漫談家 松鶴家 千とせさん
「わっかるかなぁ~、わっかんねぇだろうなぁ~」の流行語を生み出し、爆発的な人気を博して一世を風靡した松鶴家千とせさん。本業の漫談以外でも、歌手や俳優、司会者として幅広い分野で活躍しています。「舞台で死ねたら本望だ」と新たなネタをいまでも披露しつづける松鶴家さんに、元気の秘訣を伺いました。
幼少期に満州で見た美しい夕日の光景が後にネタになりました
私が生まれたのは、満州の斉斉哈爾という町でした。とても寒い地域でしたが、幼少期には兵隊さんたちと野球をやったり、馬車に乗って町中を巡ったりした記憶がいまでもかすかに残っています。
当時暮らしていたのは、父が勤務する満州鉄道の社宅でした。その裏手に大きな沼があり、よく魚釣りをしていました。冬になると沼の水面が凍り、日没前には夕日が反射して、辺りを真っ赤に照らすんです。脳裏に焼き付いているこのときの記憶が、実は後の『夕やけこやけ』の歌ネタにつながっているんですよ。
日本に戻ってきたのは7歳のときでした。少しずつ日本軍の旗色が悪くなってきたことから、私たち一家も日本へ帰国しようと考えたのですが、父だけは「いいや、日本が負けるわけがない」とかたくなに譲りません。
それでもいよいよ敗色が濃厚になると、私たち日本人に対する風当たりは強まります。そこで身の危険を感じた母は、ひとまず父を残して6人を連れて帰国する決意をしました。逃げ出そうとしているのがばれると、日本に恨みを持つ人たちから何をされるか分かりません。そこで満州鉄道の従業員たちに協力してもらい、荷物を先に日本へ送り、それぞれ変装をして、まるで散歩でもするかのように、しれーっと町を出たんです。
一方の父は、ほどなくロシア軍の捕虜になり、その後6年ほど抑留されることになります。いまにして思えば、ほんとうに異様な事態ですよね。
日本に戻った後は、父方の親族がいる福島県の原町市(現在の南相馬市)に身を寄せました。しかし、私たち一家は八畳程度の物置に7人で暮らすなど、暮らしぶりは決して裕福ではありませんでした。なにしろ夜中に天井からぼとりとアオダイショウが落ちてくるような環境でしたから。これは怖かったですよ。
それに、私たちが住んでいた町のすぐ近くには、雲雀ヶ原臨時飛行場という軍の施設があったので、米軍の空襲を受けることもしばしばでした。幸いにして家が焼かれることこそなかったものの、警報が鳴ったらすぐに防空壕の中へ避難して、爆弾が降り注ぐ轟音の中で身をかがめてやり過ごす――そんな日々でした。
やがて日本の敗戦が決まると、すぐに米軍がやってきて日本を占領します。おかげでラジオをつけるとアメリカの音楽ばかりが流れるようになり、私たちの生活は一変しました。これがいまから75年前のことです。
中学生になったある日、たまたまラジオをつけたときに流れてきたのが、ジャズミュージックでした。それまで聴いたことのない、美しくてカッコいい音色を聴いて、私はすぐにジャズの虜になってしまいました。
高校生になってからも、畑仕事を手伝うかたわら、暇さえあればジャズを聴き、勉強はそっちのけ。そのうち、「いつかアメリカへ行ってジャズを学びたい」と思うまでになりました。まだまだ終戦直後の貧しい時期で、配給のサツマイモでどうにか飢えをしのぐような状況なのに、のんきなもんですよね。
夜逃げ同然で東京に行った目的はジャズを学ぶためでした
そんな中、転機は突然訪れます。私は当時、趣味でヤマガラやシジュウカラといった野鳥をたくさん飼育していたのですが、ろくに勉強もせずに鳥をめでてているのが長兄にはおもしろくなかったようで、ある日、雷が落ちました。大学から帰ってきた兄は、鳥の世話をしている私を見つけると、「おまえは勉強もせずに何をやってるんだ!」と鳥かごを蹴っ飛ばし、鳥を全部逃してしまったんです。
かわいがっていた鳥たちが一斉に飛び去っていくのを、私はただ泣きながら見送ることしかできませんでした。見かねた叔父が、私にこう尋ねました。
