プレゼント

義理の部分だけきちんとしておけば、後は心おきなく好きなことに打ち込めるんです

私の元気の秘訣

落語家 三遊亭 好楽さん

国民的長寿番組『笑点』(日本テレビ系列)ではピンクの着物でおなじみ、落語家の三遊亭好楽さん。御年75歳になるいまも、芸道へのなみなみならぬこだわりを見せ、先日の『笑点』では座布団10枚を達成するなど、老いを感じさせない活躍ぶりでお茶の間を楽しませてくれています。そんな好楽さんの、元気の秘訣をお聞きしました。

母親といっしょに聴いたラジオの落語番組が私の原点なんです

[さんゆうてい・こうらく]——1946年、東京都生まれ。1966年、8代目・林家正蔵に入門し、1971年、二つ目昇進。1979年、『笑点』(日本テレビ系列)の大喜利メンバーに加入。1981年、真打ちに昇進。1983年、5代目・三遊亭圓楽門下に移籍して「三遊亭好楽」に改名。『笑点』を一時降板するが、1988年に復帰。2013年、みずからの高座や若手の育成をするために自宅を新築して寄席「池之端しのぶ亭」を設ける。2015~2020年、円楽一門会会長を務め、2020年より同会顧問。

うちの両親はどちらも多産な家系で、とにかくきょうだいが多い。親父(おやじ)が長男、母親は長女でしたが、それぞれ10人くらい弟や妹がいました。

そんな二人が結婚して、東京の(いけ)(ぶくろ)で暮らしはじめたのですが、わが家もやっぱり大家族で、私は八人きょうだいの六番目。ところが、八番目の弟が産まれた直後に、父は急逝してしまいます。私が6歳のときでした。

当然、生活は一気に苦しくなり、それまで住んでいた二階建ての住宅も売り払わなければならなくなりました。それから母は朝となく夜となく働きづめ。上のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちもアルバイトしながら学校へ通っていました。

私も小学校3年生くらいから、新聞配達のアルバイトを始めました。当時の新聞は休刊日なんてありませんから、それこそ盆も正月もなく、高校卒業まで毎朝、新聞を配って歩きました。でも、これはこれで、結果的には体力作りができてよかったかもしれませんね。

少年時代の私は、きょうだいの中でもとにかく異質でした。ほかの七人はどちらかといえばおとなしい部類だったのに、なぜか私はガキ大将。いつもくだらない悪さをしては母から怒られてばかり。私にとってはほんとうに厳しくて怖い母親でした。

ただ、叱られはするものの、自由にのびのびやっていられたのも事実。そんな私を見て、友人がうまいことをいいました。

「シャツのボタンと同じだよ。一番目、二番目のボタンが取れていたらすぐ直す。けど、六番目のボタンが取れていても気づかないだろ」

なるほど、要はほったらかしなのかと、妙に合点がいったものです。

でも、ほかのきょうだいが皆無口なものですから、母のおしゃべりにつきあってやれるのも私だけでした。買い物にもよく私だけついて行くなど、母子の関係はむしろ良好だったと思いますね。

ある日、いつも(せわ)しなくしている母が、夜になると一人でラジオを聴きながら、楽しそうに笑っていることに気がつきました。落語です。自分の仕事と大家族の家事を終わらせた午後九時半頃からが、母にとっての至福のひとときだったわけです。

そのうちラジオを聴いている母のそばで、いっしょに落語を楽しむようになり、いつしか私自身もどんどんこの世界にのめり込んでいきました。

少ない小遣いをどうにかやりくりして、池袋の演芸場に通ってばかりいた高校時代。その卒業が迫る頃、私は母に「落語家になりたい」と直談判しました。

母は即、猛反対。亡くなった父は警察官でしたし、上のきょうだいたちも皆、わりと堅めの仕事に就いていましたから、落語家という進路は理解しがたいものがあったようです。

諦められない私は、もう17歳でしたが、泣きじゃくりながらの懇願を繰り返し、最終的になんとか母の許しを得ます。すぐに八代目・(はやし)()(しょう)(ぞう)師匠のご自宅を訪ねて弟子入りを志願しました。

しかし、ご自身の高齢を理由に、私の願いはあっさり断られてしまいます。それでも後に引けず、翌日また伺って「弟子にしてください」と頼み込んでも、答えは変わりません。さらに三度目の正直でその翌日もチャレンジしてみましたが、やっぱりダメなものはダメ。

