました。当時、岡島投手はひじを負傷していたため、私は球団側に「1年目は治療に専念させて、絶対に使わないでほしい」とお願いしました。すると、球団担当者が「吉松先生にすべて従うので、契約してもいいか」ということで読売ジャイアンツ入りを果たしたのです。

岡島投手といえば左投げで、投球モーションに入ってから投げるほうの左腕を下げてグローブをはめた右腕を上げながら、リリースの瞬間に顔を下に向けてホームベース方向を見ずに投げる独特な投球フォームで知られています。さまざまなコーチが岡島投手のフォームを矯正しようと取り組んできましたが、1998年に読売ジャイアンツの二軍投手コーチに就任した鹿取義隆(かとりよしたか)さんが岡島投手の独特な投球フォームに賛成してくれたことで、のちに変則投手として大成することになるのです。

岡島投手が一軍に昇格したのは2年目のシーズン終盤のことでした。読売ジャイアンツが私の言葉を信じて約束を守ってくれたことが、岡島投手のその後活躍につながったといえるでしょう。2007年に岡島投手がメジャーリーグ公式ウェブサイトによるファンが選ぶ「最優秀セットアップ投手」に選出されたときは感慨もひとしおでした。

日本ハムファイターズの栗山英樹監督の著書『育てる力』(宝島社)を熟読する吉松医師

ロサンゼルス・エンゼルスの大谷選手のところでも少し触れましたが、最近では日本ハムファイターズの栗山監督と懇意にさせていただいています。もともと現役選手の時代からチームドクターとしてお世話をさせていただいていましたが、私は栗山監督の選手を育てる能力がナンバーワンで、特に選手を勇気づける手腕はお見事というほかないと考えています。これからも栗山監督のすばらしい采配をドキドキしながら見られたらいいなと思っています。

いまの私の願いは「野球を通じて多くの人々に夢や希望を与えられたら、夢や希望をかなえる喜びを味わってもらえたら」というものです。そして、子どもの教育や障害のある方々の生きがいの創出にも、野球が貢献するものと信じています。第二の故郷である長野県千曲(ちくま)市と上田(うえだ)市の地域振興のためにも、これまで以上に野球の普及活動に尽力していきたいと考えています。

エネルギーに満ちあふれた私の好奇心の数だけ、いまでも夢が無尽蔵であるかのようにいくつもいくつも湧いてきます。どんな夢でもかまわないから、夢中になれる目標に真剣に打ち込む——これが、整形外科医として80代になったいまでも現役で働きつづける私の健康の秘訣です。