「おまえは将来、何がやりたいんだ?」
そこで私が「アメリカへ行ってジャズの勉強がしたい」と告げると、叔父は「分かった。じゃあ今夜8時に、誰にもいわずに駅へおいで」といいます。
いわれたとおりに家を抜け出して駅へ行くと、そこにはコメを一俵持った叔父が待っていました。そして、コメ俵を売ったお金を、私に持たせてくれたんです。そのお金をありがたく受け取ると、そのまま誰にも告げずに夜行列車に乗り込みました。つまり、夜逃げ同然に福島を飛び出してしまったわけです。
しかし、当時の私はやっぱりあさはかで、てっきり電車に乗っていればアメリカへ連れて行ってもらえるものだと思い込んでいました。しかし、朝になって到着した先は上野駅。
「おかしいな。こんなはずじゃ……」と思いながら改札で途方に暮れていると、駅で寝泊まりしていた傷痍軍人のおじさんが声をかけてくれました。
「どうした坊主。家出してきたのか?」「いえ、ジャズを習いに来たんです」
するとおじさんは、手にしていた新聞紙をびりびりと破き、私に渡してくれました。そこには、新橋にあるジャズ教室の広告が掲載されていたんです。これが1953年のことでした。
何のあてもなくやって来た東京でしたが、ご縁があったのかもしれません。訪ねたジャズ教室で出会った女性が「寝るところがないなら、とりあえずうちへいらっしゃい」と連れて行ってくれたんです。それが夫婦漫才で有名な松鶴家千代若・千代菊が暮らす長屋でした。
といっても、当時は漫才がどういうものかよく分かっていませんでしたが、私は歌の稽古のかたわら、イヌの散歩や荷物持ちなど、お二人の身の回りのお手伝いをすることになりました。特に志願したわけではありませんでしたが、付き人のようなことをやっているうちに、いつしか自然と住み込みの弟子として扱われるようになりました。
「わっかるかなぁ~」はお客さんといっしょに作ったネタなんです
ある日、師匠が出演する寄席を見学する機会がありました。私にとって、初めて目にする漫才です。
2人は舞台の中央へ出ていくと、千代若師匠が千代菊師匠に、「もう帰ろうよぉ」とお決まりのギャグをいう。すると、満員の客席がどっと笑う。舞台袖から見たその光景は、私にとってはなんともいえずカルチャーショックでした。ジャズしか知らなかった私からすると「こんな世界もあるのか」と、まさしく目から鱗が落ちる思いだったんです。
この日から、私の漫談修行が始まります。幸い、歌を歌える特技があったので、割と早い段階で客前に出させてもらうことができました。お祭りでネタをやらせてもらったり、松竹演芸場で前座を務めさせてもらったり、新人でありながら場数を踏む機会をたくさんいただけたのは幸運でしたね。
そして4、5年ほどした頃、師匠からこういわれました。
「お前もそろそろ一本立ちする時期だから、ちゃんと食べていけるよう、腕を磨きなさい」
これは当然、芸を磨けという意味でしたが、私はまたしても勘違い。「手に職をつけなさい」という意味だと解釈して、いったいどんな仕事をしようかと考えはじめます。その結果、いったん東京を離れて、実家のつてをたどって青森県の理容学校に入学することに決めました。
これには周囲も唖然。しばらく姿を見せないと思ったら、1年後にひょっこり理容師の免許を取って帰ってくるのですから、ワケが分からないですよね。当然、師匠からも「バカヤロー!」とどなられました。
ただ、何が幸いするか分かりません。その後も舞台に立ちつづけてはいたものの、いまひとつ人気が出なくて悩んでいたところ、ふと、風貌を変えてみようと思いつきました。それまで短く刈ってポマードで固めていた髪型を、いっそ黒人歌手のようなアフロヘアに、大胆にイメチェンしてみようと考えたんです。
ここでものをいったのが、理容師の技術。ロットがないので、割り箸を4つ折りにして代用し、短い髪の毛を少しずつ自分で巻いていきます。最初はちょっとアンバランスでしたが、髪が伸びるにつれて少しずついい感じになってきました。
