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いまの芸風があるのは遠回りしたおかげです

私の元気の秘訣
落語家 鈴々舎 馬風さん

明るく豪快な高座をはじめ、歌やものまねなど多彩な芸をこなす鈴々舎馬風師匠。傘寿さんじゅを間近に控えたいまでも現役の落語家として高座に上がり、お客さんに笑いを届けています。いつまでも衰え知らずの馬風師匠に、元気の秘訣を伺いました。

家業を継ぐのを諦めて親の猛反対にあった噺家への道を進みました

[れいれいしゃ・ばふう]——1939年、千葉県生まれ。1956年、5代目・柳家小さんに入門し、1973年、真打に昇進。1976年、10代目・鈴々舎馬風を襲名。社団法人落語協会理事、副会長、会長を経て、2014年から最高顧問に就任。明るく豪快な高座に定評があり、演歌や百面相、ものまね、形態模写、司会など余芸も多彩。著書に『会長への道』(小学館)がある。

子どもの頃からとにかく落語が大好きで、特に中学時代はNHKラジオを夢中になって聴いていました。一方で勉強はからっきしダメだったから、ある日、中学を卒業したら落語家になりたいと親父おやじにいってみたんです。すると、「相撲すもうと落語はとにかく修業が厳しくて大変だ。おまえなんかに務まるわけがないだろう」と猛反対。そんなことより家業の理容室を継げといいます。

うちは千葉県の野田のだで八代続く理容室。手に職もつくし、食いっぱぐれもないし、いいことずくめだというのが親父のいい分でした。

そこでしかたがないので、中学卒業後は理容学校に進むことになりました。ところが、これが我ながらまったく向いていない職業で、ほとほと参ってしまいました。

例えば、僕が通っていた理容学校では当時、公園で暮らすホームレスのおじさんに頼んで、ひげをそらせてもらうという実習がありました。あの人たちはひげなんて長いことそってないから、毛質がゴワゴワでものすごく硬いんです。蒸しタオルを当ててもびくともしません。

どうしたものかと困っていると、ホームレスのおじさんが「もういいから貸してみな」と僕からカミソリを取り上げ、自分でスイスイとそり上げてしまいました。こりゃ自分にはとても無理な仕事だなと、嫌でも察しましたよね。

その後、インターン生として叔父の理容室に預けられることになるのですが、仕事中もラジオから流れる落語に気を取られているから失敗ばかり。あるとき、お客さんの眉毛まゆげをうっかり片方そり落としてしまって……。幸い、おおらかな人であまり怒られはしませんでしたが、自分としては理容師の道を諦めるのに十分な出来事でした。

現在も高座に上がり、豪放磊落な落語で聴衆を笑いの渦に巻き込んでいる馬風師匠

そうしてあらためて落語の世界を目指すことになるのですが、この世界に入るきっかけになったのは、親父のお客さんに鏡味小鉄かがみこてつさんの親類がいたことでした。小鉄さんは太神楽だいかぐらの曲芸師で、その世界に顔が利きます。紹介されるがままに小鉄さんに会いに行ったら、ちょうどテレビで先代・柳家小やなぎやこさん師匠の「粗忽長屋そこつながや」が流れていたんです。当時の小さん師匠はまだ若手でしたけど、ほれぼれするほどうまかった。すると小鉄さんがいうんです。

「小さん師匠はまだ若いけど、将来必ず名人になります。弟子入りするならこの人にしなさい。野田から通うのは大変だから、内弟子として入れてもらうのがいいでしょう」

もちろん、こちらとしても願ってもない話です。果たして、小鉄さんの顔もあって、弟子入りはすんなり許可されました。これが16歳のときです。

ただこのとき、僕は誕生日を目前に控えていました。そこで、「師匠、弟子入りの日を生涯忘れられない日にするために、17歳になる2週間後の誕生日から入門させていただけませんか」とお願いしたんです。師匠もこれを快く許可してくれたので、その2週間はとにかく遊びほうけたのを覚えています(笑)。

前座修業時代は笑いとトラブルにあふれていていい思い出ばかりです

掃除や洗濯など師匠の生活回りのお手伝いをするのですが、晩酌の日本酒を少しずつちょろまかして飲んじゃったりしてね。師匠が一升瓶の残量を見て、「あれ、減りが早いな。俺こんなに飲んだっけ?」といっている横で、「ええ、飲んでましたね」とすっとぼけたものです。

ただ、掃き掃除の最中にいきなり風呂場ふろばの戸が開いて、師匠のお内儀かみさんが素っ裸で立っているのに出くわしたときは、さすがに肝を冷やしました。案の定、すぐに師匠に呼び出されて「おまえ、女房の裸を見たんだって?」とすごまれたんです。

これは破門かもしれないとビクビクしながら、「はい、申し訳ありません!」と土下座したら、師匠は得意気にこういったんです。「どうだい、いいカラダだっただろう?」って。いまならセクハラだといわれかねませんから、いい時代でしたよね。

「90歳までは高座に上がりたい」と目標を語る

その後、落語だけでは食えない時期は、歌謡ショーのMCやキックボクシングのリングアナウンサーなどをこなして食いつなぎました。「落語家は落語だけやっていればいいんだ」という考えの師匠も中にはいました。地方巡業を伴う多忙な仕事でしたけど、僕の売りである歌や漫談で笑いを取る芸風は、この時期に育まれたものです。いまのかみさんとも地方巡業中に出会ったし、世の中に無駄な時間ってのはないものですね。

若い頃から、酒は飲みすぎるくらい飲みました。ただ、58歳でついに脳梗塞のうこうそくを患いました。直前まで弟子にマッサージをさせていたものだから、「あいつが馬鹿力でもむからだ」なんていってフラつきながら歩いていたのですが、これがとんでもない勘違い。病院で診察を受けて、即入院ですよ。

周囲のおかげで早めに処置できたのがよかったのか、幸いにして目立った後遺症は残らず、その後もこうして高座に上がることができています。やっぱり人間、健康第一ですね。最近は酒の量や食事の内容には、随分と気を遣うようになりました。

今年の12月には、僕も傘寿さんじゅを迎えます。さすがにもう、目標らしい目標はないけれど、三遊亭金馬さんゆうていきんばさんが90歳でまだ現役でしょ? これには負けたくないですね。最低でも90歳までは高座に上がっていたいので、まだまだがんばりますよ。