いったいどうすればいいのかと途方に暮れながらも、四度目の弟子入り志願には、母が同席してくれることになりました。すると、正蔵師匠が母に向かってこういったんです。

「ラジオを聴いている母に寄り添い、いっしょに落語を楽しむのが日課でした」

「お母さん、大切な息子さんをこんな落語家みたいな仕事に就かせていいのかい?」

これに対する母の答えが、実にふるっていました。

「ええ、泥棒よりマシですから」

この答えに正蔵師匠は大笑い。「こりゃあ、お母さんに一本取られたね」と、にこやかに私の弟子入りを承諾してくれたのです。

なお偶然ながら、私の本名が「のぶお」であることも大きかったようです。正蔵師匠はかつて、同じ「のぶお」という名のご子息を戦後すぐに亡くされていて、女将(おかみ)さんと二人で「のぶおが返ってきたね」と喜んでくれていたのを覚えています。

ちなみに、後から聞いたところによると、師匠は誰が弟子入り志願にやって来ても、最初は必ずお断りするのが決まり事だったようです。それであっさり諦めてしまうやつは、どのみち続かないというわけですね。

中にはあまりに食い下がるから、「だったらまず自衛隊へ行っておいで。根性も体力もたっぷり養われるから、それからうちへ来たらいい」といわれて、ほんとうにその4年後、自衛隊上がりでやってきた猛者(もさ)もいるそうです。

もっとも、そいつは落語家としては続かず、いまはこの世界にはいません。あまり生真面目(き ま じ め)すぎる人間も不向きということなのでしょうね。

一方の私はといえば、ちゃらんぽらんな性格が幸いしてか、下積み生活はつらいものではなく、むしろ楽しいことづくめでした。特に、諸先輩方からかわいがってもらえたおかげで、楽屋で過ごす時間が楽しくてならなかったんです。

同門の兄弟子たちはもちろん、古今亭志(ここんていし)(ちょう)師匠や三遊亭円楽(さんゆうていえんらく)師匠など、そうそうたる顔ぶれから直接いろいろな話が聞けるのですから、これが楽しくないわけがありません。

もちろん、弟子ですから毎朝師匠の家に行って掃除など身の回りのことをして、修業に励みます。これを365日、5年間続けることになりますが、落語を教わってメシまで食わせてもらえるのですから、不満などあるわけがありません。

ただ、ここでもやっぱり私は問題児で、しょっちゅう師匠から大目玉をいただきました。特にやらかしたのがお酒です。私はいまも昔も無類の酒好きですが、師匠に贈られてきたお酒をいつもこっそり飲んでしまい、それがバレては怒られることの繰り返し。

そのつど破門をいい渡されては、心からおわびして許しを請い、また別の悪さが見つかって破門を食らう。気がつけば破門歴は23回という、おそらく誰にも破られない記録を打ち立ててしまいました。

そんな前座の時代、私の人生にとって大切なことがありました。結婚です。

破門覚悟で結婚を報告したら師匠の笑顔と昇進がついてきました

本来、前座は修業中の半人前の身分。ですから結婚するなんて、もってのほか。ましてこの世界では「結婚は真打ちになってから」が暗黙の了解なのです。

そうはいっても、相手を好きになっちゃったものはしょうがない。私は両家の承諾を得たものの、師匠にはないしょのまま半年後に結婚式の日取りまで決めてしまいました。

とはいえ、仲人(なこうど)をお願いするなら師匠しか考えられません。私は師匠のスケジュール帳をときおり盗み見ては、式の当日にまだ仕事が入っていないことを確認してほっと安心しつつ、内心では「早くいわなきゃ……」「でも怒られるだろうな……」と口に出すことができませんでした。今度こそほんとうに破門になるかもしれませんからね。

「破門23回という記録は誰にも破られないでしょう!」

身もだえするように毎日を過ごし、いよいよ式まであと1ヵ月となったある夜、ようやく腹を決めた私は、師匠の家へ向かいました。

わざわざ夜分に神妙な顔をして現れた私を見て、女将さんは「お金でも貸してほしいの?」といいましたが、もちろんそうではありません。用件を切り出せずにまごまごしている私を見て、師匠がずばりといいました。