もちろん、アフロヘアにしたからといって、すぐに人気が出るわけではありません。しかし、少なくとも人に覚えてもらえるようにはなったのでしょう。あるとき、浅草にある木馬亭の支配人から「あなたは歌も歌えるんでしょ。うちに出てみない?」と声がかかりました。
木馬亭は安来節の常打小屋で、その幕間で漫談を披露するのが私の役目。これはチャンスだと、張り切って出かけました。
ところが、お客さんは皆、安来節を楽しみに来ているわけだから、私が出ていくとさっさと席を立ってトイレへ行ったり、タバコを吸いに行ったりしてしまいます。おかげでいつも、ほとんど客のいない状態でネタをやらなければなりません。
私も芸人ですから、どうにか一矢報いたいと頭をひねります。そこで、席を立とうとするお客さんに向けて、半ばやぶれかぶれでピースをしながら大声で「イェーイ」とやってみました。すると、さすがにお客さんも足を止めてこちらを振り返ります。
そして間髪入れずに、「わっかるかぁ~! ババア、ジジイたちにはわっかんねぇだろうなぁ~」と悪態をつく。すると当然、お客さんは怒るわけですが、私からすれば怒るということはこちらを見てくれたということですから、これがまんざらでもありません。
その後もステージに立つたびに「わっかるかなぁ~、わっかんねぇだろうなぁ~」とやっていたら、しだいにこのフレーズが定着して、町を歩いていると「わっかるかなぁ~の人だ」と指をさされるようになりました。ついには私がステージに登場すると、客席から「わっかるかなぁ~!」「わっかんねぇだろうなぁ~!」とやじのような声が飛ぶようになったんです。
このときに頭をよぎったのが、初めて舞台袖で見た松鶴家千代若・千代菊師匠が「もう帰ろうよぉ」で大爆笑を取る光景です。自分にも、そういう代名詞のようなフレーズができたのだなと実感した瞬間でした。つまり、「わっかるかなぁ~」というギャグは、お客さんといっしょに作り上げたものなんです。
健康管理の点では女房にはほんとうに頭が上がりません
そうしてようやく少し売れはじめたやさき、私は結核を患ってしまいます。自覚症状はまったくありませんでしたが、ある日のステージ終わりに、女性ファンからこう指摘されたんです。
「目やにがすごいけど、大丈夫?付き添ってあげるから病院で診てもらいましょう」
そこでしぶしぶながら病院へ行ってみたら、診断結果は初期の結核。発見が早かったおかげで、薬で治すことができましたが、あのまま気づかず重症化していたらと考えると……ゾッとしますよね。ちなみに、そのときの女性ファンというのが、いまの私の女房です。
健康管理の点では、女房にはほんとうに頭が上がりません。30代の頃、多忙が続いて心身に不調をきたし、対人恐怖症を発症したときも、女房は「人混みに慣れることから始めましょう」と、毎日私を競馬場や競輪場などに連れ回しました。
この荒療治を根気よく3ヵ月ほど続けた結果、私はどうにか人前でも正気を保てるようになり、舞台への復帰を果たします。だから、シングル『わかんねェだろうナ(夕やけこやけ)』のヒットや放送演芸大賞をいただいたことも、女房なしにはありえなかったでしょうね。
そんな私も82歳になりますが、幸いにしてまだ元気に現役を続けていられます。秘訣はおそらく、声を出すこと。最近は新型コロナの影響で満足に出歩くこともできませんが、歌の稽古は欠かしません。大きな声を出すというのは、腹筋を鍛えられるし、思いのほかいい運動になるんです。それに何より、大声を出しているとおなかがすくから、ご飯もたっぷり食べられます。これが健康にいいんですよ。
歌を歌うのが苦手なら、どんどん人とおしゃべりをすればいい。いまは直接会わなくても、携帯電話でいくらでも人とつながることができる時代ですからね。体調が優れなかったり、気分がさえなかったりする人は、ぜひ試してみてください。