「おまえ、女ができたな?」

この眼力には驚きましたね。こちらとしては「おっしゃるとおりです」とたじろぎながらも、破門覚悟で「結婚します」と申し伝えました。

すると、師匠は意外にも大きな笑顔を見せ、「そうか、よかったじゃないか!」と、ウキウキした様子で自ら仲人を買って出てくれたのです。

これはいったいどうしたことかと戸惑うばかりでしたが、いまにして思えば、師匠にとってはある種のやっかい払いみたいなものだったのかもしれませんね。のべつ幕なしに叱りつけなければいけない手間のかかる小僧を、嫁さんが引き取ってくれるのだから、ラッキーだと思っていたに違いありません。師匠のほんとうの胸の内を尋ねたことはありませんが、そうでなければ、あれほどうれしそうな笑顔の説明がつきませんからね。

なお、この結婚は思いがけない昇進にもつながりました。

師匠としては結婚を承諾した以上、前座のままではかっこうがつかないと、私を二つ目に昇進させてくれることになったのです。おまけに当時、私の上には同じく前座の兄弟子が七人いて、私だけを特別扱いするわけにもいかないからと、八人全員を一気に昇進させる大盤ぶるまい。

当時の落語協会の副会長で最高責任者にすぐ連絡できる師匠だからできたことですが、これには兄弟子たちからも泣いて感謝されました。

二つ目に昇進すると、少しずつ出番が増えて、テレビにも顔を出すようになりました。『笑点(しょうてん)』からお声がかかったのも、二つ目の頃です。

『笑点』はいまも昔も楽屋がとにかく楽しくて、メンバーといつもくだらないばか話をして盛り上がっています。中には本番前でナイーブになる落語家もいるのでしょうけど、私は笑いを届ける商売だからこそ、楽屋でのひとときを楽しいものにしたいと常々思っています。これは駆け出しの頃、先輩方から身をもって学んだことの一つかもしれません。

芝居や歌舞伎(かぶき)などと違って、寄席(よせ)の落語家の楽屋は個室ではなく、いつも相部屋です。大師匠から前座の小僧まで、みんなが同じ部屋で過ごすのです。これはすごくいいことだなと、いろいろな現場を経験してきたうえでつくづく感じますね。だって、若い人たちにとっては、それだけ先輩たちから学べる機会が増えるわけですから。

私が師匠や兄弟子からたくさんのことを学ばせていただいたように、下の世代にもたっぷり学ばせてやりたい。その思いで、2013年に、自宅の一階に「池之端(いけのはた)しのぶ(てい)」という寄席を設けました。

「大の筆不精でしたが、最近ではたくさんのお礼状を書くのが日課になりました」

私をこうして育ててくれた師匠方にいまからできる恩返しは、せいぜい墓参りくらい。では、師匠方から受けた恩を次の世代にも届けていくにはどうすればいいだろうか。それには弟子や若い世代の落語家たちが高座(こうざ)に上がる機会を少しでも増やしてやれれば、と考え抜いた結果が「池之端しのぶ亭」です。

そんなこんなで、75歳になったいまも、おかげ様で心身ともにまだまだ元気にやれています。2016年に『笑点50周年記念』の催しがあり、万全を期すためにスタッフに無理やり人間ドックを受けさせられたのもよかったですね。なまじ健康に自信があって病院嫌いを公言する、かつての私のようなタイプが思わぬ大病をするのをたくさん見てきましたから。

もっとも、この歳ですから、肉体的に多少のことがあってもじたばたするつもりはありません。ただ、これからも好きなことを思い切りやるためには、健康を保つことと、そして義理だけはきっちり果たすことが大切だと私は思っています。

これまで大の筆不精だった私ですが、最近ではたくさんのお礼状を書くのが日課になりました。仕事でお世話になった方、いただきものをした方などに、手書きのお礼状を送るんです。

せめて義理の部分だけきちんとしておけば、後は心おきなく好きなことに打ち込める。まさにこれが、いまの私にとっての元気の秘訣(ひけつ)です。相手の笑顔を思い浮かべながら、感謝の気持ちをこめて一筆(したため)る——。

始めたときには予想もしていなかったのですが、手書きでお礼状を書くのは、自分自身にとっても気持ちのいいものですよ。ぜひ皆さんも試してみてください。

三遊亭好楽さんからのお知らせ

『熱燗二本~噺家一代~』
三遊亭好楽さんが芸歴55年記念としてみずからの高座人生をモチーフに、その心情や信条を盛り込んで堂々と歌う王道演歌の名曲。カップリングには三遊亭好楽さん本人による、歌詞にも登場する有名な人情(ばなし)「芝浜」も収録されています。